「歩道橋」の続きです。




3年生になったのがいけなかった。
そう。楸瑛と絳攸は五カ月ほど前、進級したのだ。
普通はうれしいものなのだろうが楸瑛は右手でシャーペンを回しながら、もう片方の手を頬にあて虚ろな瞳でぼんやりと黒板を眺め、後悔していた。教授の声は右から左へと流れて行き、何も聞こえてこない。聞いていない。ノートは白いまま。
窓に近い席からは秋雨のしとしとと冷たい音が聞こえた。
大教室には大勢の生徒がいるが、そこに彼の姿はなかった。休んでいるわけではなく、もちろんサボりだなんてそれこそありえない。答えは単純で、この授業をとっていないだけだ。
三年生にもなると教室にいるのはほとんど決まったメンバーになる。専攻が一緒でない生徒たちとはプライベートでもない限り就職活動もあり、会えなくなるのだ。
例えば恋人なら約束を作り、時にはそれなしで会いに行けばいい。
普通の友達ならば数日会えなくても十分だと楸瑛は思う。
ところがそれが片思いの相手ともなると―――。
辛い。
彼―――李絳攸はいない。数日間声を聞いていないし姿すら見かけていない。授業時間ぎりぎりに来て、授業後すぐ去る彼と関わりを持つのは初めから難しいことだったが、上級生になってからは時間が合わないため全くコンタクトをとれなくなってしまった。携帯電話の番号とメールアドレスは知っているが、それでは足りない。想い始めた時から、自覚していない頃ですら、毎日あの歩道橋にいる絳攸を訪ねていた楸瑛には片思いで強く出られない分、苦々しくてたまらなかった。
右手からシャーペンを離しそのままズボンのポケットへ持っていく。黒い携帯電話を取り出して、電話帳から「李絳攸」の文字を選択してメールを作成する。

―――三時に歩道橋で会えない?

そこまで打って楸瑛は文章をニ三秒見つめた後おもむろに電源ボタンをニ度押してメールを破棄し、時間を見て携帯電話をポケットに戻した。
あと十分で講義が終わるのを確認してから絳攸は今の時間は暇で、三十分後から授業が入っているな、と即座に思い浮かべた。
―――疲れているのだ、と自嘲を浮かべた楸瑛は自己分析をした。
一方通行の想いを意識した時点では明るかった未来は、今はどうしたことか暗雲たるものになっていた。
誰かをずっと思い続けるというのは労力がいるのだと初めて知った。それが可能なのは想いを返してもらうからこそなのだ、と。だからこそ別れた後の悲しさを訴えた過去の彼女たちも、今では想いと決別し恋情なく笑顔で会話が出来るほどの関係に戻る事が出来たのだ。見返りがない想いは辛く、苦しいから、いずれ放棄するものなのだ。そうして新しい恋をして―――そういうサイクルなのだ。
片思いの楽しさというのはそこから来ている。
不確定な未来への可能性、希望、光を楽観的に望んでいるのだ。
片思いの苦しさというのはそこから来ている。
現在の返されない想いへの不安、不満、苦痛を悲観的に受け取るのだ。
二つの感情がバランスを取れている時ならば継続可能、想い続けていることが出来るのだろうが、負の感情が勝ってしまったらそれが難しくなる。
二年間以上それを続けてきた楸瑛は限界が見えていた。
二年生までは人がいい絳攸に付け込むように強引に会う約束を取り付け、実現していた。その距離は均衡を保つのに不足はなく随分打ち解けることが出来たのだが、三年生になったとたんに、そしてこの年の夏休みが終わった途端にそれが崩れ、無理矢理でも会うのが難しくなってしまった。そして楸瑛はいつも自分から約束を取り付けていたことを知ったのだ。あまりにも一方的すぎる望みが見えない気持ちと言うのを持ち続けるのは、残酷な事実を知った時点で一気に乾いたものへと変わり楸瑛の心を浸食し始めた。
思い続けるのに疲れた。
なのに諦めきれない。
心に矛盾が生じる。
―――――辛い。
余裕のない状態での思考は思いがけない方向へ向かった。
三分前に教授は授業を終え、楸瑛は急いで席を立った。教室前には次の講義を待っている生徒が数人いて急ぐ楸瑛の道を阻む障害物となる。廊下も人がまばらにいるため早足で気をつけながらすり抜けて行ったがそれでも三四人にぶつかった。階段を駆け足でおり、学部の建物を出てから本格的に走り出した。
冷たい雨が楸瑛の体を徐々に、何か悪趣味な毒がゆっくりと命を奪っていくように冷やしていくが、邪魔になるから傘は差さず、大学の正門を駆け抜ける姿は人目を引いたが、全く意に介すことなくとにかく急いだ。何個もある信号と最寄り駅のこまごまとした街でゆっくりと歩く若者たちが何とも言えずにもどかしかった。よく昼食を買ったコンビニ周辺は中心街から少し外れたところにあるため人通りが少なくなり、すでにずぶぬれになってしまった楸瑛の走るスピードが上がった。歩道橋の階段の前で漸く止まり線路をまたぐそれを見すえる。十秒ほど肩で息をして腕時計が大学を出てから十分たっていることを示しているのを見て顔をゆがめた楸瑛は階段をゆっくりと、踏みしめるように上った。走ったせいだけではなく心臓が厭な風にドキドキとしている。
初めに幾筋かの銀糸が風に舞ってきらきらと光るのが――――楸瑛は好きだった。
登りきった階段。通路に絳攸は―――――――いなかった。
昼でも人の往来が少ない歩道橋の真ん中―――絳攸がよく座っていたところまで来て楸瑛は下を向いて酷くさびしそうに笑った。
―――潮時かもしれない。
髪の毛の先から雫がぽたぽたと落ちた。

この日から楸瑛は絳攸に会いに行くことをやめた。





絳攸からのメールはもちろんなかった。





※※※

十月中旬になると寒さが一気に増す。企業に面接に行った帰り、大学に寄ったスーツ姿の楸瑛はからからと乾燥した肌寒い風を浴びて、体を震わせた。肩を怒らせながらUSBメモリを忘れたために学部のコンピュータルームへ向かった。普段はあまり大学のパソコンは使わないのだが、授業が終わると同時に霧雨が降った昨日、楸瑛は雨が上がるまでの時間をつぶすため、パソコンルームで課題のプレゼンを作っていたのだが、そのままメモリを置いてきてしまったことに家に帰ってから気が付いたのだ。
階段を上り三階のパソコンルームのドアを開け右足を中に入れた。
あ―――と思った。
何十台も並んでいるパソコンルームには珍しくもただ一人を除いて誰も居ないのだが、その例外―――左の角に座っているのは、背中しか見えないがまぎれもなくラフな格好をした李絳攸だった。
どうして学部が違う彼が此処にいるのかなどの疑問より先に、しまったというのと久々にみる姿に込み上げる嬉しさという相反する感情のため、楸瑛は逃げるべきか中に入るべきか戸惑い判断が遅れたが、まず忘れ物がないかセンターで聞いてみてからにしよう、と引き返そうと決意し、回れ右をする。音をたてないようにドアを閉めようとしたが。
「楸瑛。お前のUSBは此処だ」
驚いた楸瑛は勢いよく振り返った。
聞き間違えなのではと思うくらい、絳攸は背中を向けたままだったが、直ぐに顔を三分の一ほど楸瑛が現在立っている後ろのドアに向けた。
「昨日お前と専攻が一緒のやつにお前のUSBが此処に忘れてあるから渡しておいてくれって頼まれた」
絳攸は立ち上がり楸瑛のほうへ歩く。
右手に持っている青いプラスティックのフラッシュメモリは確かに楸瑛のものだった。諦めと期待が混じった複雑な思いでドアから手を離すとドアがゆっくりと閉まる音が響いた。
「それ探していたんだ、助かるよ。ありがとう」
久々に顔を合わせるため少なからず緊張していて当たり障りのない言葉を選んだのだが、向かってくる絳攸はまるで昨日もあっていたかのようにいつも通りだったことが楸瑛を落胆させた。
近くまで来た絳攸からメモリを受け取ろうと手を出し受け取った――と思ったら左肩つかまれそのまま後ろ――ドアに押しつけられた。ドン、という音と肩をぶつけた痛みに楸瑛は混乱する。
「お前どういうつもりだ!」
絳攸の顔が迫って来て、身長差から下から鋭い眼光で睨みあげられた。怒っているようだが何が起きたのかがわからない。ただ、こんな距離でその顔を見るのが初めてだったため、場違いなことにきれいだな、と見惚れていたら絳攸がワイシャツの襟をつかみ楸瑛を前に引いた。
「毎日毎日下らないメールばかり送って来ていたのに突然連絡をよこさなくなるなんてどういうことだ」
まだどうして絳攸の機嫌が悪いのか、何故怒らせてしまったのかかつかめていない。
「忙しかったんだよ」
「前はどんなに忙しくても待っていると言ってメールが着た」
「君の返事はいつもノーばかりだった」
「雨の日にあんな場所に行くわけないだろ」
そういえば昔絳攸が雨の日は自宅で勉強すると言っていたことを思い出した。ならば秋雨前線がこう着している季節に絳攸が歩道橋に出てくる事はないのにも関わらず、楸瑛は指定してきた待ち合わせ場所が悉くあの場所だった事に気付き、自分で自分を苦しめていたのか、と少し憂鬱になったが、絳攸がそっけなかった理由もわかりほっとした。心に余裕が出来たため、聞いてみる。
「何故、君は怒っている?」
その問いに答えたのは言葉ではなく紫煙の瞳だった。
傷ついた事を隠すように怒った顔を保とうする絳攸に、愛しさがこみ上げる。
もしかしたら。―――少しでも会いたいと思ってくれたとのだと考えると、錯覚しそうだった。
「ごめん」
一言そう謝れば絳攸はおとなしくなり、顔をそむけ襟をつかむ手の力がとたんに弱くなったが、完全に離れ切る前に楸瑛は思いっきり細身の体を抱きしめた。
身を固くする絳攸に構わずさらに力を入れ、ちいさな子供が宝物を握りしめるように閉じ込めて、ひたすら抱きこんだ。
「しゅう」
「―――ごめん」
肩に顔をうずめて楸瑛はもう一度謝罪する。
賭けていた、と知ったら本当に怒らせてしまう。
雨の中、ずぶぬれで歩道橋へ向かったその意味は、もし絳攸がいなかったら自分から連絡を取ったり約束をしたりするのをやめようというものだった。そして、静かに終わらせようとした。
―――もし、絳攸からメールが着たりでもすれば、その時点で楸瑛はまだ望みがあると思いこむことが出来る。戯言だと解っていても。
イレギュラーながらも待ち伏せしていたのだから―――楸瑛は自分自身とのかけに終止符を打った。勝ちや負けなどそれこそ考えるだけで無意味だから文字通り終わったのだ。
恋しかったのか、と聞けない代わりに楸瑛は決意した。
唇を絳攸の耳元までもっていく。
「好きだ」
体が緊張したのが密着している状態では手に取るように解ったが、それも一瞬のことで直ぐに力を抜いたのも感じた。
「どうかしたのか?」
勘違いしている。それでもいい。
「お前なんか変だぞ。面接失敗したのか?」
楸瑛はくすりと小さく切ない笑みを漏らした。

あと一年。今まで進めなかった分、精いっぱい、冗談を抜きにして想いを伝えようと思った。
「おい、大丈夫か?――楸瑛?」
答える代わりに最後にもう一度ギュッと力を入れたらしばしの後に背中にぬくもりを感じた。
好きで好きで―――。臆病になるほど愛しくて。それ故片思いが辛い。
そう思ってしまった時点で潮時だ。良くも悪くも決着をつけなければならない。必要以上に傷つき、傷つけたくない。自己満足や詭弁だとしても。



再来年の三月―――。卒業するまでがタイムリミットだと楸瑛は決めた。






8.29.2009