恋愛を遊びと割り切ってからかれこれ六年が経過したな、と楸瑛はしみじみと思った。
  不規則に揺れる生き物の様な蝋燭の炎を見つめていたら目が痛くなる。
  彩雲国国王の執務室の夜は長い。定時になっても仕事に見通しが付かなければ側近ともども帰宅は出来ない。残念なことに朝議の後、霄太師が持ってきた案件がまだまるまる残っている。
 茜から藍に染まり始めた空とは対照的に、油を使った灯りや蝋燭で室内は照らされてゆく。壁に寄りかかりながら楸瑛は、そのとらえどころなくゆらめく熱源と向き合っていた。
「楸瑛どうかしたのか?」
「何でもありません。私のことよりほら、主上、手が止まっていますよ。怖い方の側近に怒られますよ」
 ね、絳攸、と冷静を装って実はとてつもない忍耐力でその名を口にしたのは火を見るよりも明らかだった。じいっと見入っていた光の先にある白い顔が動いた瞬間、心臓が委縮したような緊張を覚えた。
「ほう、手が止まっているのですか。主上、私がいつ休憩を許しましたか?それとも仕事に区切りがつくまで進んだのでしたら、もうひと山増やしましょうか」
 横顔が氷の様な微笑みを向けられた劉輝がみるみるうちに真っ青になっていく。
「――手を動かす!連日で朝日を拝む気か!万全の体調で職務を全うするのも王の義務だ!」
「む、わ、解っているのだ!余も柔らかい布団が恋しい!」
「楸瑛、突っ立ってないでお前もその山を仕分けろ」
「はいはい。君は全く人使いが荒いよね。私が武官だということをもしかして忘れてる?」
 動揺を悟られないように軽口を交えながら絳攸の机の前に移動する。積み上がった書翰を運びながら楸瑛は果たして自分がとういう顔をしているのか――いつものように笑えているのか酷く気になった。成功していない気がして着席すると顔を隠すようにうつむき、書翰に眼を通すふりをした。
 ――お前だ。
 あの夜の声がよみがえり、心臓をきゅっと握られたように不安定な気持ちになる。
 翌日起きたら絳攸はとっくに去っていて、ドキドキしながら執務室の扉を開けたら朝から国王にがみがみと説教をしている側近の姿を見つけ、入って来た楸瑛に「何だいたのか」という顔をされ、全くのいつも通りに振る舞う姿に楸瑛は面食らった。絳攸だって取り繕うくらいのことはするだろうという選択肢は頭に入れていたが、ぎこちなさ一切なしの見事なまでのいつもの絳攸を前に、どういう行動を取ったらいいのか解らなくなってしまった。
 酔っぱらって記憶を飛ばしたのか、と疑ったがあいにくそれくらいでどうにかなる記憶力なら、絳攸だって女性嫌いにはならなかっただろう。それに楸瑛が覚えているくらいだから、より頭が回る絳攸が忘れているはずがないのに。
 あの日以来調子を狂わされ続けている。
 今だって絳攸は書翰に落とす視線やそれをさばく手は止まることはないというのに、楸瑛の方はそわそわしっぱなしで、まるで思春期の男の子のようだ。全くこれではどちらが想いを告げたのかが解ったものじゃない。
 ついつい絳攸の方に眼をやるが、顔を見る勇気がないから絳攸の机の上に置いてある灯ばかり見つめる羽目になり、目が痛くなったのだ。
 とにかく作業が進まず、主上のことを言えたものではないな、とようやくまともなことを思った。
「楸瑛お前やる気を出せ!このままだと帰れないぞ」
「はい、済みません」
 案の定のおしかり。全くあきれるほどいつも通りだ。
 結局気にしているのは楸瑛だけなのか――。
 それもなんだか悔しいが、それ以上に不思議でならない。
 色男の自覚がある楸瑛はこれまで幾人もの女性に想いを寄せられてきたが、いくら将軍職に就くほど強くたって仙術でも会得しない限り体は一つだ。好みや政治的な立ち位置、それ以外の自分勝手な理由――その日の気分などですっぽかすことすら多々あった。そうやっていままで振ってきた女性や泣き縋って、時には脅して別れたくないと訴えてきた彼女たちのことをここまで気にしたりしなかった。男に言い寄られた経験もないわけではないが、女性の時と比べてすげなくきっぱりと断ってたのにも、そういう趣味がない楸瑛は多少精神的にくるものがあったものだが――。
 今回は違う。違う苦しさが秀英を襲う。
「終わったよ」
「そこに置いておいてくれ」
「了解」
 仕分けを終えた書翰を前にして、絳攸を観察した。確かにきれいな顔立ちだが、どう見ても男だ。
「もう終わったのか?早すぎるぞ楸瑛。なくなりかけてた書翰が増えると余のやる気が…!」
「お前は目の前の書翰にだけ集中しろ!」
「は、はい!」
 真っ直ぐな性格と厳しいが仕事に余念のない姿は好感が持てる。
 絳攸が現在取りかかっている山の更に一つ向こうの山に書翰を積み上げた。ここまでが本日の仕事だ。
「頑張ってください、主上。今日の分はもう少しですよ」
「うむ!余はやるぞ!」
「にやにやしてないでお前も手伝え!」
 投げられた書翰を受け止めて、それ以外にも現在進行形で着手中の山から両手いっぱいになる程見つくろって座った。文面を目で追いながら意識の半分は考えごとを続行しようとしたら、視線を感じた。睨まれているのが確認しなくても解る。
 怒鳴られる前ににこっと笑顔を向けたら、絳攸の眉間の皺が深まった気がした。気がしたというのは目を合わせることが出来ないから、口元を見て、そのまますぐに書翰に顔を戻したからだ。
 あの日以来まともに顔を見れいないことに絳攸も気付いているはずだ。
 泥沼にはまりそうな思考に区切りを付け、楸瑛は仕事に集中した。





※※※
「いいでしょう」
 トントン、と書翰を整えている絳攸からの合格の合図をもらった劉輝はそれまでの恐る恐るという態度から、ぱっと花を咲かせたように明るい表情になった。楸瑛も少し前に厳しい審査を潜りぬけた身だから気持ちが解って頬が緩んだ。
「今日はやっと終わりだな!疲れたのだ」
「よく頑張りましたね。もう少し時間がかかると思いましたよ」
「余はやる時はやる男なのだ」
「普段から今日くらい集中しろ」
 二の句が継げなくなる劉輝だった。
「帰ったら夜更かしせずにちゃんと睡眠を取れよ。背が伸びなくなるぞ」
「余は絳攸と同じくらい背があるぞ」
「そこの将軍職の男より低いだろう。もっと高くなりたいのならしっかり寝て朝飯もちゃんと食べろ」
「そうですよ。もう決してたっぷり眠れるってほどの時間はないのですから。しっかり疲れを取ってください」
「むう…。楸瑛、絳攸、また明日」
「ああ、また明日な」
「お休みなさい主上」
 扉を潜ろうとしていた主上があ、と言って振り返った。
「楸瑛、そなたまた女官との約束をすっぽかしたらしいな」
 いつもはそんなことないのに今日はぎくりとした。
「その女官が辞めたらしく珠翠が怒っていたぞ。ほどほどにしておかないと怖いぞ」
 忠告するように眉をひそめ指さした劉輝はそれだけ言い残して今度こそ扉の奥へと消えてしまった。―――楸瑛と絳攸を残して。
 気まずい。冷や汗が出てきそうだ。後ろで書翰を弄っているのか紙の擦れる音がするが、振り向けなかった。
「楸瑛」
 名前を呼ばれたと思ったらパコーン、と音がするほど持っていた書翰で頭を思いっきり叩かれた。
「いっ…!な、何するんだ、絳攸」
「いい音がするな。お前の頭は空っぽかこの莫迦野郎」
 頭は鍛えようがないから痛い。殴られたところに手を乗せて振り返った私の抗議に被せるように罵倒が飛んできた。ビシッと書翰を私の方に向けて。
「ここ最近の不抜けた様子は何だ。人の顔ばかりじろじろじろじろしつこく見やがって、俺は藍州にいる熊猫でも紅州の猿でもない。拝観料取るぞ!今すぐ寄越せ。そのくせ碌に視線を合わせようともしない。失礼にも程がある。うざったい鬱陶しい。迷惑だめいわく。にやにやしながらぼーっと突っ立てるのは誰にだってできる。お前は将軍職を拝命しているんだろ。花を受け取ったんだろ。俺になど叩かれるな。隙を見せるな。ただでさえ常春頭なんだ。本当に空っぽになったらどうなるか解っているのか。能無しと呼ぶぞ!のうなし!今度こそ価値が皆無という意味だ!しゃんとしろ!!」
 一気に罵詈雑言ともとれる山のような言葉吐き散らした絳攸は多少息を乱している。あまりの剣幕に私はぽかんと間抜けに楸瑛は間抜けな顔で口を開けていることしかできなかった。
「この間のことだろう」
 呼吸が整った頃にそう言われ、動揺した。
「あんな戯言忘れろ」
「だってあれ、本気だろ?」
「本気だろうがいつも無視し続けてるお前がそれを言うな。だが今回は構わない。忘れてしまえ」
「でも」
 反論しかけたところに絳攸の溜息で遮られた。
「お前の女好きは重々承知している。病気みたいなものだろう。本人に治す気がないところが愚かだと思うが」
「………」
 あっさりと言う絳攸の気持ちをやはり推し量ることが出来ない。
「だから俺はお前とどうにかなりたいと思っているわけじゃない」
 勘違いするな、と何故か楸瑛の方がそんな台詞を言われている気になる。
「今までのままでいい。それで充分だ」
 そういう訳だからあまり気にするな、と絳攸は言って今度はコン、と軽く頭を書翰で叩いた。
 楸瑛はなんだか毒気を抜かれた気分になった。茫然とした途方に暮れたような顔をしているのだろう。
 想いを寄せる相手が他の人と仲良くやっているのは楽しくないどころではない。胸が張り裂けそうに切なくて、楸瑛は耐えられずに藍州から貴陽に逃げてしまった程にどうしようもないことは経験済みだ。
 気持ちには応えられないが、絳攸もそれを望んでいない。そんなそぶりも見せない。ただ、楸瑛が逃げたしたたように、絳攸が逃げてしまうのは避けたいと思っている。大切な友人を失うのは本意ではない。
 じっと絳攸の顔を見ても、話は終わったとばかりにとっくに書翰に視線が注がれていた。先程楸瑛が整理した山を確認しているようだ。
「絳攸」
「何だ」
「―――何でもない」
 このところ言葉を寸前で呑み込んでばかりなのはきっと気のせいではない。
「まだ他にすることはないかい?手伝うよ」
「ならこれとそれとあれとあの山の整理と、あっちの最終確認を明日頼む」
 容赦のない返事に閉口しかけたが、絳攸は苦笑を浮かべて今日はもう帰るぞ、と言った。
 どう思っているかなど聞けないけれど。この関係を崩したくないのは楸瑛も絳攸も同じで。
「そうだね」
 心が随分軽くなり、絳攸の顔を漸く真っ正面から見ることができて、口元が自然と緩んだ。明日からは火を凝視して目を傷めることもなさそうだ。
 扉を出て、早速出口とは反対方向に迷いなく進む背中を見て、笑みがますます深くなる。
「絳攸、君、何処に行くつもりかな?」
 声に嬉色が表れてしまうなど、楸瑛は自分で思っていたよりも単純なのかもしれない。
 ギクッとしたように肩を揺らした勢いよく振り返り絳攸がそ、そこの花が気になっただけだ!と背後の暗闇を指さし強がりを言うのに苦笑して。
「はいはい。綺麗だね。でも帰るのならこっちだよ」
 適当なことを言って吸い寄せられるように宙に浮いていた白い手を取った。
「離せ!」
「軒に着いたらね」
 睨みあげてくる瞳が心地よいだなんて可笑しいが、それをまともに受け止めるのも数日ぶりだから仕方がない。
 やっぱり、絳攸のことが好きだ。
 絳攸が向けるものとは違う方向を向いているから応えることは出来ないが、この関係を少しでも長く続けるために、なんて都合のいい考えをしてしまうほど、楸瑛には心地いい距離だから。
 必死に手を振りほどこうとしている絳攸を引っ張りながら、後宮に通うのを少し控えようと決意した。






つづく
2011/7/23修正(11.15.2009初出し)