どうしようもないほどに月があまりにもきれいだったからついつい酒が過ぎたのかもしれない。 やや詩的な思考に、楸瑛は唇の端を釣り上げた。 蝋燭は早々に消して、窓辺を侵す冴え冴えとした明かりが見慣れたはずの一室は別物に変化している。 美酒のもたらす浮遊感を存分に味わう。開けた酒瓶はこれで四つめ。絳攸と二人でゆっくり杯を進めていったにしても、多少は飲み過ぎかもしれない。だが幼少の折、意地悪な顔をした兄たちに己の限界を知っておけと吐くまで飲まされ、また羽林軍の魔の宴でも鍛えられたため、理性はしっかり働いている。 思えばせっかく絳攸を誘ったのに楸瑛ばかり酒を消費しているのも悪いと思い、対面からややずれた位置に座る友人に眼を向けた。 細められた紫の瞳は時々完全に閉ざされ、その度にうつらうつらと銀糸が揺れている。激務続きで強い酒を飲めば当然の結果だろうが、つまらないな、と楸瑛は思った。 見れば絳攸の杯にはまだ酒が半分ほど残っている。楸瑛はそれを空にし、新たに注いだ。 とくとくという音が耳に心地よく、つい淹れすぎてこぼれてしまった。前言撤回するまでいかないが、やはり多少酒がまわっているらしい。でなければ久しぶりの休日を前にまどろんでいる友人を起こそうだなんて、普段なら気の毒だと思いとどまっただろうに。 絳攸、と呼ぶ声を少し離れたところで聞いている気分だった。 名前を呼ばれた絳攸の瞼がぴくりと動き、眠そうな半眼が楸瑛を映したのに気を良くした。数回ゆっくりと口をぱくぱくさせる子供の様な仕草が、朝廷で羨望と嫉妬の眼差しを集める能吏の姿とあまりにも違い、こんな絳攸を知っているのはおそらく他にはいまいと思うと楸瑛を満たす。 「なにか小皿でも持って来させようか?」 「…いや、もういい。ずいぶん酔った。腹も酒で一杯だ」 「これでも飲みなよ」 はい、と杯を渡すと絳攸はそれに素直に口を付けた後、顔をしかめた。 「……酒だ」 「そりゃね。正真正銘酒だよ」 「水だと思った」 「まだそれが酒だと解るなら飲んでも平気だろ」 そう笑いながら楸瑛は酒を飲みほした。 「そういえば君、女官をまた冷たく振ったんだって?」 「お前には関係ないだろ。まったくそんな下らん噂に耳を傾けてる暇があったら書翰の一つでも多く片付けて世の中に奉仕の精神を見せろ」 億劫そうな口調は酷く不機嫌で、おまけに凶悪な眼で睨みつけられた。酒のせいでうるんでいるそれを肴に一杯ひっかける。 「君は相変わらずだね。想い人の一人でもいたら人生薔薇色に変わるよ」 「――そんなもんいらない」 けだるそうな声音にすねたような響きが微かにあった。ほんの欠片ほどの自嘲と閉じられる前に揺らいだ瞳に浮かんだ僅かな痛み。他人は気付かないほど微妙な変化も、国試以来六年の歳月をともにしてきた楸瑛なら解る。いや、気付けたのは絳攸が酔ってるからなのだが。 とにかくそれが意味しているのは――。 酒の席での話題として始めた戯言程度の話だが、大変なことになった。もはや酒どころではない。楸瑛は机に突っ伏してしまった絳攸をじっと見つめた。 堅いと思っていたこの友人にまさか、という思いが消えない。楸瑛にさえ今までずっと隠し続けていたのだが、酒の席で気がゆるんでしまってのことだから、間違いない。 それも隠してきた事実と否定した時の様子から、どうやら片恋らしい。ここは色事に長けた楸瑛が親友の手助けをしなければと思った。それに悪いと思うが好奇心もある。否定して不貞寝の体勢に入ったくらいだから追及されたくないのだろうと解っていてもついつい誘惑に負けてしまう。 「嘘だね、絳攸。君好きな人がいるだろ」 そろりと持ち上げられた瞼の下から、キッと鋭い視線が覗いた。 「嘘じゃない」 「私を騙せるとでも?」 数々の妓楼のお得意様、藍楸瑛。職権を利用して後宮の女官にまで手を出しているという、消して褒められない武勇伝はあまりに有名だ。 「…この、常春頭が」 憎々しげにつぶやいた数拍後、言いたくない、と小さく付けたされた。視線も外され完全に拒絶された。 その様子が少し警戒しているように見えて、ある憶測が浮かび、そのまま口を吐いた。 「もしかして私の女性問題を気にしているのかい?なら心配いらないよ。いくら私でも親友の意中の女性には誓って手を出さないから」 もしもそのことを心配しているのなら、楸瑛が名前を知っていた方が助かる。絳攸の片恋の相手に手を出す程碌でなしではない。 「それに上手くいくよう色々協力するよ」 「嫌だ。お前にだけは絶対教えない」 見事な即答だ。声が先程より一段と低くなり、どうやら完全に機嫌を損ねたようだ。 それでも一瞬痛そうな顔をしたのが目に焼きつく。楸瑛にだけは言いたくないという言葉とその表情がきっとその想い人楸瑛が知らぬ人ではないのだ、と確信させる。 確かに今までの所業を鑑みればそういう評価になるのは仕方ないのだが、絳攸にまでそう思われていることにさすがに落ち込んだ。少しは生活態度を改めるべきか。 「私はそんなに信用ならないのか」 ――あ、効く。 絳攸がそろりと頭を上げた。半眼がかすかな瞠目に変わり、動揺が伝わる。 「普段から君は私のことを頼らないけど、私はいつも君の助けになりたいと思ってるよ」 実際迷子の絳攸を何度も自主的に探しに行き、案内役をしてきたし。心の中で言い訳めいたことを呟く。 「だから君の役に立てると思った。気を悪くしたのなら済まない」 本心からの言葉だったがやや芝居がかった仕草になってしまったことは否定できない。 しかし酔っぱらいは不機嫌そうに横を向き腕を組んだ。 「お前のことは信用ならん男だと常々思っていてその認識が覆ることは無いが、信頼している。お前のせいで巻き込まれたモロモロを差し引きしたら引き分けだからありがとうなんて死んでも言いたくないだけだ。感謝は…一応してる」 こんなことを言うのは心外だというように、告げている。どっちつかずの評価だが楸瑛は少し照れた。 「これはそういう問題ではないんだ」 「と、言うと?」 「からかってるだけなら聞かない方が良い。無駄に悩ませたくはない」 「からかってるつもりなど毛頭ないよ。それに私が関係しているみたいだけど、そうとなればお互いのためにやはり黙ってはいられない」 はん、と絳攸は鼻を鳴らした。 「誰のためにもならない」 自虐的な声音に、ドキリとした。 「――聞いたら後悔するぞ」 ――それでもお前は知りたいのか。その覚悟があるのか。 射抜くような静かな強さが宿った瞳で見つめ返され、楸瑛は息を飲んだ。 こんな絳攸は見たことがない。 楸瑛の中では絳攸は真面目で優秀で養い親を何処までも敬愛して、迷子でそれを認めない子供っぽいところがあり、不器用な優しさが心地よい――そんな印象だったのに。まるで知らない男の顔をしている。 何かを試されている。聞かない方がいい、後悔するぞという言葉は言い逃れやハッタリではなく警告だ。 真っ直ぐに向けられた視線から絡め捕られたように逃れられない。楸瑛が過去口説いた女性などではなく、もっと他の何かがあると直感が告げる。 酷く落ち着かなかった。 ここで首を横に振れば済むことだが、絳攸の内面に踏み込む機会はもう一生与えられないだろう。それは嫌だと楸瑛は子供の様なことを思った。 一度瞑目し、真っ直ぐ絳攸を見つめる。 「本当にいいんだな?」 「ここまで来て念押しするなんて往生際が悪いよ、絳攸」 絳攸はガシガシと前髪をかき混ぜ、小さな声で悪態を吐く。よっぽど言いたくないと見えるが、もう後戻りは出来なかった。 「非常に不本意極まりないし俺も焼きが回ったとしか思えないが」 そんな前置きをされる相手なのか、と楸瑛は思った。どうにも色っぽくない雰囲気が絳攸らしいと言うか。 「お前だ」 「――は?」 何が、と思い楸瑛は問うように少し目を丸くさせる。 「お前が好きだ、楸瑛」 「………。―――ええ!?」 「そういうことだ」 「そ、そういうことだって、君。ええ!?じゃあ非情に不本意極まりない相手って私!?」 三拍眼で睨まれた。そんなに飲ませただろうかと心配になる。 冷静な瞳とぶつかって、楸瑛はドキッとした。 「だから言いたくなかったんだ」 苦虫をかみつぶしたようにぼそっと言われて楸瑛は慌てて口を開いた。 「私も君が好きだよ!友達として!」 「――――――」 やってしまった!と自覚したがもう遅かった。 案の定シーンと静まり返り岩より重い沈黙が下りた。 冷や汗がだらだら背中を伝う。一世一代の愛の告白をした相手に友達宣言をしてどうすると激しく内心で突っ込んだ。血の気が引く音がして、楸瑛はうつむいた。 はあ、とやけに湿った溜息にびくっとしたが、続けられたのは意外な言葉だった。 「そうだな」 否定でもなく肯定でもない。心臓を冷たい手で掴まれたような感覚に、楸瑛は勢いよく顔を上げた。 「その!絳攸!」 しかし何を言っていいのか解らない。ここで「ごめん」などと謝ろうものなら酒を浴びせられるだろうし、そんな無神経なまねは出来ない。 「莫迦か。酔っぱらいの戯言だと思っておけ。俺はそれで構わない」 「……ありがとう」 他の何を言っても逆効果になることは明らかなので、楸瑛はただそう告げることしかできなかった。絳攸の微笑みに胸がツキン痛む。だが絳攸の痛みはこんなものではないはずだと思うとやり切れない。諦めてるからといって簡単に折り合いをつけられるような気持ちなら、絳攸だって散々な前な前置きをつけた相手をまだ好きでいられるはずがない。 唇をかみしめた。 「寝る」 そう言って無表情の絳攸は近くの酒瓶に直接口を付け、ごくごくと飲むと長椅子にあおむけになり、堅く目を閉ざした。 応えられるわけがないのに言わせてしまったのも、それを受け止めきれずに余計に傷つけてしまったのも完全に楸瑛の落ち度だ。あまつさえ絳攸は逃げ道まで用意してくれ、楸瑛はそれにすがるしかできなかった。 最低だ、と口の中で呟く。 助けてやろうなんて見当違いもいいところだ。無神経さに吐き気がする。 規則正しい呼吸音が聞こえ、妙に安堵する。疲労困憊で酒漬けにされたという事実が少しでも絳攸の慰めになればいいと思う。 意外に幼い寝顔を見るとやり切れなくなる。 もしも時間を戻すことが出来るなら――。 泣きたい程きれいな月を見つめ、楸瑛はまだ半分程中身が残った酒を、飲み干した。 つづく。 2011/7/23修正 |