麗が茶州へ発ってから一月ほど経った。あれほど騒がれた人事も今やとやかく言うものはいなくなり、毎日静かな日々が朝廷を包んだ。 彩雲国国王紫劉輝は執務室でその端正な顔にどこか哀愁を漂わせていた。熱気のこもった風に琥珀色の髪の毛を揺らしながら両手で頬杖をつき、虚ろな瞳はひらひらときにはカラコロと書翰のいくつかが床に落ちても気付く様子は全くなく―――――ただひたすら呆けていた。 考えるのはもちろん遠くへ旅立った最愛の女性のこと。万全の態勢を整えたため、連絡はなくともどうにかなっている自信はある。 ただ、ちょっとだけ―――。いや、かなり恋しい。 「莫迦なことをしたのかもしれないな」 独り言のつもりでぽつりと呟いた言葉だった。 「一概に否定はできませんが、こう考えてはいかがですか?―――次見えるまでの準備期間、とね」 誰もいないと思っていたから意に反して返ってきた声に手から顔がずり落ちた。 腕を組み扉横の壁にもたれかかる男が纏うのは、極上の藍。 「楸瑛!いつ入ってきたのだ?」 「先ほど」 柔和な笑みを絶やさぬ油断の出来ぬ側近は、つかつかと前に進み風に吹かれ床に散らばった書翰を一個一個拾い上げて、劉輝の前に立つ。 「秀麗殿がいない間に男を磨いてはどうでしょうか。仕事に身が入っていなかった、と彼女が帰ってきたときに聞いたら相当がっかりするでしょうね。あなたのために官吏になったのですから」 はい、と机に置かれた十数個の書翰に劉輝は渋面を作った。 「意地悪なのだ。もう少し―――感傷に浸ってもいいだろう」 「その時間が無駄だ。一つでも多く仕事をこなし日々精進。立派な王になってもらわなければ俺たちも叩き――働きがいがないな」 「そなた今言い直しただろう!」 新 たな闖入者はずかずかと劉輝に歩み寄り―――両手いっぱいの紙の束を容赦なくドスン、と追加した。 あまりの量にあいた口が塞がらない。 「これ、すべて明後日までです」 有無を言わさぬ口調だった。 「お、多くないか?」 ジロリと上から睨まれ、思わず竦み上がった。 余は王なのに、と思わないでもないが絳攸を怒らせるのは得策ではないため口を噤む。 「秀麗は仕事ができない男は嫌いです。仕えてよかったと思わせるくらいにならないと評価は落ちる一方です」 ただでさえ相手にされてないのですから、という言葉を絳攸は呑み込んだ。 「わかってる、わかってるのだが」 絳攸と楸瑛の攻撃にしょんぼりと劉輝は小さくなった。 「なら早く実行して下さい。時間は刻々と過ぎて行きます」 「頑張って下さいね」 溜息をついて背を向けた絳攸と笑顔で頭をなでる楸瑛に劉輝いは口を尖らせた。 「余は王なのだし、もうちょっと優しくしてくれてもいいのではないか?」 「口より手を動かす!」 絳攸の注意を受け劉輝はあわてて筆を持ちあげる。 紅黎深を長官に持ち、絳攸が次官の吏部は上司に恵まれていないのでは、と泣きそうになりながら思った。怖い。怖すぎる。 が。思ったと同時にとある考えが浮び、出かけた涙は引っ込んだ。 いい考えだ。実にすばらしい案ではないか! 妙案を思い付いたことで元気の出た劉輝はそそくさと仕事に取り掛かった。 急にやる気をだした姿に絳攸と楸瑛は不審に思いつつ、自分たちの仕事に戻った。 ―――これがすべての始まりだった。 *** 「理想の上司一位を決めるために調査をしようと思う」 執務室の扉をくぐり開口一番に言われた言葉に絳攸は面食らった。突き出された書翰を反射的に受け取ると、怒りが込み上げてきたが確かめるまで外に出すのを押しとどめた。 紐解くと、理想の上司決定会と大きな文字で書かれているのが見えて、眉間のしわが一本増えた。さらに目を通して行くと、長々と目的の口上があり、その後に全文官対象、一人一票、開催期間やら投票箱の設置場所といった詳細が書かれていて―――。そこまで読んで怒りにまかせ握った書翰の端はぐしゃぐしゃになった。 顔を上げると得意げな笑顔の劉輝。 「おい」 「よくできているだろう?余が睡眠時間を削って仕上げた力作なのだ!」 泣く子も黙る吏部侍郎の低い声にも気付かず、特にこことここを、と劉輝は絳攸の側に回ってにこにこと書翰の数か所を指さす。もし吏部官がこの場でその様子を見ていたら八割近くがこの無邪気な国王を尊敬しただろう。 「ば、莫迦野郎ーーーッ!こんなことをする時間があるなら仕事を一つでも多く片付けろッ!!もしくは寝ろッ!!」 スパーンと容赦のかけらもなく力作の書翰で劉輝は頭を殴られた。 後頭部に瘤を作った涙目の劉輝を慰めたのは、楸瑛だった。 扉を開けた瞬間、王を殴る同僚の姿を認め、再び振り上げられた凶器に慌てて駆け寄りニ発目の凶行は未然に防いだ。さすがに国王相手にニ発はやばいだろうと―――。 後頭部をさする劉輝は完全にいじけていた。ほっぺたを膨らませて絳攸とは目を合わそうとしない。 お茶を差し出した楸瑛は苦笑する。 「主上、いい加減に機嫌を直してください」 「余は王なのに、余は王なのに」 ぶつぶつと恨みがましい声で呪文のように繰り返す。 「お茶は冷めてしまったらおいしくないですよ。ほら、お菓子もあります」 「甘やかすなよ楸瑛」 お菓子と聞いてちらりと横目で確認しようとしたところに、絳攸がぴしゃりと言ったため、劉輝はビクッとする。全くどっちが偉いのだか―――。 「お茶請けのお菓子は甘やかす、に入らないよ。もちろん君にもあるから安心してね」 楸瑛は言葉通りお茶とお菓子を絳攸のところへ持ってきた。 「俺は食べ物で絆されたりしない」 そう言いながらも筆を置いた。 「主上」 返事がない。意地を張って全く子供か、と絳攸は呆れる。 「四半刻休憩をやる」 視線を合わせようとしない劉輝の耳がピクリと動く。心が動かされているのが容易に解る。 「ほら、絳攸のお許しが出ましたよ。府庫にでも行ってきたらどうですか?ただしせっかく淹れたのですからお茶は飲んでいってくださいね」 府庫、という単語で劉輝はあっけなく落ちた。 「う、うむ!」 口にお菓子を放り込みかなり熱いお茶を一気で飲み干し脱兎のごとき速さで部屋を出ようと駆ける。 「走るな!時間内には帰ってこいよ」 「うむ!」 「あと、あの案件だが」 劉輝の足が止まった。大きく見開かれた眼で絳攸を振り返る。机上の紙の束をトントン、と揃えていて劉輝を見ていない。 「どこの部署の何人使うか、上司の定義、他にもまだある。本気ならもう少し詰めておけ」 「え?」 「ただし睡眠時間は削るな。普段の執務に支障が出るようなら認めん。いいな」 それ以外なら好きにしていいと許しを含んだ言葉に、厳しい面もあるが、こういうところがたまらなく好きだ、と心が動かされるまま劉輝は進行方向を百八十度変更する。 「絳攸!」 銀糸の文官に突進しようとして、今一歩でもう一人の側近に阻まれた。 「主上。私の目の前で絳攸に抱きつこうとはいい度胸ですね」 にっこりとしているが―――その目が全く笑っていない。冷や汗が出た。 「す、すまないのだ。つい嬉しくなって」 「未遂ですから許しましょう。時は金なり。急がないと時間がなくなりますよ」 此処は余の執務室なのに―――。 半ば追い出される形で劉輝は府庫へ向かった。 残った楸瑛は絳攸の向かいに椅子を置き、座る。ちゃっかり自分のお茶とお菓子も移動させた。 「あの件って何?上司がどうとかっていう」 湯呑を持ち上げていた絳攸は目だけで楸瑛を見て、お茶をすすった後答える。 「誰が理想の上司かを投票で決めるものだ」 何それと、崩れた表情を読み取り言葉を足した。 「秀麗の好みの参考にでもしようと考えたんだろう」 「ああ、なるほどね」 下らん―――と吐き捨てたあと、お菓子に喰らいつく。そういう態度を見ても絳攸が心から賛成しているとは思えない。 「よく許したね」 常に無い慈悲。吏部侍郎殿の霍乱か?と茶化せば、絳攸はふうと息をついた。 「まあ理由はどうしようもないが―――」 言葉を切った絳攸の目がキラリと邪悪に光ったのを楸瑛は見逃さなかった。 「これは利用できる」 最近官部の仕事も滞り気味だったしちょうどいい、と言ってにやりと笑った顔は、まさに幽鬼の復頭目にこれ以上なくふさわしく、楸瑛は顔を引きつらせ、ははは、と乾いた声を上げることしかできなかった。 2009/7/1
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