コンビニから出るとふわりと少し熱を持った風が髪の毛や服を揺らす。 きらきらの太陽がやさしく人々を包んでいるような錯覚を覚えた楸瑛はすこし眩しそうに目を細め、満足気な顔をして目的地へと歩きだした。 この日は授業は午後に三つ。正午を少し過ぎたばかりなため時間はまだあるのだが歩調は速い。軽快なリズムを刻んだ足音とにこやかな表情は楸瑛が柄にもなく弾んでいることを明確に表している。整った顔立ちにすれ違う女たちが振り向ききゃあきゃあいうその声が聞こえていないのか、楸瑛は全く反応することなく目的地へと最短の道のりを進んだ。 大学から徒歩十分ほどのその街はこまごまとした店が雑多に立ち並ぶ若者の街であるが、住宅街と隣り合わせているため少し歩けばすぐに閑散とした雰囲気に包まれる。 いくつか角を曲がると線路沿いの道に出る。そこで楸瑛は足を止め、顔をあげた。すぐに笑顔になる。 数メートル先には線路をまたぐようにして歩道橋がかかっていた。 いったん時計を確認するとコンビニを出てから五分ほどしかたっていない。コンビニがある一画から歩道橋までは楸瑛の歩幅で五分。毎回のことなのだが時間を確かめる癖ができていた。 彼がいる。それを確信するために。 逸る気持ちを落ち着かせるようにいったん深呼吸。 そして止まっていた足を動かす。 歩調は―――先ほどよりも、速い。 歩道橋の階段をのぼると徐々に見えてくる景色は―――いつもと変わらない。 初めに幾筋かの銀糸が風に舞っているのが見えるのだ。 少しずつ、明らかになる全貌に、ドキドキと高鳴る胸。嬉しくて息が詰まる。 うつむき加減の不機嫌そうな横顔を確認して、楸瑛は歩調を遅めた。 歩道橋の通路の壁に寄りかかるように座っている彼、李絳攸は楸瑛の大学の同級生だ。 レポート用紙に何かを書きつけている絳攸はまるで楸瑛の存在に気づいていないようだ。 書き終わった剥がされたレポート用紙が地面に無造作に重なり、風で飛んでいかないように上に重石代わりの筆箱が乗っけてある。ひらひらと紙の端が揺れるのと、隣に積んである教科書を見て楸瑛は呆れた。 この歩道橋は昼間だろうと人通りがほとんどないのだ。だからといって公共の場にこのように私物をばらまいていていいものなのか。 初めて此処で絳攸を見かけたときも、先週も、昨日も、そして今日ですらこの状況は全く変化することがない。つまり楸瑛は絳攸とこの歩道橋で会うたびに毎回呆れることとなる。 というのはこの李絳攸が、こんな人間だとは露ほどにも思っていなかったからだ。 李絳攸といえば、同じ大学の人間で彼を知らない人はいないとう程の有名人である。 楸瑛の通う大学の新入生総代を務めた彼は、ついこの間まで高校生だったとは思えない立派なあいさつを堂々と述べたのだ。寝ようと考えていた楸瑛が思わず聞き入ってしまうほどのスピーチであった。ちなみに入試の点数はそれまでの史上最高点を大きく上回ったらしく、教授たちの間で随分騒がれたらしいと入学してから聞いた。 しかし大学きっての、否日本屈指の天才は、その抜きんでた頭脳のために同年代からは敬遠されがちで、なおかつ面白半分でお近づきになろうとした同級生を冷たくあしらったとか。精悍できれいな顔立ちをしているのがまた近寄りがたい雰囲気を増長させるのだ。 楸瑛はどちらかといえば当初はそんな絳攸に目もくれなかったのだが。 「ん?なんだお前か」 絳攸がレポート用紙から顔をあげる。 「君は相変わらずだね。図書館やカフェじゃなく道端で勉強するなんて」 「静かすぎるのも煩すぎるのも好きじゃない」 「だからってここを選ぶかなあ」 「うるさい。文句しか言わないならどこか行け」 楸瑛は気にせず絳攸の隣に腰かけた。 絳攸の視線はもうレポート用紙に戻っていた。 「それにもの好きなのはお前だって同じだろ」 「私は君みたいにこんなところで勉強はしないよ。お昼ご飯を食べに来てるんだ」 「食堂やレストランを使わずに結局毎日毎日懲りもせずにここに来るんだからあんまり変わらないだろう」 「そう、それもそうだね」 そう。楸瑛はほぼ毎日この歩道橋にやって来るのだ。わざわざコンビニや弁当屋で昼食を買って閑散とした歩道橋で食べるようになって約一カ月となるのだからもの好きといわれても仕方がないが、その指摘はどこか背徳めいた響きを胸中にもたらし、ごまかすように楸瑛はコンビニの袋の中をあさった。 「ご飯は?」 「食べた」 「私が来るまで待っててくれてもいいだろう。ほら、一人より何人かで食べたほうがご飯はおいしいって」 「あいにく俺はキリスト教徒じゃない」 「キリスト教の文化なの?」 「知らん。イメージだイメージ」 天才は神経質に見えて大胆かつ不適で大雑把でガサツだ。――そして、律儀で不器用ながら優しい。 レポート用紙にものを書きつけながらでも、絳攸はこのように律義に返答してくれる。 とっつきにくいという噂が真実ただの噂であったことを知って約一ヶ月。 その一ヶ月前に楸瑛はここで絳攸と出会ったのだ。 その時楸瑛はそれは驚いた。 偶然通りかかった歩道橋に人が私物を散らかしていたのだ。 いくら人通りが少ないからと言って非常識な、と思い顔を見たら、なんと正体は大学一の秀才で思わず「李絳攸?」と名前を呼んでしまって、それに反応した絳攸になぜか不審な目で見られ「何だ、何か用か藍楸瑛」と不機嫌そうに返された。 そのとき楸瑛は名前を覚えられているという事実に柄にもなく感動して、焦って「君、こんなところで何をしてるの?」と尋ねたのだった。質問を口にしてからレポート用紙の内容をちらりと確認して莫迦な質問をしてしまったと後悔したが絳攸はちゃんと答えてくれた。 ―――宿題だ。 ―――ええっと、その様だね。そういえば図書館で君を見かけた事無いけどいつもここで? ―――ああ。あそこは勉強しようとやって来て実際してないやつが多いから嫌いだ。 ―――そう。 会話が途切れ、このままさようならいうのもな、と思考を巡らせている楸瑛に絳攸は抑揚のない声で一言、座ったらどうだ、と言ったのだ。 その時楸瑛は何となく、李絳攸という人物像がつかめた気がした。不機嫌そうな顔、抑揚のない声、そして短い返事。 決してお高くとまっているわけではなく、これが彼にとって普通の状態なのだ。 現に質問には答えるし、会話につまり気まずい思いをしていた楸瑛の心情を察した。 そういう人なのだ。ただ誤解されやすいタイプなのだろうという結論に達した。 なんだ、彼も同じじゃないか、と思った。 天才やらなんやらと騒がれ、雰囲気ゆえに遠ざかっていたのはこっちのほうだったのだ。李絳攸は幽霊でも何でもない少し不器用で自他に無頓着な人なのだ、と改めて認識した楸瑛は肩の荷が下りたようにほっとしたのを覚えている。 それ以来絳攸に近づこうと努力したが学校内ではなかなか動向がつかめず煮詰まっていた楸瑛は数日後にもしやと思いこの歩道橋にふらりと立ち寄った。そうしたら前回の邂逅同様に絳攸はそこで難しい顔をしながら本を読んでいたのだ。 思わず力が抜けて笑ってしまった楸瑛を絳攸は煩そうに睨みつけ、実際に煩いと言った、 それ以来約一カ月。楸瑛は正午に授業がないときはたいてい歩道橋にやってくる。そこには必ず絳攸がいる。 何の約束もしなくても、楸瑛が行くと絳攸はいるのだ。 ぼんやりと過去を回想しているとなんだかくすぐったくなり、ごまかすように楸瑛はペットボトルを開け冷たい水を飲んだ。 ひんやりとした感触に頭がすっとする。 「おい、眩しい」 「ん?」 「そのペットボトル。光が反射してちょうど顔に当たる」 「ああ、ごめん。気づかなかった」 楸瑛は少しだけ場所を移動した。ペットボトルの周りに付いた透明の雫を眺める。 日に日に暑くなっていく。夏は近いのだろう 「それにしても」 思考がそのまま口をついたため抑揚のかけらもないただのつぶやきとなった。 「夏はどうするのかい?」 「何がだ」 独り言にも付き合ってくれるのが彼らしいと思った。 「これからもっと暑くなって、日差しも今より厳しくなるっていうのにそれでも君は此処で勉強するのかい?」 「いや、夏は苦手だ」 答えになってないよ、と楸瑛は笑った。 「雨の日はさすがに私はここには来ないから確かめようもないけど、君だって来ないだろ。濡れることを気にしていたら勉強に集中できないだろうから」 「まあな」 「だから夏はどうするのかな、って思った。蒸し暑いと勉強も読書もはかどらない」 「そうだな。俺は夏のあの莫迦らしいほどの熱気は嫌いだから、そういうときは雨の時と同様に家だ」 「ふーん。なら」 暑くなったら君に会えなくなるんだ。 「だったら何なんだ?学校で会えるだろ」 「あいにくだけど私は学校で何度も君を探したんだよ。けれど君は授業直前に来て前の席に座って、授業後にはいつの間にかいなくなってるから話す時間なんてあったもんじゃない。それに結局夏休みは会えないんだろう」 言いながら楸瑛は途中で何をむきになっているんだ、と可笑しくなる。絳攸もきっと呆れているだろうな、と思ったがとまらなかった。 この時間を楸瑛は思っていた以上に楽しみにしていたのだということに改めて気付きうろたえた。 「何子供じみた事を言ってるんだ。意味不明だ」 顔を楸瑛に向けた絳攸は眉を寄せていた。その表情は一見すると不快にもみえるがたった一ヶ月でも絳攸を見てきた楸瑛には困惑しているように映った。 「今までほぼ毎日あってたのに君はそれを夏の暑さだとか意味不明とかで片付けるのかい」 「本当に何なんだお前」 支離滅裂なことを口走っている自覚なら楸瑛にはあった。v ただこの歩道橋という場所でなら普通に会話できるくらいに絳攸と仲良くなれたのに、それが気候のせいで邪魔されるのが、そして気候のせいでできた長期休暇によって阻まれるのが、そしてそれを絳攸が当たり前だと思っているのが詰まらなかっただけだ。 何を此処までむきになっているのか。言いがかりもいいとこだ、と楸瑛は自嘲する。 ―――ただ、近づきたかっただけなのに。 そこまで考えて楸瑛はある感情を、それまでは曖昧模糊のまま見ないふりをしてきた感情を自覚した。 当惑したが毎日こんな人通りが少ない歩道橋にうきうきしながら通っていた理由は、会えなくなることにこんなにむきになっている理由はそれしかない。 そう考えるとしっくりくる。 不思議と違和感なくすんなりとその感情は楸瑛になじんだ。 「大体会えなくなるだのなんだの言ってもお前が毎日勝手にここに来てるだけだろうが」 「なら」 ろくに地面を見ないでペットボトルを置いたため、少し転がったが気にならなかった。 プラスチックに、そして雫に反射した日光が銀糸をきらきらと照らす。 「なら約束しよう。明日も明後日も雨の日も暑い日も毎日」 知らず知らずのうちに絳攸の左手をつかんでいた。 見開かれた色素の薄い瞳に映った自分の顔がやけに真剣で作り物めいていて可笑しかった。 「ここで待ち合わせしよう。それからどこか勉強できるところに移動すればいい」 それなら毎日会える。 「あ、嫌だって言っても無駄だよ。君が来るまでずっと待ってるから。嫌がらせのように、ね」 「ば、莫迦かお前!そんなことして何の意味がある!」 困惑している様子に楸瑛は笑った。 手を振り払おうと力を籠められても放してやらない。 「意味ならあるよ。大いにある。君にはまだ秘密」 「な」 「君に残された選択肢は、ずっと待つと言っている私を無視し続けるかもしくは首を縦に振るかだけだ」 沈黙の間に初夏の風が吹き、横たわったペットボトルを揺らすたびにきらきらと絳攸の銀糸も光った。 ずるいとか卑怯だとか、そんなものは考えない。 楸瑛は確信していた。 彼は、たとえ宿題をしていても本を読んでいてもくだらない話に付き合ってくれる絳攸は、必ず首を縦に振る。 「―――わかった。好きにしろ」 絳攸が再び左手に力を入れたのを、今度は素直に解放した。 眉を寄せたままひらひらと左手を数回振るのを眺めて早速次の手を打つ。 「ふふふ。携帯出して」 「何でだ?」 「約束遂行のためには必要」 ほらほらと催促するとしぶしぶといった様子で地べたに置いてあるバックから白い携帯電話を取り出し楸瑛に渡した。 意外に押しに弱いのかな、などと考えながらもアドレスと番号を勝手に交換する。 「はい、ありがとう。勉強続けていいよ」 訝しげな表情で携帯を受け取る絳攸の顔にはありありとこいつ頭がおかしいんじゃないかと書いてあり、小さく呟いたようにも思えたが楸瑛はそれを丁寧に無視した。しばらくすると首をひねった絳攸は再びレポート用紙に向き直る。 楸瑛はその横顔を見つめた後、転がったペットボトルに手を伸ばし、まだ十分に冷たい水に口をつけた後空を見た。 快晴。 晴れ晴れとした楸瑛の心から力がみなぎる。 気づいてしまったのなら手は抜かない。 第一歩はこの歩道橋の偶然を約束というより確固たる形にしたことだ。 ―――さて。これからが大変だ。 青空を見ていた楸瑛の視界をきらきらと光るものが掠め、今度はくすぐったさをごまかさずにおもいっきり表情に現した。 この顔をいつかこの空ではなくて今隣にいる絳攸に見せられる日が来るように。 2009/7/1
下北座の歩道橋がモデルです。
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