その年の夏はすぐに終わった。始まるのが遅く、終わるのが早かった。前年の九月中旬は厳しい残暑が続き、夏の名残りが強かった記憶があるが、最近もっぱら二十五度を下回り過ごしやすい陽気だ。しかしその日は少しだけ暑かった。 「絳攸、扇風機はどうした」 それがお前、クーラー買ったのか、に続く質問だった。 六畳の居間に乱雑に腰を下した訪問者はいつも突然訪れて事前に連絡を入れることは皆無だ。 部屋の主である李絳攸が嬉しさと緊張、そしてわずかな恐怖を同時に味わう相手など、たった一人しかいない。 窓を開けているのに風がほとんどないため室内の熱気は逃げず、クーラーをつけようとしたらいらないと言われた絳攸は、扇をぱたぱたと動かすその人―――黎深をほとほと困った表情で見つめた。 「あれは先日壊れました」 酔ってつぶれて足の指を突っ込んで壊したなどと言ったら、しかも一緒に飲んでいた相手は黎深が毛嫌いする藍家の直系、楸瑛だと知ったらなんて返ってくることやら。室温が一気に氷点下になるかもしれないことを危惧し、いくら暑いからといって洒落にならないと思い、絳攸は説明を意図的に飛ばし事実だけを告げた。 「物は大切にしろと云っているだろう」 初耳だ。 失物及び器物損壊の記録を毎年塗り替えている部署の部下に聞かせてあげたらと考えると少し気が紛れた。 「やはりクーラーをつけましょうか?」 「いらないと言っただろう。もう忘れたのか。覚えが悪いのは方向だけにしなさい」 ぐっと詰まる。反論したいところは沢山あったが、どれを最初に言えばいいか迷っているのと、どうせ勝てはしないというのが目に見えているため諦めた。 「麦茶淹れてきます」 無言は肯定。 そそくさと台所の冷蔵庫から冷えた麦茶と食器棚から黎深専用の湯飲みを持って居間に戻ったら、背の低い 机の上に先ほどまでなかったでかでかとした物体が置いてあった。立ったまま、絳攸は養い親の整った横顔を斜めに見下ろす。 「スイカ、ですか?」 あの軽装のどこから取り出したのか気になったが、黎深なら不思議の一つや二つ、五十個百個あっても不思議ではない。机にはまぎれもなく大玉のスイカがデーンと存在感をあらわにしていた。 「冷蔵庫に入れておけ」 「は、はい」 絳攸は慌てて麦茶の陽気と湯飲みを机に置き、スイカを抱えてまわれ右して冷蔵庫まで進む。居間に再び戻ったら、黎深は勝手に麦茶を飲んでいた。 「今年のスイカは甘いそうだ」 「はあ」 確かに黎深が美味しくないものを持ってくるはずがない。時期外れだとしても、あのスイカはきっと甘いのだろうと絳攸は思った。向かいに座ってどうにも気の抜けた返事をしてしまったが、黎深は視線をそらしたまま独り言のように続けた。 「あれを食べたら帰る」 「はあ。ですがあの冷蔵庫は古いので冷えるまであと数時間はかかりますよ?」 今度の無言は意思を変えるつもりがないという現れ。 「―――暑い、ですね」 「こんなに暑いのはお前の部屋だけだ。屋敷は快適だ」 ちらりと一瞥。直ぐに彼方に向けられる視線。 だから偶には戻ってこいなんて事は伝わらない。 「スイカ、ありがとうございます」 なんとなくお礼を言ったら再び一瞬目が合った。 うっすらと汗ばむ残暑にスイカ。 少しだけ室内が涼しくなった気がして、絳攸は微笑んだ。 日記より転載:2010/3/13
|