俺の右手は時々凶暴だ。空中で人を躊躇いなく殺す手は地上に堕ちれば日常生活にその凶暴さを埋もれさせていく。顔を洗ったり、肩をたたいたり、人に触れる右手に殺意はない。ただ時々、どうしようもなくなるときがあると言うだけの話だ。戦闘機乗りは時々狂うが、俺の場合はまず右手が何よりも先にそうなってしまうだろうと思う。暴走しかけた手首を左手で押え、目をつむる。 雲の上を走り、突如目の前に現れる戦闘機が思い浮かぶ。瞬きする暇さえない旋回とその間際の射撃。右手の親指が動く。撃った後に敵機を見ないのが俺独自のルールだった。その方がうんと効率がいい。後ろから迫って来たもう一機を撃ち落とす。 ゆっくりと高揚感を抑えるように瞼を持ち上げる。右手の震えは小さくなった。そっと左手を離すとうっすらと手形が浮かんでいる。 茶色い木の床。一つしかない小さな窓から射す光は明暗を分けるように部屋を横切っていた。 「いつかこの右手が暴走する時がきたら、楸瑛」 後ろに居る楸瑛が首を振ったのが解った。言って欲しくないとでも言うように。その姿を想像すると胸が痛んで、俺は苦笑した。 「大丈夫だ。君は狂ったりなんかしない」 「頼む。お前以外は嫌だ」 「絳攸っ!」 背中から抱きしめられ、肩口に重圧がかかった。黒髪が頬に触れて胸が疼いた。 「こうゆう…!」 必死な声にも答えることが出来ない。ああ、どうせなら――。 空の上。 そうだ。其処がいい。 こんな顔をさせるくらいなら、其処がいい。 それにその確率の方が高い。俺はいつ死ぬかわからないパイロットなのだから。 ひとりで死にたくないとでも思っていたのか。 「楸瑛、時間だ」 頭が微かに動いた。腕を振りほどきかかとを合わせ回れ右。楸瑛の苦しそうな顔が窓の光を通して見えた。額に斜め四十五度を取った手をあてる。こっちの顔は見えない。向こうからは逆光だ。 「李絳攸、今から出発致します」 「――。了解した」 視線を感じる。 「李操縦士、命令だ」 「はい」 「帰ってこい。何があっても、絶対に戻ってこい」 その声が震えていて――。 右手が――。勝手に動く。俺の右手は時々凶暴なんだ。暴走するんだ。この人殺しの手で、触るなど―――。 一介のパイロットである俺なんかよりもはるかに偉い司令官である楸瑛襟元をつかみ引き寄せていた。吐息が一瞬重なって直ぐに離れた。驚いた顔が直ぐそこにある。 「好きだ」 「こう、ゆう」 「もし俺が戻って来れたら――」 骨がきしむ程つよく抱きしめられた。 「うん。命令だ。君は私の命令に一度も逆らった事はない」 「――行ってくる」 「戻ってきたらキスしてもいい?」 右手を取られ、手の甲に唇を当てられる。緩められた力と少し開いた距離。 そんな風に真剣に見つめるから――。 「熱いコーヒーでも飲んで」 そんな風に嬉しそうに笑うから――。 今は空でいいなんて贅沢なことも考えられない。待っててくれると言う酔狂な奴が居る限り――。奴は否定するだろうがいつか狂うその日まで。出来ればほんの少しでも長く―――。 「待っていろ」 俺の右手の震えは完全に止まっていた。 2010/4/21
|