「ああ、くそっ!終わらない!」
 濃紺に染まる窓の外とは対照的に縦にずらりと並んだ蛍光灯がその部屋を照らす。四角い積木でできたようなビルディングで光を放っている窓は片手で数えられるほどしかない。その一角、煌々と人工的な明かりが満ちているオフィスで一人残された藍楸瑛は必死にパソコンと向き合っていた。猛スピードでキーボードをタッチする。苛立ちと焦りで普段の倍速だが、間違える箇所も普段の二倍。理由は何だって今日――クスマスに休暇があるアメリカでイブに残業しなければならないのか、そして何で私だけ残してみんな帰ってしまたんだというものだった。此処まで仕事を憎いと思った事は今まで一度もなかった楸瑛だが、この日は舌打ちしたい程だった。
 画面右下の時計はそんな楸瑛の気も知らず、無情にも十時半に差し掛かった事を示していて、二十四日から二十五日へと刻々とタイムリミットは迫っていた。
 ―――ああもう終わったとしても絶望的にぎりぎりな時間だ。
 焦燥で指がもつれた。
 いっそのこと家に持ち帰ろうかと何度も考えたが、個人情報が載っている持ち出し禁止の資料なのでそんなことも出来ず、ならば投げ出してとも思わないでもなかったが、損失を考慮するとパソコンに向き合うことしか許されない状況だった。本音を言えば楸瑛は解雇されても、と思っている。だがそうしたら猛烈に怒り、絶縁状を叩きつきかねない――問答無用で叩きつけると確信している人物がいるためしない。その人のためにも今日だけは絶対にこの仕事を早く終わらせなければならないと己を奮起させ、ただ只管指を動かした。
 漸く最後の一文字を入力し終えた楸瑛はショートカットで保存をし、パソコンの電源を切った。壁に掛っている時計の時刻にがくりと頭と肩を下げたい気分だったが、絶対的に時間が足りない状況ではどんな些細な瞬間でも惜しい。
 ―――あと十七分で終わってしまう。
 クリスマスのツリーのイルミネーション点灯時間が。
前年の冬から転勤先のニューヨーク。日本との時差は十四時間で、日本では現在二十五日の昼だ。デジタルカメラが入っているブリーフケースを恨みがましい目で捕らえ溜息さえにも時を費やしてやるものか、と荷物を押しこむように入れた。コートとマフラーを乱暴につかみ自分以外誰も居やしないオフィスの廊下を走る。
 ―――クリスマスに写真を取ると約束したのに。
 日本に残してきた恋人と。渡米前に一緒に見た映画に出てきた、巨大なツリーをきらきらした目で見ていたその大好きな人のために。
「絳攸―――…」
 名前を口に出したら余計恋しくなった。
 エントランスを出ると風が突き刺さるようだった。ニューヨークの冬は寒く走っている途中でロングコートをひっかけ、だがマフラーは手に持ったままで楸瑛は吹き付ける寒気の中を走り、二十四時間営業のサブウェイに乗り込み五つ目の駅で降りた。目的の場所までとにかく階段や歩道を駆け抜けた。人通りが少なくなった通りは障害物が少なく、周辺一帯で一番の面積を誇り、また一番の高さを誇るビルが真っ暗なのが見えた時にはもう結果が解っていた。
 走る意味をなくし、惰性と未練でのろのろと歩く。そんなことで事実は変わることなく、イルミネーションはもう消えていて、そのせいでか観光客やカップルもいない。ツリーの前まで来ると楸瑛は膝に手をつき肩で息をして、巨大なそれを睨み上げた。視界を掠めた息は白かった。
 体勢を立て直し嘲笑うように風に吹かれ音を立てる黒い影を数分見つめ、子供が痛みを耐えきれなかった時の様に、無防備に、今から泣き出すのではないかと言うように顔を歪めた。吸い込んだままの冷たい息をそのまま吐き出すと、体の中心から末端にかけて底冷えしていくように、寒かった。煮え切らない思いと後悔。諦観と拘泥したい気持ちが止めていた足を、ぱちりと音がする様な瞬きで抑え込んで立ち去ろうと決心した時。
「遅い」
 楸瑛はこぼれ落ちるのではないかと言う程目を見開いた。
 声を聞いた瞬間冗談じゃなく心臓が止まるかと思った。間違えるはずがないが、こんなところで聞こえるはずのないそれは周りの音をすべて消し、波紋のように延々と頭の中に響いた。
 瞠目したまま首だけで後ろを振り返る。
「うそ……」
 掠れた声が向けられた先には背筋をまっすぐにのばし、ボストンバッグ一つを肩に担いだ男が同じように口から白い息を上げていつの間にか楸瑛の真後ろ、ニ十歩程離れたところに立っていた。顔を確認せずとも、雰囲気が、シルエットが、何もかもがその人だと告げていた。
「こう、ゆう――絳攸!本当に君かい!?」
「いつから目が悪くなった?それとも頭の具合が悪化したのか?現実だ、莫迦」 
駆け足で前まで行き、両肩を掴んだらジャケットが予想上以上に冷たくて、慌てて手に持っていたマフラーを巻き付けた。二人といない大切な人のあまりにもその人らしさと居てはならないという事実に、楸瑛はまさか夢か、と疑った。きっとまだ自分はパソコンと向き合っていて、でもいつの間にか寝てしまったのだ、と。目の前の願望の塊にそれでも会えてうれしいな、と思ったが、一層強く吹き付けた風は現実以外の何物でもない。
「仕事大変みたいだな」
「ああ、それが最悪だったんだ。終業時になって上司に仕事を―――ってそうじゃなくて!何で君が此処に居るのさ!?」
「此処のクリスマスツリーを見たかったからに決まってるだろう。今日――正確には日本時間の二十四日午後に飛行機に乗って来たんだ」
 今年ニ度めのイブだ、何か得した気分だ、と嬉色が滲んだ声で言った。
 頬に触れると氷のように冷たくて、楸瑛は驚いた。
「ちょ!君、いつから此処に…!?」
「教えてやらん。秘密だ」
「こんなに冷えて。ツリーを見たってことは、少なくとも十一時前にはいたんだろ?それで、何処に泊まってるの?」
「急いできたからホテルなんて取ってない。だから泊めろよ」
「ええ!?それはもちろん構わないけど、むしろ大歓迎だけど、君、行き違いになったら本当にどうするつもりだったんだ!?」
「もう少ししたら近くのホテルにチェックインするところだったな」
 何でもない事のように言われ、本当に行き当たりばったり、思い付きで十数時間飛行機に乗ってきた事が嘘ではないと実感し、うなだれた楸瑛に参ったか、と絳攸は何故か威張った。全身から力が抜けたついでに、そのまま澱のように燻ぶっていた想いが素直に口を吐いた。
「クリスマスに写真送るって言ったのに、出来なかった。ごめん」
「そんなの明日実物を見た方がもっといいに決まっているだろ」
 え、と問い返そうとしたら何処からか聞こえた鐘の音にかき消された。つられるように確認した腕時計の長針と短針はともにXIIを指していた。日付が変わったと言う以上の意味を考える前に楸瑛、と呼ばれて顔を上げると珍しくなんのてらいもないような、それだけで胸が温かくなる笑顔の絳攸がいて。
「メリークリスマス」
 もしかしてなどと考えるまでもなく、何よりも最高のクリスマスプレゼントをもらってしまって、楸瑛は珍しく少し顔が赤くなるのが解った。
 こんな顔、まさしく反則で心臓に悪い。でも幸せだなあ、と思うのでどうしても頬がゆるんでしまう。
 ―――このために、このために来てくれたんだろうか。私に会いに。私と一緒に見るために―――…。
 参ったなあ、降参だ、と先程威張った絳攸を思い出し楸瑛は頭の中で答えた。この人には一生敵わないだろうなあ、と認めても悔しいどころか満ち足りてくるから不思議だ。結局それは好きで好きでたまらないからなのだろう。
「絳攸、メリークリスマス。会いたかった。ずっと君に会いたかったから来てくれてとても嬉しいよ。明日、クリスマスツリーを一緒に見よう」
 楸瑛の想いに応えるように笑い返してくれる恋人に近寄って、愛してるよと囁いた後その唇を塞いだ。






2010/12/21