李絳攸の部屋のインターフォンは壊れている。完全に、ではなくたまにならないのだ。たいていはピンポーンとお決まりのチャイムを流してくれるが、その客人の時は今まで百パーセントの確率でその軽快な音が鳴ることはなかった。 本人は諦めたのかいつもドアをノックして絳攸ー、開けてくれー!と外で大声を出す。本当は呼ぶ前に何回かボタンを押して試しているのかもしれないが、とにかく今回もその音を聞くことがなかったことが事実だった。部屋の主の意思を代弁してくれているかのようだ。 「あれ、君もとうとうクーラーを買ったんだ」 第一声が居間に着いたなり言ったそれだった。否、玄関でのおじゃましますだったかもしれないが、お決まりの文句など形骸化されていていちいち印象に残らない。 「扇風機は壊れたし、実は欲しかった」 お前の部屋に行くたびにいいなと思っていたんだ、と絳攸が告げると片手にスーパーのビニール袋らしきものをぶら下げて、立ったまま居間でクーラーを眺めている訪問者―――藍楸瑛はそうだったんだ、と振り向いて笑った。十日ぶりの訪問だ。 「でもあの後っていうことは、八月の終わりか九月の初めだろ?今年は残暑が厳しくないからあまり出番はなかっただろうね」 「だが暖房機能もあるしなかなか便利そうだ」 「でも冬の炬燵も捨てがたい」 「まあな。で、何の用だ?」 座っていた男はこれがあるならいらなかったかもしれないけど、と数歩近づいて苦笑した。 「実は扇風機を届けに来たんだ」 「はあ!?」 「君がこの間壊しただろ。でも必要かと思ってこの前買ったんだ」 だが楸瑛の周りにそれらしきものは見当たらない。見まわしたのが解ったのか楸瑛は扇風機は車の中だよと言う。 「私の家の扇風機はまだ壊れていないし、受け取ってくれるかい?」 「だが」 クーラーがある、と言おうとするのを待っていたかのように遮られた。 「残暑が厳しくないとはいえ偶に暑い日はあるだろ。でもクーラーを使う程ではない。だから扇風機はまだ必要だと思わないかい?」 そう問われたら思わないと答えそうになるが、実際問題数日前養い親が訪ねて来た時は困ったものだ。 複雑そうな絳攸の顔を見て楸瑛は笑った。 「ほら、やっぱりいるだろ?」 取って来るよ、と言って背を向けた男があ、と何かを思い出したような声を出して再び振り向いた。 「その前にこれ」 ビニール袋を差し出され受け取ると、中には湿布が入っていた。 「遅くなったけれど足の指、痛かっただろう」 物が少ない殺風景な君の部屋には置いていないだろうから、と優い笑顔だけ残して玄関へ向かった。 確かに痛かった。扇風機を回しながら横になっていて、無意識に涼を求めたのだろうが誤って足の指を突っ込んで羽を折ってしまった。ガキンという変な音の後に激痛で悶えていたら同様につぶれていた楸瑛が直ぐに目をさまし、少し経ってから状況を把握。電気をつけたら見事に腫れていた。数日後には紫色になっていて、しばらく力を入れると疼痛が走った。 視線を下に落とす。 畳の上の素足の親指は、まだ少しだけ腫れていた。 薬局の袋を片手に、絳攸はあと少ししたら扇風機を運んできた楸瑛がドアをノックするだろうと思い、立ち尽くしたまま待った。 やはり開けてくれ、と言われるのを、待っていた。 日記より転載:2010/3/13
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