『―――休暇中なのに悪いが、引き受けてくれるか?』 本当にそう思っているのだろうかと思える硬質な声はきっと携帯電話越しだかと言う理由だけではない。職業柄―――否、むしろ性格と言う方が正しいのかもしれない。 「いえ楊修先輩、慣れていますから」 それは本当だ。事件は待ってくれずいつ呼び出しがかかるか解らない警察に、本当の意味での休日などは訪れない。でなければたとえ追っている人物がいようとも、そこの管轄を任されている刑事に要請すればいいだけの話で、仕事を離れている人間に引き受けてくれなどと頼まないだろうが、李絳攸は休暇を台無しにされた事を全く気にしていない。頭の片隅でやはりこれでも休暇扱いにされてしまうのだろうな、と思ったが、有給休暇に働くことに憤るほどの青臭さは、絳攸の所属する部――刑事部に求めるほうが間違っている。 『簡単な資料はパソコンに送っておいた』 その返事をあらかじめ予想していたのだろう。かつて新人だった絳攸に刑事のいろはを叩きこんだ男は、すらすらとまるで用意された台詞を読むように言ったが不快にならなかった。 「お願いします」 『公安の連中も嗅ぎまわっているかもしれない。くれぐれも深追いはしない事だ、絳攸。今回は様子見程度でいい』 「はい善処します」 『とんだ休暇になったがまあ捜査のほうを楽しんでくれたまえ』 返事を待たずにプツリと携帯電は切れた。 絳攸はそれをズボンのポケットにしまってからベッド横の机に乗っかっているノートパソコンを起動させ、仕事用のメールをチェックすると楊修の言葉通りファイルが添付されたメールが届いていた。 クリックしてファイルを開くと、まだ二十代になったばかり思われる目つきの鋭さが印象的な青年の写真が飛び込んできた。名前や生年月日などをざっと眺め、その下に書かれている情報に絳攸は注目した。 この青年―――陸清雅は、革命を企てているある組織の一員で、唯一顔が警察に割れている幹部クラスである、とあった。 その組織の存在は絳攸も知っていたが、どの程度の規模なのか、アジトはどこか、どの企業や政治家とつながっているか、そして黒幕は誰かなど、いまだ大部分が謎に包まれている。殺人を扱う捜査一課が手掛けたいくつかの犯罪に関わっているのは明白なのだが、僅かな状況証拠しか得られていないため、令状を取ることが出来ず、警戒されることを恐れ警察も表立って動くことが出来ないという厄介な状態なのだ。 だがその写真の男が日本屈指の海辺のリゾート地で目撃されたとの情報が入り、ちょうど浜辺に面したホテルに泊まっていた絳攸に御呼び出しがかかったというわけだ。 本来ならばもちろん公安の仕事であるが、刑事部と公安部はトップ同士が犬猿の仲のため、縄張り争いが非常に煩い。部長である紅黎深は仕事をしない事で有名だが、公安との競争になると話が全く違ってくる。少しでも捜査一課の領分が関わって来るとあいつらに負けるな、負けたら無給、無休だ、国外追放してやると常々脅されミスが許されない過酷な職場となるのだ。 刑事部が知っている事実を、情報のエキスパートたる公安が知らないはずがない。故に楊修が言ったように公安も動いているのは確実だが、あいつらに見つかったら越権だのと、澄ました顔で言われ面倒くさい事になるのが目に見えているし、その組織がここに来た目的も解らないため下手に動くのは得策ではない。だから今回はまだ様子見と出来れば企業や政治家とのつながり、そしてこのリゾートを訪れた目的を探るだけでいいということだ。海に面したこの観光地。ここで何が行われるのか―――正直気になって深追いするなという楊修の釘をさす言葉を無視してしまいたくなるのを抑え込む。悪い癖だ。そしてそれを見抜いている先輩刑事――キャリアで入った絳攸がもう警視となり警部の楊修の階級を越してしまったが、あの人には敵わないな、と敬服した。 パソコンをいつでも起動できるようにスリープの状態にしてから絳攸は内ポケットから鍵の束を取り出し、その中の一つを選びベッドの近くの床に置いた数個の荷物から、見るからに丈夫そうな長方形の黒いアタッシュケースを持ち上げ机に置き、空けた。 白い手が下へ伸び固定された、見るからに質量がありそうな黒い鉄の塊を持ち上げる。カチャリと小さな音を響かせた細長い物はしっくりと手に収まった。オートマチック―――絳攸が一番好きなタイプの拳銃だ。スリムな持ち手の部分をスライドさせボストンバッグの中から取り出した箱から、弾を数個つかみいれた。昨夜の仕事終わりで休暇を告げられ急いで準備した荷物に、拳銃と銃弾が入っているのは無意識で、移動中に気付いて驚いたほどだったが、まさか使う羽目になるとは思わなかった。 資料以外でメール本文には、組織はやはり物証はないが武器を密輸している、とだけ書いてあった。相手は武器を持っている、用心しておけと、楊修の配慮だともちろん絳攸は気が付いた。休暇に絳攸がうっかり銃を持ってきてしまったのさえ見抜いているのだとしたら、もう脱帽だ。 少し重くなった物体を上着を捲りズボンとシャツの間に隠すと、布越しではあるが冷やりとした。その感覚を確かめた絳攸は鍵を持って部屋を出た。 エレベーターで一階まで下りると、ロビーにいるホテルの従業員にバーの名前を言えば場所を手振りを加え親切に教えてくれた。絳攸は礼を言いホテルを出た。 夕暮の赤く染まる空と眼前に広がる黄金に染まった海。絶景にカメラを持ってくればよかったと思ったのは一瞬で、仕事だと考えを振り切った。休め、ホテルはもう取ってある、と上司の命令で訳も解らず数時間前にここに来たが、気が付けばいつの間にか観光気分になっていたのかもしれない。それともあの怜悧冷徹氷の長官と呼ばれる非道な人は、何かを嗅ぎ取って自分をここに寄越したのかもしれないな、と絳攸は思い、気を引き締め、オーシャンビューを横目に五分ほどで辿り着けるショッピングモールの方向に向かう。入口を見ただけでシーズン最盛期ではないのにもかかわらず、人ごみにウンザリとした。そのまま通り過ぎて、百メートルほど歩けばでかいビルディングが並ぶ一角に辿り着く。どれも高級ホテルばかりだ。その中でも最良の場所に建つ上品な白を基調とした外観のホテルへと入っていった。ロビーを横切りエレベーターでバーがある階まで上がった。 店の名前を見ながら回廊を歩いていると、目的の店を見つけ、足を踏み入れると直ぐに白いシャツと黒いベストを着た男の店員がおひとり様ですか、と尋ねたので絳攸は頷いた。 「カウンターとテーブル席がございますが、どちらにいたしますか?」 「カウンターでいい」 「はいかしこまりました。では開いているお席へどうぞ」 店全体が見渡せそうな角の席に腰かけ、薄暗い室内に不自然に見えないように視線を走らせる。店内はまだ時間が早いというのに三分の一ほどの席が埋まっているようで、なかなかの盛況ぶりだと絳攸は思った。観光客がほとんどで、一人で飲んでいる客は少ない。―――目的の人物は見当たらない。 ここが陸清雅が現れたと書いてあったバーだ。どうやら一見個室はないようだが、支払いはブラックカードを出すことにしようと思った。数回この店に来て、それを繰り返した後で個室はないか聞けば存在するのなら案内してくれるだろう、と踏んだのだ。 警察だと身分を明かし手帳を見せるのも一つの手だが、管轄外の極秘捜査、しかも公安が動いているのならそれは避けるべきだというのが絳攸の判断だった。 初日から有力な情報を得られるとは思っていない。だが現場検証には意味がある。薄暗い店内と静かな音楽。実際に来て似たような雰囲気のバーを回る方針を直ぐに立てたが、それには一帯の地理に詳しいここの従業員と親しくするのも手だ。 ゆっくりと見回していた店内から視線を戻すとバーテンダーがカウンターを挟み立っていた。オーダーを尋ねようとしているようだった。 酒は飲めるが頻度は少なく、注文はたいてい警察仲間に任せているので種類が解らない。彼らと行くのもここのように高級そうでおしゃれなバーではなく居酒屋ばかりで、どんな酒があるのか皆目見当がつかなかった。お勧めなのを頼むと言ったらしばらくすると透明な液体がそそがれたグラスが出され、口をつけた瞬間濃厚なアルコールと強い香りに少し眉を寄せた。 「いかがですか?」 「うまいな」 バーテンダーの顔がほっとしたものとなり、ごゆっくりとだけ言って他の客の許へ向かった。 同じ課の先輩や同僚に言わせれば、絳攸は鯨飲らしいのでめったに酔うことはないが、何の種類かは分からない、アルコール度数が高いこの酒を何杯も重ねれば、捜査どころではなくなってしまうかもしれない。 喉を熱い液体が通り抜ける心地よさを感じながら、絳攸は俯き加減で他から解らないように隙のない視線で店内を見回していた。 「テキーラのロックを飲むなんて、君は結構いける口らしいね」 後ろから話しかけられ、首だけで振り返ると上品なグレーのジャケットを着た、絳攸とそう変わらない二十代半ばと思われる、精悍だが甘い顔立ちをした男が立っていた。先ほどまで右端のテーブルに一人で座っていた男だ。 「そうか?確かに強い酒だがうまい」 男はそれを聞くと、やっぱり強い、と苦笑しながら絳攸の隣の席の背もたれを数回たたいた。 「隣いいかい?」 頷くと椅子を引き、座る。 「君、タバコは?」 「吸わないが慣れている。気にしないな」 じゃ、遠慮なく、と言い男はポケットから箱を取り出し、一本取って咥えるとライターで火をつけ、白い煙を吐き出した。職場では嗅いだ事のない香りに絳攸は箱を横目で眺めると、ローマ字の大きいMの後に英語が続くのが見えた。タバコを吸わない絳攸を気遣ってか、男は少し吸っただけのまだ長いそれを灰皿に押しつけた。 「バーボンをロックで」 マルボロにバーボン。映画でしか見たことのないような組み合わせが様になり、警察の眼であちら側の世界と深い関わりがあるのではないかと疑ってしまいたくなる。運ばれたグラスを持ち上げ絳攸の半分ほど飲まれたテキーラに軽くぶつけた。乾杯と言うことらしい。目を細め、薄く色が付いた液体を美味しそうに一口飲んだ後、男は絳攸を見た。 「私はシュウ」 「俺はコウ、だ」 捜査一課の李絳攸は顔は知られていないが名前は裏の世界では有名だ。もし本当の名前を名乗り情報収集途中に星の前で呼ばれ警戒されたら台無しなので、答える時は初めから偽名ではないが、本名がばれた時でも簡単に言い訳が効く、コウと名乗ることにしている。 「君、一人?」 「ああ。お前こそ連れはいないのか?」 「今回は私もさびいしい一人旅だよ」 「よくここら辺には来るのか?」 「ああ、偶にね」 俺は初めてだ、と言って絳攸はグラスに口をつけ、会話を再開する。世間話をしながらも店を時折眺め、怪しい人物がいないか確認しつつシュウがこのバーに時々顔を見せていると言うので、VIP用の個室は存在しないのをそれとなく聞き出しながらシュウ自身の事も注意深く観察していると、直ぐに人見知りはしないタイプらしいと解った。そもそもそうでなければ絳攸に話しかけてきたりしないだろう。だいぶ打ち解けた空気が流れてから聞いてみた。 「お前、ジゴロだろ」 断定するような口調だったのには訳がある。店に入って見まわしただけで、誰がとこに居るかなどすべて覚えられるわけではない。シュウが何処に座っていたかを覚えていたのはほんの僅かな独特の雰囲気を漂わせていたからだ。実際に会話を聞き間近で見てジゴロだと確信した。 驚いたように振り返えったシュウが、直ぐに自嘲的な笑みを浮かべたため、絳攸は言葉を詰まらせた。 「どうしてそう思うのかい?」 「身なりがいいのと常に女に囲まれていたという雰囲気だな。ホストかとも思ったがそれにしては所作がかなり洗練されている。何かしらの教育を受けた証だ」 巨大な氷を溶かすようにグラスをゆっくりとまわしながら、シュウは感心したように溜息を吐いた。 「なるほど君は結構鋭いな」 「人間観察が趣味なんだ」 適当に相槌を入れる。 「そういう君の職業は?」 「弁護士だ」 尋ねられたら裏の事情にそれなりに精通してそうな弁護士といつも言うことにしている。バッジを着けてない言い訳や、大学で法律を学んでいたため何を聞かれても答えられる自信はあるが、不思議と疑われたことは一度もない。シュウも案の定納得したようだ。 「一人旅でここも初めてではないということは、お前の目的はゆったりと過ごすことだろ?」 つまり今お前にはご主人様がいない、そして予定は特にない、違うか、と問いかけるとバーボンを傾けながらシュウが続きを待つような興味深そうな顔をした。 「暇なら俺がお前の数日を買ってやる。とは言ってもせいぜい粗末な食事代を出すくらいだが」 疑問と不信が込められた瞳で見返されて、絳攸はあわててつけたした。 「俺にそういう趣味はない、安心しろ。今度大切な人をここに連れてきた時のために料理やこういう雰囲気の酒がおいしい店を見つけておきたいのだが、あいにく俺は酒に詳しくなくて困っているんだ。だから案内を頼む、という意味だ」 どうだ?とちらりと覗きこむように眼で尋ねた。 「アルコール四十五パーセントをごくごく飲む君が酒に詳しくないだって?」 「飲めるが居酒屋ばかりでな。しゃれた店の飲み物は知らない」 ふうんと意味ありげな返事をしたシュウは、絳攸のテキーラと変わらない強さのアルコールを一気に半分ほど喉に流し込んだ。 「大切な人って君の恋人?」 「いいや、家族だ」 「へえ、君随分若いのに結婚しているんだ」 左手に視線を感じて絳攸は否定した。 「そうじゃない。―――両親を連れてきたいと考えているんだ」 「ああ、なるほど。親孝行だね」 養父でもある上司の顔を思い浮かべ、嘘を吐いてしまったことに罪悪感を抱き、一呼吸の不自然な間を開けてしまったがシュウが気付いた様子はないようだ。グラスの中を空にしながらほっとした。 シュウがバーボンを追加する際、絳攸もテキーラをおかわりした。直ぐに新しいグラスが置かれ、たがいに一口飲んだところで目が合った。 「いいよ、さっきの話受けよう。私も暇していたんだ」 「助かる。せっかくの休暇なのに悪いな」 「君と居ると楽しそうだと私が判断して私が勝手にそう思っているんだ。君は私のご主人様ではないから、関係は公平だ。お金を出してもらったらそうではなくなるだろう?それも楽しそうだけれどね、今回は遠慮しておくよ」 どこか回りくどい言い回しをする奴だと思っていると、ふふふと含み笑いをしたシュウの整った顔が近づいてきた。 「でも、もしお望みならば夜の相手はするから、その時は遠慮失せずに言ってね。もちろんお金はいらないよ」 耳元で低い声で甘くささやかれた絳攸は、何を言われたのか理解するまで数秒かかったが、気付いた瞬間声を上げて立ちあがっていた。 「ばッ!」 薄暗い店内の客とバーテンダーの視線が一斉に集まり、目立ってどうすると言い聞かせ絳攸はしぶしぶと口を閉じ、背もたれに体重を預け弛緩した。目だけは呆れたようにバーボンを飲む姿が様になる男を睨んだ。 「お前、莫迦だろ」 「心外だな」 「大莫迦者だぞ。もしだれも教えてくれる人がいなかったのならば覚えていたほうがいい。お前は莫迦だ」 絳攸の物言いにも気を悪くした様子を見せず、シュウは君は本当に面白い、声をかけて正解だ、と笑いながら言った。 「君、何処に泊まっているの?」 私は、と男が口にしたホテルの名前に絳攸は目を軽く見開いた。 「最悪だ。俺もそこに泊まっている」 「私は嬉しいよ。すごい偶然だね」 薄く微笑みを浮かべるシュウが続けて言った部屋番号は、絳攸のフロアの一階下の階だった。 「君の部屋は?」 「教えない」 「何故?不公平だ」 「言ったらお前、絶対に来るだろ?」 「いけないのかい?」 笑いながら酒を飲む馴れ馴れし男にジロリと一瞥をくれたが、効果がないようだ。 だが慣れない場所で、酒の種類にも詳しくない絳攸が一人で嗅ぎまわって不審に思われるよりも、ここの地理に詳しい者に案内させておいた方が効率的で賢明だ。それとは知られずにシュウを捜査に協力させることに成功させた事に捜査が一歩進んだ気がした。これは不特定多数に聞き込みをするより得体の知れない相手には、効果的な方法だと絳攸は思っている。また、いい隠れ蓑になるのも利点だ。 さまざまな話をしながら盃を加減しつつ進めていったが、シュウも鯨飲らしく、二人は酔うことなかった。結構ねばったのだが、この日は怪しい人物は見当たらなかった。支払いはシュウの言葉通り別々だったが、個室がないことを突き止めた絳攸は目立つブラックカードを使う必要がなくなりったため、現金を出した。 宿泊先のホテルのロビーの奥にあるエレベーターに向かったシュウに別れを告げ、そのままもう少し先にあるエレベーターに向かおうとしたところ、コウ、と呼びとめられ絳攸は振り返った。 エレベータードアの隙間から唇を三日月の形にした男が見えた。 「君の部屋番号は25号室より後だね」 「―――正解だ」 ドアが閉まる寸前の答えに、シュウはますます満足そうに笑みを深くした。 エレベーターがどの階にいるかを示す数字の明かりが移動するのを三秒ほどじっと眺めた絳攸は、エレベーターの場所で部屋番号を推理されたことよりも、一緒のエレベーターに乗ったら今度は階を当てられる可能性よりも、酒の席での話を覚えている事実になかなか小賢しい油断のならない奴なのかもしれないな、と少し眉間にしわを寄せた。 部屋に戻ると、すっかり体温と同化してしまった出番のなかった拳銃を再びケースにしまい、絳攸は熱いシャワーを浴びながらこれからの計画を練った。 つづく。 2009.09.13
警察の設定ですが完全にファンタジーだと思ってくださいってほど嘘にまみれています。内容は信じないで!(ハードボイルド好きの人ごめんなさいっ!)
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