耳を通過する音は曇り空から落ちる水滴で、秋口までとは異なる質感を喚起される。いつ雪になってもおかしくないような冷たさのため付着する露に覆われる窓と、墨を伸ばしたような灰色の濃淡に淀んだ空。ぽつぽつと滴る量はさほど変わらなくとも重量を感じてしまう。暖を取った執務室からも外は間違いなく寒いと解る。もちろん武官の楸瑛は寒稽古もあるため慣れているが、濡れるのはいただけない。出来れば出たくないなあ、と考えないこともないがもうそろそろだろうと葉が落ち切った裸の木の細い枝が揺れる様子をぼんやり見つめた。
「楸瑛」
 きた、と思ったことは表に出さず飄々とした笑顔を執務室に残された、というよりこの部屋の主であるもう一人の人物へ向けてゆっくりと下ろした。
「呼びましたか、主上」
 あえてそう尋ねると、墨で先が濡れた筆を置いた劉輝はそのまま机に顎を乗せ、項垂れてしまった。立っている楸瑛からは蜂蜜のような色をした髪の毛と冠しか見えない。ここで叱責が入らないのはそれを与える絳攸が今は出払っているからだ。
「解ってるくせにそなたは意地悪だ」
「おや、何か言いましたか?雨音でここまで良く聞こえません」
「実はそなたは結構厭な男なのだな」
「心外ですね。ですが何故そう思われるのですか?」
「そうやってしっかり聞こえているのに知らない振りを決め込むところだな。まだ沢山あるが聞きたいか?」
「結構です。訂正しますが聞こえたのではなく唇を読んだのですよ」
 ここから顔など見えないが悪びれもせずに言えばはあ、と外の雨にも負けない湿った息を吐いた劉輝は琥珀の双眸を此方に寄越してきた。
「絳攸が来ないのだ。きっとどこかで迷っているのだろう。絳攸の意見を聞きたい箇所がいくつかある」
「そうですね、確実に迷子でしょうね。さあて後どれほどかかるのでしょうか。私は半刻から一刻だと予想しますが、主上はどのように思われますか?」
「………」
 くすくすと笑えば琥珀玉は半眼になって歪められた。楸瑛は意図を理解していながら最後まで言わせようとしている自覚があるが、気付かない振りを決め込んだ。本当に今日は意地悪な気分だった。絶対昨日突然やってきた弟のせいだ。心の安寧があの言動と何よりも笛の音によって擦り減ってしまったに違いない。
「絳攸がいないとそなたの性格の悪さが垣間見える。後でいじめられたと報告するぞ」
「失礼ですね、主上。それに私は彼の前でも変わりませんよ」
「自覚がないのだな」
 はて、と首をかしげた。絳攸にも同様のことは偶にする。迷っている絳攸の期待に満ちた瞳に気付きながら目的地を言わせ懇願してくるまで待つこともあるのだが。態と神経を逆なでするような事を言って彼をからかうのは非常に楽しいひと時だ。
「楸瑛、目は何よりも雄弁に物を言うのだぞ」
 妙に自信満々に言ってのけた若い王の言葉は心に響いたが、表情を取りつくろうのに慣れている楸瑛には完全に支持できない。だが反論もできない。仮面をつけることが当たり前になっていたが、絳攸と主上と一緒にいる時に、それが一時も外れていないと言いきるには自信に欠ける。
「とにかく絳攸を迎えに行って来てくれ楸瑛。これでいいのだろ?」
「ふふふ、解りました。彼がどこにいるか解らないので少し時間を取るでしょう。私が戻って来るまでにあと三分の一は終わらせておいた方がよろしいですよ」
「さ、さん!?」
「では行ってまいります。頑張ってくださいね、主上」
「無理なのだ!」
 がばっと突っ伏していた机から勢いよく頭を上げた気配を背中で感じながら、楸瑛は扉を潜りぬけた。目を白黒させている劉輝が容易く想像出来る。本当は四分の一で絳攸は文句を言うことはないのだが、腑に落ちない一言をいただいた仕返しと誇張しておいた方がこの人には効果があると判断したからだ。
 やはり意地悪な気分なのに苦笑する。
 ここから吏部までの地図を頭に浮かべながら、わき道を抜けては左右を見回す。屋外に突き出ている回廊までくると冷たい風が頬を打った。雨が靴や衣を少しずつ濡らし重くさせる。この寒さの中何刻もうろうろしているのは体に良くないだろうと思うと歩調が速くなる。
 絳攸を探すのは相当奥に迷い込んでいない限りはさほど難しくない。若手随一の出世頭として名を馳せているため噂が絶えない。いつどこで見ただの本日も凛々しかっただの移動中も思慮深い顔をなされていただの―――。最後のは迷子になっているのを悟られたくないためだと知っている楸瑛は笑いそうになるのを噛み締めて耐えた。
 とにかく耳を立てれば場所の見当は付く。これ以上衣や髪が水分を吸収するのが嫌なので、得られた情報通り戸部の近くへそそくさと向かった。
 実に絳攸が迷い込みそうな両側を建物の壁に挟まれた狭い回廊を見つけ楸瑛は迷わずそこを曲がり、進む。抜けると庭院が広がり両側に更に廊下が伸びていて、方々を確認する。楸瑛以外に誰一人としていないように見えるが、気配のする左側を選び、最初の角を曲がると直ぐに見つかった。
 からかおうと決めていたのだが、様子がおかしい。常ならば道が解らないなどと一切感じさせない毅然とした態度を取っているのだが、今、視界に捕らえている絳攸の足取りは鈍くついには座り込んでしまったため、吃驚して駆け足で近づいた。
「絳攸!君、どうかしたのか?」
 声を掛けると上げられた顔の相変わらずきりりとしていて精悍だったが、目がこの日の雲のように虚ろで、反応も遅かった。もしかして、と思い腰をかがめ額に手をあてると抗議の声がかかった。
「楸瑛、何するんだ!」
「君、熱があるね。自分で気付いてるだろ」
 絳攸は無言で顔をそむけ立ちあがったが、その沈黙と少しよろけた体が楸瑛の言葉が正しいと証明している様なものだ。
「酷くなる前に帰った方がいい。軒まで送ってくよ」
「だめだ。まだ仕事が残ってる。お前も俺を呼びに来たんだろ」
「主上に風邪がうつるから帰りなさい」
「ずっと息を止めといてやる」
「無理だから。あのねえ、病気を悪化させないために病人は休むものだよ」
 それに吏部の仕事なんて尚書が本気になった時にしかなくなったためしがないだろ、と声には出さず毒づきそうになって止めた。
 疑問がひとつ解決された事に気付いたからだ。
 絳攸が好きだと言っても楸瑛と結ばれたいと考えていないのは当たり前のことだった。黎深に対しても何も望まない絳攸が、楸瑛に期待する訳がない。一番大切で最も大きな存在にすら想いを口にしないで関係を保ってきた絳攸は慣れてしまっているのだろう。
 なんて簡単な事だろう。
 なんて悲しい事だろう。
 そして少しだけ悔しい。
 楸瑛にはどうする事も出来ない。絳攸の一番は常にあの人で、その足元にも及ばないどころか完全に隠れてしまうような想いしか与えられないのだから。こんなに近くにいるのに怯みもしない絳攸。黎深が及ぼす影響に比べたら好きだという気持ちは霧散して消えてしまう程度なのか。それならもっと大きかったらいいのに、と思うと胸が締め付けられるような痛みが走ったが、歩き出そうとした絳攸が今度こそ倒れそうになったので、慌てて腰に腕をまわして体を支えている間に何だったのか曖昧になった。
「済まない楸瑛」
「済まないって、君、本当に今日はもう帰った方がいい。主上なら私が手伝うから。今日の案件はまだ日にちが稼げるものがほとんどだし」
 心配いらないよ、と続けられなかった。
 持ち上げられた睫の下に覗く硝子玉のような瞳には何よりも明白に意志の強さが映し出されていた。
「それでも」
 続く言葉は簡単に推測できて、楸瑛は苛立った。でも諦める訳にはいかない。
「俺は行かなければならない。主上が待ってるんだろ」
「主上には私が伝えるよ。仮令君が執務室に行っても、私が帰らせるように頼む。そうしなくても主上は帰れと言うだろうけどね」
「王命だからといってそれは横暴だ。断固拒否する」
 揺るがない絳攸に眉を寄せ、目をつむり額に手をあてて態とらしく溜息を吐いた。やはりこちらが妥協するしかない。
「吏部での仕事は片付いたのかい?」
「期限が今日の物はな」
「なら主上のところに行ったら直ぐに帰って薬を飲んで寝ると約束してくれるのなら私は君を執務室まで案内するよ」
「案内など必要ない!一人で行ける」
 ああもう、とその短気な態度にいっそ舌打ちでもしたい気分だった。絳攸はそのまま楸瑛を追い越してずんずん進んでしまった。冗談じゃない。ここで見失って雨の中遭難でもされたら本当に倒れてしまう、全く人の気も知らないで、という苦々しさと焦りを含んだ気持ちから楸瑛は十歩ほど開いた距離を一気に詰めた。
「そっちじゃないから」
 手を取って誘導する。抵抗を完全無視して。
 伝わる熱が体調を物語っていて心配なのと苛々とは別にズキンと心が痛んだ。さっき感じたものと同じだ。これは何だと考えながら、楸瑛が来たときぐったりと座っていたのだから気分は相当悪いはずの絳攸に合わせややゆったりと歩く。





※※※
「帰ってゆっくり休むんだよ」
 話しこんでしまったのと遅めの歩調のため言い付けた三分の一を終わらせようとしていた主上の補佐も終わり、楸瑛は絳攸を吏部まで送って行った。侍郎室の机の後ろにある窓から見える外。天候は変わらずの雨。空は先程よりも暗いが、定刻まではまだ少し残っている。だが熱が上がるのには十分な時が過ぎてしまった。
 座っているため銀糸の前髪が邪魔して顔色は確認できなかったが、呼吸の仕方から体の具合が先程より確実に悪化していそうな絳攸の続けた言葉は期待を裏切った。
「いや、尚書印をもらいに行かなければならないのに尚書が見当たらないからそれが済むまでは帰れない」
「それじゃあいつ帰れるかわからないだろ」
「楸瑛、俺は吏部侍郎なんだ」
 その一言よりも薄暗い室内で驚くほど光を湛えた少し熱でうるんでいる双眸が物語っていた。
 ―――君の気持はすべて黎深殿にしか向けられていないんだね。
 すべての行為の行きつく先はたった一人。
「解ってるよ。全部」
 思い通りに行ったためしがない。
 虚空に手を伸ばしたような手ごたえのなさ。救った水が両手の隙間からこぼれおちる様なぽっかりと穴のあいた静寂が広がった。
 ―――それでも望まずにはいられない。
 思えば必死に絳攸に何かを伝えようとしたことは、これが初めてかもしれない。
 肩をつかみ、顔を伏せた。
「お願いだから、休んでくれ」
 絞り出すような声が口から発せられた。
「何で、お前がそんな顔をするんだ?」
 そっと頬に触れてきた熱い手に突き動かされるように、視線を合わせた。
「君が―――…」
 ―――私にこんな想いをさせてるんだ。
「心配なんだ」
「心配……」
 意味を咀嚼するようにゆっくりと繰り返した絳攸は、数拍黙り込んだ後に解った、と返答した。
「今日は残業はしない。帰ったらしっかり薬を飲んで寝る。約束する。譲れるのはここまでだが」
 これでいいか、と問いかけてきた絳攸に物足りなさを感じつつも安堵して漸く肩に置いていた手を離した。
「ありがとう」
 お礼を言うのは変な気がしたが、絶対の存在である黎深殿と比較できないほどちっぽけな楸瑛の言葉が少しでも通じたことが嬉しかった。
「でも薬は今すぐ飲んでくれ」
 休憩時間に饅頭を食べたところだからちょうどいいだろ、とお茶を入れる前に女官に頼んで持ってきてもらった薬の包み紙を絳攸の前に差し出した。準備の良さにあっけにとられた絳攸はそれでも受け取って、口に含みその後机の端に置いてある水差しの水を湯呑に注ぎ一気に流し込んだ。
「ほら、飲んだぞ。もう監視はいらないな。帰れ」
「良く出来ました」
 主上にするように笑って頭を撫でようとすると、手を払われた。全くもってつれないと思いながら、楸瑛はようやく微笑みを浮かべることが出来た。
「もういいだろ。お前は主上の許へ戻れ」
「お大事にね」
 上着を絳攸の肩にかける。
「おい!」
「いいからこれ以上風邪を悪化させたくなかったら着てなさい」
「で、も。これじゃあ、おまえ、が……」
「私はこれくらいじゃ風邪引かないさ。大丈夫だから気にしないでお休み」
 ぬくもりが残っていた上着と薬に混ざっている睡眠薬にうとうとしてきた絳攸にもう少し周りを疑った方がいいよ、と無言の警告が籠った眼差しを向ける。それは胡乱な物ではなく苦笑を含むような柔らかさとほんの少しの辛さが宿っているのを自覚した。それとも楸瑛だから躊躇わず口にしたの、と心の中で疑問を口にする。
 むろん絳攸が答えてくれるはずはない。瞼が完全に下がったのを確認して、これならもう何を言っても聞こえないだろうと判断した。
「あなたの印が必要な書簡が残っているそうですよ、吏部尚書。―――後はお願いします」
 侍郎室の閉じた扉の向こうから漂う一切の容赦情けのない気配に向かって独り言のように告げた。
 最後に目にした私の藍色の衣を纏いどこかあどけない寝顔をのぞかせる絳攸に、一抹の寂しさを感じたが、後ろ髪を引かれるのを気付かない振りをして一歩一歩其処から遠ざかった。
 外に出ると上着を着ていない体に吹き付ける風に乗った水滴は心まで届きそうだった。






つづく
2011/7/24微修正(2009.12.6初出し)