『お前はそんなに仕事が好きなのか』
 それが滞在二日目の朝、カーテンが閉められた薄暗い部屋で極秘捜査を刑事部部長―――紅黎深に告げた後の第一声だった。革命を企む組織の幹部を追っているという報告の何処をどう取ったらそんな感想になるのかと、李絳攸は聞いた瞬間ガクッと肩を落としたが、世の中の九割はぺんぺん草と考えるこの養父と十年以上の親子関係が耐性を与えていたためそう来るのかもしれない、そう妙に納得した後、気を取り直すために咳払いをした。
 「好き嫌いではなく警察の職務ですから」
 『……………』
 次は無言。
 また何か言われるかと構えていた絳攸は拍子抜けした。
 「もしもし?―――もしもし?」
 もしかしたら電波が悪いのかと一旦携帯電話を顔から話すが、見事に階段状に長さが違うバーが三本とも立っていた。そうこうしているとおい、とスピーカーから小さく声が聞こえてきたため慌てて電話を耳に当てた。
 『せっかく私が用意した休暇に捜査とはな。お前がそこまで仕事がしたいと言うならば今度から仕事量を倍にしてやろう』
 語尾に感謝しろ、ふふん、と続きそうな台詞に今度は絳攸が絶句した。冷えた視線で偉そうに笑う顔までばっちり浮かぶというおまけつきだった。通常の勤務に加え働かない上司のせいで毎日残業休日出勤のオーバーワークが当たり前、労基法など存在しないかのように扱われていると言うのに、これ以上どうしろと言うのか。仕事は好きだがあくまでも職業が警察であって存在が警察なのではない。
 「し、仕事して下さいッ!」
 『私は仕事に興味がないからしない。したい奴がすればいいだろ。だからお前がやれ』
 「な―――!」
 冷やかに返されたのは子供みたいな屁理屈だが、これを曲げることが出来る人物など片手の指で足りる。残念なことに絳攸はそこには入っていない。常識が通じない上司兼養い親にあなたの仕事ですと、至極真っ直ぐ真面目で真っ当な事を真っ正面から言ったところで効果などないのは何十回、もしかしたら三桁になるほどのやり取りの中で学んでいるので議論を続ける代わりに聞こえないように電話を一旦口から離し、溜息を吐いた。
 「それは帰って来てから聞きます。では、何か進展があればまた連絡します」
 待て、と言われたのは耳から携帯電話を離そうとしたところだった。
 『絳攸、捜査するのは勝手だが、一人だということを忘れるな』
 はっと息をのみ目を見張る。
 『あと電話は必ず携帯しておきなさい』
 瞠目し言葉に詰まった絳攸が三泊程遅れてはい、と返事をするその前に電話は切られた。ツーツーという耳障りな音を数秒聞いてから電源ボタンを押し、ニ三秒それを見つめてからズボンのポケットにしまった。
 カーテンを開けると一気に朝になる。日光に照らされた顔は精悍で、引き締まっていた。さて夜までどうするか、と考えたのはほんの僅かで硝子を通した眼下に広がる光景を目にした絳攸の決断は早かった。
 ボストンバッグの中から小さく細長いケースを持ち上げふたを開けサングラスを胸ポケットに差し、机の上に置いてあるカメラを持って部屋を出た。もちろん黒いアタッシュケースにしまってあったオートマチックも忘れずに服の下に隠してある。今回はシャツ一枚しか着ていないので冷やりと冷たい感触が肌になじむまで少しだけ時間がかかった。
 絳攸の滞在予定は一週間だ。捜査一課の警視という階級で七日間の連休を取れるなんて普通はありえないのだが、上司の命令のため、私的であろうと睨まれて肩身が狭い思いをしながら刑事部を後にしたのは記憶に新しい。刑事部部長で極秘だが養父である紅黎深が紅家に連なる家の名を勝手に借りてホテルを予約し、到着したその日に楊修から電話がかかり休暇から極秘捜査へ目的が変わってしまった。しかし元は観光気分だったため、カメラなどもしっかり持ってきている。
 ホテル内のレストランでゆっくりと少し遅い朝食を済ませた絳攸は皿を下げに来た従業員と少しだけ話をし、会計を済ませてそのまま外に出た。絳攸はタホテル前でタクシーを拾い車に乗り行き先を告げた。
 車内では流れゆく景色に目を向けてしまう。目的の人物や少しでも怪しい人物がいないか気になってしまうのは、もはや職業病だ。前日通ったショッピングモールを抜け少し経つと、高級リゾート地から徐々に此処で暮らす人々の生活の色が濃くなる。さらにそれを過ぎると港に泊まる漁船の向こうには貿易港と倉庫がいくつも見えて外国の大型船から降ろされた赤や緑のコンテナが、機械によって運び出されているのが見えた。海に面しているこのエリアは観光だけではなく、隣国に近いため貿易にも力を入れているのを目の当たりにしてある考えが頭によぎりぎくりとした。
 ―――武器の入手経路はもしかしたら。
 隣国からの密輸。
 それならばこのリゾート地に陸清雅が現れたのも納得がいく。
 ―――なるほど深追いすれば痛い目に見るのは此方かもしれない。
 楊修の言葉を反芻した絳攸の瞳は、景色をもう映してはいなかった。
 ―――あの人はこれを。
 冷酷な刑事部部長の顔が脳裏に浮かんだ絳攸は、即座に頭を振った。知っている、というより知らないはずがない。楊修が知っていることを、絳攸が疑っていることを。だからこその、あの言葉なのだ。
 「あのぉ、お客さん」
 「ん、ああ何ですか?」
 運転手から唐突に掛けられた声によってつらつらとした物思いが強制的に終わった。目的地に付近になったら声を掛けてくれと事前に頼んでいたのだが着いようだ。右側の窓から見えるのは石垣の一段低いところにある海だった。観光地から十五分ほどしか離れていないのに海水浴や日光浴を楽しむような人はいない。サーファーや少し離れたところで釣りを楽しむ者たちだけの、静かなビーチだった。何処で止めたらいいか、という問いに此処でと簡潔に答え、タクシーは少し進んでから止まった。最寄りのバス停の位置を聞いた後、休暇中と言うことになっている身では、調べられたら出勤状況など直ぐに解ってしまうため領収書は貰うことを憚られ、絳攸は何も言わず財布から金を出した。
 生温かく湿った潮風が頬に当たり、服を強く揺らすのを受けながら絳攸は海を横目に歩道を歩く。強い日差しに眼を細め、ポケットから取り出したサングラスを掛けた。しばらくすると浜辺へと降りる階段を見つけ、そのまま石段に一歩一歩足を進めた。
 砂浜に立った絳攸は晴天の強い日差しと雲のない澄み渡った青空、水平線の手前にうっすらと見える隣国を意識的に数秒眺めた後、小さな小屋のようなカフェでアイスコーヒーを頼み、砂浜に面したオープンテラスの席に座りビーチを眺めた。絳攸のほかにも数人同じような格好で海を見つめている先客がいた。
 観光客のようにはしゃぎ着飾ったりしているわけではない。地元の住人にも見えないが、このあたりに慣れている小旅行者がゆっくりと休暇を楽しんでいると言ったところだ。
 そして絳攸はそれを狙っていた。この格好なら目立たないように、人々を観察できる。
 実際サングラスで見えない眼は鋭く行きかう人々の姿をとらえていた。
 闇に生きる者は日の光を好まない。目立たないように隠れて生きて行かなければならないのだ。木を隠すなら森、と同様に人ごみに紛れることも可能性としてない訳ではないが、それは大都市での場合だ。人と人のかかわりが薄く、どこか自然と闇と光の境界線が引かれているケースに特有のものである。それ以外なら、人目を避けるように、闇の領域で活動するものだということを絳攸は学んでいた。
 そのために訪れたのがこの、どこか閑散とした海。此処にならもしかしたら陸清雅がいるかもしれないと踏んだのだが、もし取引のために来ているのならば居ないだろうと最早諦めかけていた。後者ならば現物を確かめなければならないため、もっとひっそりとした場所のはずだ。
 しかしサングラスの奥で眼球だけを動かしている絳攸の、眼が止まった。
 ―――あれは?
 黒く鏡と同様の役割をするレンズの端に映ったのは水着姿の女と一緒にいる一人の男だった。逞しい体つきと程良く焼けた素肌。サングラス越しではすべて白黒の世界で色など解らないくせに、人間の眼はそれを補ってしまう。昨日知りあったばかりの顔なら尚更に。
 左から右へ。砂浜から十分距離があるカフェの前を横切ったその男は、絳攸には気づいていないようだがなぜか緊張した。
 ―――何故あいつが?
 何かが引っ掛かる。
 そういえばバーで話しかけてきたのは向こうからで、しかしその前に絳攸はシュウの存在を認識していた。それはどこかあちら側の匂いがしたからで、話し方や所作を見て、ジゴロと判断したのは勝手な憶測で。
 ぎくりとした。
 知っていることと言えば――――。
 何も、なにもなかった。
 名前も、何もかもシュウから聞いたことで、それが事実だとは言えない。
 何も知らない、裏社会と繋がりがありそうな男―――。
 そしてこの場所。密輸。
 点と点はある程度の妥当性を持って結びつけられるような気がしてならない。
 それに、と絳攸はシュウとの会話を反芻し始めた。
 ―――あいつは此処には時々来ると言っていた。
 予断は禁物だ、と言い聞かせながらもどうしてもその考えを捨てることが出来なかった。
 背筋に冷たい物が走りゾクリとした。素肌にじかに触れるオートマチックが、体温と同化しているはずなのに妙に冷たく感じた。



 ※※※

 滞在三日目は朝からあいにくの曇りだった。晴れていれば半そで一枚でも暑いくらいなのだが、日光が遮られると一気に肌寒くなる。夕方になればなおさら冷え込んでくるため絳攸は上着を羽織ってエレベーターに乗った。初日にしていた約束を果たすためだ。
 ロビーまで下りてあたりを見回すと大きなソファーから一人の男が立ち上がり絳攸に手を振った。シュウだ。長袖のシャツ一枚しか来ていない姿は少しだけ寒そうだった。
 絳攸が歩み寄りながら手をさっと上げて返すとシュウも近寄って来て、五歩ほどの距離でお互い止まった。
 「待たせたな」
 「いいや今来たところ」
 「悪いが夜に職場から電話がかかって来ることになっているから今日は酒はパスして先に帰ってもいいか?」
 「いいけど君、忙しいなら今日はやめてもいいんだよ?」
 「外で食べても此処で食べても時間は同じくらいだから平気だ」
 「そう?じゃあ行こうか」
 少し前を歩くシュウの横顔を絳攸はばれないように気をつけながら観察する。
 「昨日はなにしてたんだ?」
 「天気が良かったからビーチに出て海を満喫したよ。君は?」
 薄く笑った表情に変化がないのを確かめてから絳攸は俺も海に出たな、と答える。あれから少し粘ったが何もせずに海を見ながらぼーとしていると返って目立つためアイスコーヒーのおかわりとクラブサンドを食べ終えた時点で砂浜を離れた。その後は、陸清雅の目撃情報があった例のバー付近を捜査し、ホテルに戻ったのが夜だった。休暇中で極秘捜査の身ともなると車を借りて一日中張り込みが出来ず、動きが制限されるのを不満に思った。
 しかし何処へ行ってもシュウへの疑惑が捨てきれず、偶に質問を重ねひっそりと動向を探ったが、逆に絳攸もちらほらと答える羽目になり美味しいはずの夕食よりもそちらに気を取られていたため、味はあまり覚えていない。
 始終微笑みを絶やさない男に底知れぬものを感じながら食事を終えた絳攸が席を立つと、シュウも一人酒は気が進まないといい、一緒にホテルまで戻ってきた。
 エレベーター前まできた絳攸はどう切り出そうか迷っていた。
 上向きの三角形のボタンを押したシュウはポケットから携帯電話を取り出し、振り返った。
 「番号聞いていいかい?」
 軽く目を見張る。それは絳攸が言うはずだった台詞だ。
 「ああ」
 短く返事をして捜査用のもので、知られても困らない情報が入った携帯電話を取り出し、赤外線通信で電話番号とアドレスを交換した。シュウはディスプレイを見つめながらにっこりとほほ笑んだ。
 「今日は楽しかった。今度、お酒飲もう。いつならOK?」
 「ああ、そうだな、あいつは仕事が早いから明日の夜には片付いているだろう」
 「じゃあ、明日同じ時間で。店は勝手に選んでいいかい?」
 「ああまかせる」
 「お休み。何かあれば電話して」
 「解った。お休み」
 笑顔が交錯した後、絳攸はエレベーターが来る前に其処を離れた。  廊下を渡り、一つ目の角を曲がってから、絳攸は携帯電話を開き、数分前に新しく増えたアドレスと電話番号、名前などを見ながら唇を釣り上げた。
 

 部屋に戻って一番にしたことはパソコンで楊修にメールを送るという作業だった。
 本文には手に入れたばかりの電話番号とアドレスを添えて改行。一言持ち主を調べてくれとだけ打ったメールを送信した。
 厚く灰色の不気味な雲に見え隠れする月光が嗤っているようにうっすらと窓辺を照らしていた。






2009/10/16