助手席の背もたれに体を預けながら夜景を視るなんて優雅なことは、こんな時間じゃ無理だ。街の明かりは七割消え、道路を照らすライトや建造物の電灯と最低限。都心だが周りに車はない。 マンションに着いたら新聞が届いてるかもしれない、そんな時間。車のデジタル時計が示すのは午前三時と少し。夜明けまであと二時間ほど。
 暗い窓は鏡となり、スーツ姿の自分の奥に動きやすいシャツを着た男が映るのを、絳攸はぼんやりと眺めた。
「寝てていいよ」
 運転席の楸瑛が正面を見たまま言った。
「いや大丈夫だ」
 お互いオーバーワークにオーバーワークを重ね確実に疲労が蓄積されている。
 ふらふらな状態でスタジオを出てタクシーを捕まえようとしていた絳攸に車に乗った――数日前よりやつれた楸瑛が送って行くよと声をかけて―――。とにかく同じように疲れている相手の横で自分だけ寝るなんて絳攸には出来ない。
「私のことは気にしなくていいよ」
「別に…」
「ありがとう」
「…もうすぐ着く」
 疲れていた。身も心も疲弊しきっていた。
 絳攸の担当する雑誌の特集で、カメラマンとページ担当者の意見が思いっきり食い違うトラブルが発生し、とにかく走りまわった。双方の意見を聞き角が立たないように取り持ちつつ、妥協点に頭を下げるの繰り返し。
 作り物の笑顔と申し訳なさそうな顔の連続。
 出来あがった他のページの確認や、今回コラムを書いている作家の入稿日を部下が間違え謝りに行き急ぎで書いてもらい、それをチェックして―――とにかく忙しくて眠る時間など取れなかった。  おまけに揉めているカメラマンとの仕事はまだ終わっていない。それ以外のページは印刷前の最終確認まで終わらしてあり、今のところもうすることがなく、明日スタジオが取れないため出版社側の絳攸やカメラマンサイドの楸瑛は一旦帰ることが出来たのだ。
 一週間休日も働いて家に帰れた一日は泊まりの準備をするためで、直ぐスタジオに引き返した。
 身を粉にして働いている自覚ならそれなりにあるが―――それでも絳攸はその仕事が好きだ。
 納得いく物が出来た時の達成感と喜びは何事にも変えられない最高の気分を与えてくれる。
 ただ、うまくいかない時偶に感じる虚無。何かを犠牲にして、何のために働いているのか。
 重たい頭は意識が明快なだけで、破裂しそうなほどパンパンに膨張している気がする。
 水底へと沈んでいくような感覚は息苦しくて――――呼吸の仕方がを忘れてしまう。
 ネガティブなのは疲れからだと解っているがそれでも止めようもなくただ墜ちて行く。
 鉛が隙間なくみっしりと詰まっているような愚鈍な脳に、眩暈と吐き気がした。


 不意に小さな衝撃が絳攸を襲いはっとした。
 眠ってはいないがぼんやりとしていて気付かなかった。窓の外には絳攸が住むマンション。ならあれは車が止まった時の反動か。
「着いたよ」
「ああ、サンキューな」
 緩慢にシートベルトを外す。
「どうも」
 楸瑛は助手席を振り返り笑顔を見せた後、少し何か考えるように眼だけ上方に向けた。もう一度絳攸を映す瞳は甘えを含んだ薄い光を宿していたが、真っ直ぐだった。
「―――ねえ、泊めてくれないかい?」
 ドアを開けようとしていた絳攸の手が止まる。首を少し捻りあとは目だけで楸瑛を見た。視線を受けて男はハンドルの上に腕を組み頬を乗せる格好で見返す。
「これから帰るのはさすがに辛いんだよ」
 楸瑛は笑っているが目の下のクマや低い声にいつもの張りがなく、疲れは隠せていない。
 それはそうだ。
 今回のカメラマンは気難しく、同じく独立したカメラマンである楸瑛が指名され、特別にアシスタントについた。重い機材やオブジェを運び、カメラマンの高い要求を出版社側に言葉を選びながら伝え、予算を超えるから無理だと言われ、頭を下げ、いくらかクオリティが下がった出版社側の提案をカメラマンに伝え、憤るのをどうにか抑え、スタッフ達に指示を出し、自らも積極的に動き―――…。つまり絳攸と同じくらい疲れている。
「今回だけだ」
「ありがと」
 絳攸がドアから手を離すと楸瑛はぱっと起き上がり近くの有料駐車場に車を入れた。
 車を出て少し歩くと明るいエントランスに差し掛かる。
 ポストを確かめたまっていた新聞や郵便物を持ってエレベーターに乗ったが、会話はない。
 十一階まで直ぐだった。
 エレベーターを出て正面の曲がり角を左に曲がる。右側の三つ目。それが絳攸の部屋だった。
 鍵を回しながら絳攸は思う。
 本来ならば断るべきだろうと。
 楸瑛は絳攸に好意を寄せている。友情などの所謂ニュートラルなものではなく、恋愛感情だ。そんな相手を家に入れるべきではないことは解っていたが、楸瑛が感じている疲れが理解できるから―――断れなかった。
 ドアを開けて先に入った後、楸瑛を招いた。
「鍵は二つとも閉めろよ」
「了解」
 短く薄暗い廊下を渡った。久々に帰る家は窓を閉め切っていたため少し埃臭い。鍵をかける音が響き、生き物がうごめく気配は楸瑛が靴を脱いでいるのだろうと解った。リビングの明かりをつけソファーに郵便物を軽く投げた。少しバラバラに散らばった状態からは、今日の新聞がもう届いていたか解らない。
 ネクタイに手をかけ解き、ソファーへ同じように投げつけた。Yシャツの第一ボタンを開け、一息。引き出しから二着のスウェットを出し、ローテーブルの上に置いた。ソファーは郵便物とネクタイで もう人が座るスペースは無く、疲労困憊な絳攸は床に座った。
 気配がした。背中に微かな熱と空気の流れが遮られたためなのか、圧迫感のようなものを感じ振り返ると―――楸瑛が見下ろしていた。
「冷蔵庫の物は勝手に使っていい。コップも」
 了解、と言いながら楸瑛は絳攸の正面に回り同じように地面に座った。
「ベッドは―――お前が使え。俺はソファでも床でも寝れる。で、これが部屋着」
「ありがと」
「トイレはそこで風呂は奥だ」
 さっき通った廊下の横にあるドアを指さした。
「ああ」
「何か解らない事があるなら今言え。寝たら殴られても起きない自信がある」
「うーん、大丈夫、かな」
「そうか。なら俺はもう寝るからな」
「今日は本当に助かった、ありがと」
「気にするな、おやすみ」
「おやすみ」
 絳攸は袖口のボタンに視線を移し手をかけた。
 会話が終わった気配に楸瑛の意識が他に移るのを感じ、躊躇ったが結局今回の仕事の戦友と もいうべき男に短い労りの言葉を贈った。
「――――お疲れ」
 それなりに長い付き合いなため、妙な気恥ずかしさから返事を待たず楽な格好に着替えようと足に力を入れようとしたのだが。
「絳攸」
 名前を呼ばれ立ち上がるタイミングを逃した。
 楸瑛が床に手をつき上半身を少し乗り出す。顔が近くなった―――と思ったら覗きこむような体勢で。真剣な顔で。
「君は全く―――。そんなだと付け込まれてしまうよと私は昔から言ってきたよね」
「俺も何度も言ったがそんな隙はない」
 ドキッとしたのが間違いだった。絳攸はいくらか剣呑な声であしらおうと眼の前の顔を睨みつける。
「認識の違いか尺度の違いというやつなんだろうね。私は半ば君に付け込んで家に上げてもらってるつもりだけれど」
「死人みたいな顔したヤツを放りだせるか。辛いと言ったのが嘘なら今から帰れ」
「それも本当だから御免蒙るよ」
 楸瑛は少しおどけた顔で笑った。
 怪しげな方向に進みそうなのがどうやら軌道修正できたようで絳攸はほっとしたと同時に、それとは知れぬよういろいろ気を回していたためどっと疲れたのが声に表れた。
「ならそのよく回る口を閉じろ」
「解ったよ。でも本当に夜に簡単に人を入れるのは感心しないから。こういうのは私だけにしてね」  茶目っ気を含んだ調子で語られた言葉をろくに聞いてなかった絳攸は疲労から生返事でああと言ったのだが、失敗だった。突然空気の流れが止まったかのように静寂が満ちたのを不審に思ったときには。
 腕を引かれた。強くはなかったが、弛緩していた体は前に倒れ、楸瑛に受け止められる。 好きだよと。
 君が好きだと耳元で熱っぽく言われ抱きしめられ―――目を見開いた。肩越しに見える風景が回って―――痛くはなかったが背中に固い感触。
 楸瑛の整った顔が近づき―――絳攸は目を閉じた。
 額に柔らかいものが触れて―――。それ以外、解らなかった。





***

 寝返りをうつと首が痛い。
 絳攸は枕が頭の下にないことに気付き、手を伸ばすが壁のような少し感触が違う変なものにあたるだけで空振り。
 そういえば首だけではなく全身痛いな、何でだと思いながらしぶしぶ薄く目を開けると五十センチほど離れたところに顔があった。昨日のままの動きやすいシャツで、右を横にして寝ている相手は。
 ああ、昨日泊まったんだっけと思い出した。全身痛いのは床に寝転がってたからか。手にぶつかった妙なモノは楸瑛の腹や胸なのか。
 まだ起きる気になれないから仰向けに転がったまま伸びをすると、日が射しているのに電気がつけっぱなしなのに気付き、それをきっかけに記憶がどんどん蘇ってきた。
 とにかく疲れていた。車で送ってもらって、帰宅。好きだと言われて。押し倒され―――――。
 ―――全く何を考えてるんだコイツはッ!
 急激に覚醒した絳攸は殴ってやろうかと仰向けのまま左手を振り上げたが。うーん、と。何とも幸せそうな寝息と寝言に脱力して腕を床に下ろした。
 何にも覚えていないが何もされていないのは解る。
 絳攸はワイシャツのままだったし、何より背中が床に着いた瞬間。
 もう駄目だと――――。
 瞼が完全に下がり―――――――――。
 寝た。
 抵抗云々よりなにより眠気には勝てなかった。
 それはもう泥のように眠るとはまさにあのことだろうと思うほどぐっすりと。
 壁に掛けてある時計は正午を過ぎていた。窓を閉め切っているが、近くの工事の音が聞こえる。そんな日中の気配に何一つ気づくことなくただ眠っていたなんて。
 ごろんと左が下になるように体を少し回転させ、いまだに目覚めない愚か者を観察する。
 整った顔だが寝顔もかっこいいなんて厭味な奴。
 ヨダレでも垂らしてたら思いっきり爆笑してやるのに。
 おそらく。
 憶測でも絳攸は確信する。
 楸瑛もあの後、ほぼ同時に寝たに違いないと。
 紳士だとかそんなんじゃない。もっと単純なはずだ。
 だって疲れていたんだ。
 二人とも相当に。
 絳攸の額に唇を押しつけたところで限界だったから、そのまま楸瑛も崩れ落ち正体もなく眠った。
 まだ起きてない分、疲労が濃かったのか、それとも単に寝汚いだけなのか―――。
 絳攸は唇を攣り上げた。
 端整だがどこか間抜けな寝顔を見てると笑えてくる。
 くっくっくっと込み上げてくる笑いを噛み締め、一分ほど一人でそうしていた。
 こんな莫迦げたことを面白がられる余裕が心に残っていたのかと、そう思えることが救いだった。 もしかしたらひたすら寝たせいなのかもしれない。寝すぎて頭が痛いが心は軽い。
 まだやれるんじゃないか。
 長時間睡眠をとったせいで頭は重いままだが、破裂しそうな圧迫感と鈍さは消えていた。
 再び仰向けになり両手を少し宙に浮かせた後床に広げたら―――。
「グッ」
 柔らかい何か――おそらく楸瑛の顔に左手がぶつかった。
 カエルが潰れたような声に起こしてしまったとかぶつけて悪いなどの罪悪感は瞬時に消え去り、絳攸は吹き出し盛大に笑った。
 強くはなかったが最初の衝撃と爆笑にさすがに楸瑛は目覚める。
 ぼーっとしたピントの合わない目で見つめられているのかそうじゃないのかわからない。ニ三度瞬きして寝起きのあどけない顔をしている楸瑛は、起きるきっかけとなった一撃には気づいてないようなので絳攸は黙っていることにした。
「もう昼だぞ」
「え―――?ええ!?嘘だろ?」
「時計見ろ」
 壁にかかってる時計を指さすと楸瑛は寝すぎたのが嫌だったのか前髪をかきあげ変な顔をしたので絳攸はフォローした。
「それだけ疲れてたんだろ。俺もさっき起きた。おはようっていうのもおかしいが」
「おはよう。せっかくの休日が意識ない時に終わりかけてるって切なすぎる。ああ、つくづく年はとりたくないものだね」
「ああ。俺も入社当時はもっといけたな」
「今度から荷物持ちは若手に頼もうかな」
「それがいい」
 二人とも仰向けに寝転がりながらだった。
 顔を見ないのは―――昨夜の出来事の多少の気まずさから。どこか空々しい。
 楸瑛が何も言ってこないのは、昨日の告白は疲れていたから思わず言ってしまったのものだからだと絳攸は理解した。
 普段の俊敏な脳ならあのような命令は出さなかったはずだ。
 このままとぼけて曖昧にして―――なかったことにするらしい。
 なんだかそれもつまらないな、と絳攸は目をつむり額に手を当て呼吸をした。
 昨日と変わらないはずの脳からの命令伝達と、それを受けた呼吸器と筋肉の動作は、今日はスムーズだと思える。それは単純にぐっすり眠ったために電気信号が障害なく迅速に届いたからなのか。
 それとも心の問題なのか。
 余裕が出来たから。
 なら。そうしてくれたもののなかに、楸瑛も入っているのかもしれない。
 あくまで大部分の要因が睡眠で、楸瑛はほんの一パーセントにも満たないが。
 少し離れた隣で、何かが動く気配。
 閉じていた目を半分開けると楸瑛が起き上がろうとしていた。
「楸瑛」
 片膝を立てた体勢で上体をひねった楸瑛と視線をぶつける。
「ちょっと来い」
 右手で手招きで顔を近づけさせた。
 残りの距離は―――楸瑛の後頭部に手招きしていた手を伸ばし捕まえ、そのままグイッと下に引っ張ってつめた。
 バランスを崩したらしく顔の両脇に腕が置かれる。
 目を開けたままの絳攸は近すぎてピントがずれた楸瑛の瞳を真っ直ぐ映した。
 起きたばかりの乾いた唇の感触は夢のような甘ったるいものは与えることはなく、絳攸は冷静にこんなものだと思っただけだった。だが楸瑛が明らかに強い衝撃を受けていることは窺え、それに優越感を感じ満足した。
 軽く唇同士が触れただけで直ぐに頭に回されていた腕の束縛がなくなっても、楸瑛は絳攸からニ十センチほどの距離を取っただけで目一杯に瞠目しひたすら驚いている。
 顔の横にある邪魔な腕をどけ、さっさと床から起き上がった絳攸は何事もなかったかのように立ち上がり冷蔵庫へ向かった。
 キッチンとリビングの境目あたりで振り返り、体勢も変わっていないいまだ茫然としているおいてけぼりの楸瑛に一言。
「ここまでなら許してやる」
 息をのむ振動。床から生き物が動く気配と既にリビングのほうへ向けた背中にちくちくと視線を感じたが、気付かぬふりで冷蔵庫を開けペットボトルを取る。
「―――その先は?」
「何のことだ?」
 祈るような真摯な声に水を飲みながら振り返り堂々とすっとぼけて見せた。
床に座っている男の顔色が真っ赤なのに絳攸もつられそうになって慌てて冷たい水を飲みほした。楸瑛はもの凄く残念そうで、はたまた悔しいのかもしれない。
 複雑に顔をゆがめた男は少し考えるように視線を下げ押し黙り、再度視線が合わさると、諦め切れていないような苦味のある声を出した。
「先に進める望みは?」
「仕事が片付いたら考えてやる」
 答えに不満だったのか嫌そうな表情で床を見ながら、まあ口説き落とす自信はあるけど、とかぶつぶつ独り言を言っている姿に絳攸は、小さくバーカと言って笑ってやった。

 百分の一未満の作用の対価には十分すぎるだろ、と心の中で呟いた。






2009/7/15
色気より眠気の話。