ツーツーというヴァリエーションが無い機械音を聴き続ける能力の限界は早いということを楸瑛は身を持って知った。 電話をかける。たったそれだけの行為が難しい。だって相手は好きな人だもの、なんて。 そこまで考えて溜息を吐いた。二十歳を五年以上前に過ぎた、それも自他ともに認める遊び慣れた大人が言っても不気味なだけだ、と楸瑛は解っている。なんとも情けなくて文字通り肩ががくっと下がった。 いい加減右の耳の奥が無機質な音のせいでつーんとしてきた。そもそもいい年をした大の男が受話器を耳にあてたまま、空でも言える片思いの相手の電話番号を押せずに睨めっこをしている図なんて気持ち悪い。それも気持ち悪いポイントが一つや二つじゃない。聞き飽きて耳に残ってしまった音と中学生の様な乙女思考にウンザリして、観念したように初めてかける固定電話の電話番号を押した。 意中の相手は会社の同僚で、携帯電話という便利な伝達媒体を通して何度も話をしているのに、散々躊躇った理由は家に電話をするのは実ははじめてだから。呼び出し音が鳴ると、楸瑛の緊張は高まる。早く出ろと思うのと同時に、いっそ留守であって欲しいと相反する気持ちが行き来する。三コール目。やるなら早く、一撃で、苦しみは長引かせないでほしい。しかしそんな楸瑛の気持ちとは裏腹にたっぷりと七コール待たされた。その七コール目の途中で、呼び出し音が途切れたとき心臓が一瞬止まった。 「もしもし。どちらさまでしょうか?」 少しよそいきではあったが聞き慣れた声に、楸瑛は少し安堵した。 「もしもし。私だよ、絳攸」 「――おれおれ詐欺はお断りだ。切る」 電話越しでもわかる程に、声が一気に不機嫌になったため、楸瑛はひっそり笑った。電話の相手――絳攸は勿論解ってやっているのだ。ペースを取り戻すとすらすらと言葉が出てくる。 「待った。君を罠に掛けるのはとても面白そうだけど、そうとう骨が折れるだろうね。君を知っている相手から見れば効率的とは思えない。歴代稀に見る頭脳戦になるだろうね。是非観戦する側に回りたいな。学生時代に居酒屋の代金を賭けて、とかなら面白うそうだけど、残念ながら私も君もそんなに若くないし。第一私はお金に困ってないから、犯罪に手を染める気はこれっぽっちもないよ」 「長ったらしい上に嫌味な奴だ。それで用件は?下らなかったら今度こそ本気で叩き切る」 「残念ながら真面目な話」 意外だったのか絳攸はほう、と唸った。 「明日急きょ訪問することになった取引先が、君が去年の人事部移動前に大口契約を結んだ所なんだ。その時の事について少し聞きたい事があるんだけど、いいかい?先週回って来た部下の話によるとなんでも結構気難しい担当らしい。落とすには情報戦が有効だろ。それで君の話も聞きたい」 「ああ、かまわん。家だから昔の資料は手元にないから適当だがいいか?」 「十分だ。君の記憶力は信用してるよ」 悪鬼の副頭目と陰日向で名を馳せる絳攸の怒鳴っている時とは違って落ち着いた低い声を聞きながら、楸瑛の頭の半分は忘れもしない二年前の夜を思い出していた。 その日楸瑛は絳攸に襲われた。 高校時代からの友人同士だった絳攸と楸瑛は同じ会社に入って数年、めきめきと頭角を現していた。いくつか仕事を任されるようになり、異例の昇進を果たして出世街道まっしぐらの金ぴかに輝く階段を戦闘機もビックリの音速に匹敵するような速さで駆け昇って来た。 そんなある日の金曜日の夜。部署での昇進祝いから数日後に二人だけで酒宴をした時、絳攸は珍しく沢山飲んだ。それにつられて楸瑛もいつもより杯を重ねに重ねた。何件か居酒屋を回り、電車もなくなった頃にはちょっとした事に笑って、その笑いがさらに可笑しくなるというような見事な酔っぱらい二人が出来あがってしまっていた。もっとも楸瑛は覚まそうと思えばそれが可能なくらいの理性はいつも残していたから、店を出て絳攸が一人で立つ事が出来ない程の酒漬けになっているのに気付くと、少し正気を取り戻して潰れている絳攸を抱えながらタクシーに乗り込み楸瑛のマンションの前で止めてもらった。 部屋に着くとそれまで肩に担いでいた絳攸を引きずってリビングに転がす。キッチンまで行き蛇口をひねりグラスに水を注いで戻って来て、絳攸の肩を揺らす。酒臭い塊が抗議のため小さくうめき声を上げた。 「絳攸」 「うう…」 「ほら、水飲んで」 のろのろと置き上がった絳攸が半眼以下の三分眼とも言うべき様子でグラスを受け取り水をゆっくりと嚥下する。空の容器を握った手がそのまま床に力なく投げ出された。 「絳攸だいじょ」 下から柔らかく湿った何かが楸瑛の唇に触れ、言葉を遮られた。柔らかさとぬくもりが消えた一瞬かちあった視線は酔っぱらいそのものに蕩けていた。見開いた眼前に現れたせいで焦点を結び損ねた銀糸がゆっくりと下に落ちてゆく。 何が起こったのか理解できなかった。 強いアルコール臭とまじりあった髪の毛のほんのりとしたいいに香り唇にぶつかったなにか。 自然に手が唇へ当てられた。 そして気付いた。それは信じられない程優しいキスだった。 半ば茫然自失のまま視線を下ろすと、ずり落ちたまま絳攸は床に右頬をくっつけてうつ伏せで寝ていた。 酔っぱらった相手に軽くキスされただけで、遊び人を気取る楸瑛にはよくある事と言ってしまう事も出来たのだ。でも楸瑛には襲われた、という言葉を選ばされる程の衝撃を持っていたのに、元凶の絳攸はショックを与えるだけ与えて、何の弁明もなくすやすやと気持ちよさそうに寝息を立てている。 自然とその唇に眼が行ってしまって、慌てて顔を横に向けた。 結局楸瑛はその混乱で日一睡もできなかった。白んできた空が眩しくて、目が痛かった事をよく覚えている。 絳攸が起きてからそれとなく探りを入れてみたが当の本人はきれいさっぱり忘れている様子で二日酔いに苦しんでいた。 「――思い出せるのはこれくらいだ。何か聞きたい事はあるか?」 「えっと………ないよ」 我に返って楸瑛は慌てて頭を切り替えたため、妙に歯切れが悪くなってしまった事を苦く思う。不審に思われただろうか。顔が見えなくてほっとした。 「明日は何時頃向かうのか?」 「午後からだよ」 「必要なら当時の資料を昼までに用意しておくがどうする?」 「いや、いいよ。君の話だけで十分参考になった」 車内一忙しいと評判の人事部の精鋭として働く絳攸にそう暇などないだろうに。 無理な響きが一切ない声を聞きながら楸瑛はあの当時を思い出した。 絳攸があんな風にキスをするなんて、意外だった。まるで壊れ物を扱うみたいに、大切なものに触れるように接するなんて。まるで楸瑛の事をその対象として扱っているようで――。 思い出すたびに胸が熱くなって、絳攸を避けた時期もあったがそれでは解決せず、把握できない感情を持て余していた。キスされても嫌じゃなかった。 初めはそれは絳攸だからだと、意味もなく信じ込んでいた。どこかに疚しさが残るに気付かない振りをして。それにしては妙にそわそわしている自分を本格的に変だと思った。 好きかも知れないと思いあたった当初かなり悩んだ。だって同性だし、あの泣く子も黙る人事部の副頭目、李絳攸だぞ、と散々目を覚ませと言い聞かせたが、一旦疑惑を持てば持つ程それは否定するのが難しくなっていった。漸く認めたのがあの日から半年もたったころで、その途端絳攸へ向けられる感情が甘酸っぱく、ほろ苦いものに一気に変化したのだから笑えて来る。 以来二年目に突入した長い戦いに楸瑛はまだ身を置いているが、標識は一方通行ばかりな気がして何度美味しくない酒を一人で飲んだことか。 なーんて、と思い出に蓋をしようとした時。 ドスンドスン!! 受話器から聞こえるもの凄い音に楸瑛は驚いた。 まるでアニメに出てくる巨大ロボットの足音の様な、もの凄く思い何かが落下してきた時に似た音がした。UFOでも墜落したか、と有り得ない事を一瞬考えたくらいだ。 「――」 「何でもない」 一言目が出る前に、間が埋まってしまった。 「でも――」 「なんでもない」 今度は強い声で一音ずつ区切って言われ、気まずい沈黙が横たわった。 「………」 「………」 「漬物石が落ちた!」 電話台のどこに漬物石があるのか。明らかに嘘だと解ったが、聞かれたくない事だと言う事は明らかだから楸瑛はそのまま乗っかった。 「床は大丈夫かい?」 「だ、大丈夫だ!」 絶対やけっぱちだ。 絳攸と電話と漬物石。床に穴があいたのを想像して喉の奥で笑った。 「――絳攸」 「何だ?」 先程の名残かまだ少し棘を含んだ調子で絳攸が言った。 電話と言うのは便利だ。楸瑛のこの緊張した声の響きが向こうに届く間に失われているのだから。 「今度さ」 「何だ?」 「飲みに行こう。――二人だけで」 相手の顔が見えないからどんな表情をしているのか解らない。だからこそこんな事を言えるのも確かだ。 「そうだな」 低い声から紡がれた了解とも取れない言葉を聞いて楸瑛は苦笑を浮かべる。この関係に満足しているのも確かだが、それ以上の切なさを悟られないようにことさら明るい声を出した。 「今日は助かったよ。家でのんびりしてるところに電話して悪かったね」 「構わない」 挨拶をして電話を切った。 ツーツーと鳴りやまない機械音をしばらく聞いていた絳攸はやがて受話器を置いた。 大丈夫。気付かれてない。 言い聞かせてゆっくりと息を吐いた。 そして握りしめて壁にニ度叩きつけた手をゆっくりと開く。電話の向こう側にも聞こえる程思いっきりぶつけたから少し痺れたが、ニ三度振ってそれを誤魔化す。 楸瑛が家に電話なんてしてくるからいけないのだと絳攸は思った。便利な現代に携帯電話ではなくて何で固定電話なんだ。 再び壁に拳を繰り出したくなった。 家の電話。些細な違いに動揺して、そして電話を通して僅かに機械的な、少し困ったような楸瑛の声を耳に直接吹き込まれて、その上、酒を飲みに行こうなどと誘うから――思い出してしまったではないか。 あの日、絳攸が泥酔して楸瑛の家で転がっていた夜を――…。 絳攸は忘れてなどいない。 翌朝酷い頭痛と関節痛を伴って目覚めた絳攸は酒臭い自分と、見知らぬ部屋とやや蒼白な顔色と見開いた眼の下に隈をこしらえたまるで幽霊を見た後の様な表情の楸瑛の横顔を認識した。 絳攸が起きた気配ギクリとし、まるで油が切れたおもちゃのようにギギギと音がしそうな程ぎこちなく振り返る。そのくせ目が合うと顔を逸らされて、わずかに不愉快に思ったが。その行動の意味を思い出してしまった。絳攸が何をしたか。 感触なんて覚えていない。それを悔しいと思った自分を呪いつつ、それでもやはりもったいないと思うから末期だ。 その後のそれと解る作り笑いが痛々しかった。絳攸と楸瑛両方にとって。 ――君、そうとう酔っぱらってたね。酷い顔をしてる。 ――そうみたいだな。悪いが途中から記憶があいまいなんだが…俺はなんかやらかしたか?十分迷惑だったと思うが…。 ――いいや。そんな事無いよ。 とっさに覚えていない振りをした絳攸に楸瑛はそう言って苦笑した。 何気に面倒見が良い楸瑛が酒で潰れた後輩をよく介抱しているのと同じようなものなのだろう。きっとそれくらいの感慨にも、酒での失敗談にすらならない出来事だったのに違いない。 それでも絳攸は後悔していない。 一生言わないつもりなんだから、隣でいつも楸瑛の噂を聞かされるのだしあれくらいの事は目を瞑って欲しい。 楸瑛はもう忘れているかもしれないけど、絳攸は覚えている。 2010/08/08
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