――楸瑛先生は絳攸先生と随分仲が良いんですね。 紫煙を青空に向けて吐きつけた。抜けるような空が憎い訳ではないが敵意が籠っていたことは否定できない。 きっかけは今まで散々言われてきたたわいもない生徒の一言だった。楸瑛はそれに高校の同級生だと言い、絳攸と当時学会で話題になっていた数学の命題の真偽を発表されたのとは違うアプローチで証明できるか夢中になって競い、お互い寝不足で授業中に居眠りして怒られ一週間二人だけで放課後に教室掃除を命じられた仲だよ、などと笑いを誘うエピソードをいくつか紹介するとその生徒は納得した。締めくくりはそういうわけだから、となんとも曖昧なものだったが気付かなかったようだ。理系の生徒は国語が弱い者が多く、論文の採点をすると散々な時がある。 ――国語能力を磨け。 楸瑛は絳攸によくそう言われてきたことを思い出す。お前の書く論文は親切じゃない、と。学会に提出する論文なんだから平易な言葉を使う意味は無いと答えるとお前は完璧な理系だと返された。 楸瑛はその評価はむしろ絳攸の方こそが相応しいと思っている。 彫刻の様な顔立ちはしかめっ面が八割、紫がかった怜悧な瞳はメガネの奥でいつも少し不機嫌にゆがめられ、結ばれた口と眉間のしわはデフォルト。きれいな顔立ちなのに見た目には頓着せず、髪の毛は寝起きのまま前衛的な絵画の中の人物のように跳ねているのを見つけては楸瑛が整えていた。服装も数パターンしかないし彼に選ばれてしまったカバンは容量オーヴァー必至の可哀想な有様だ。 彼の興味は常に数字と数字の関係にそそがれている。 工学部の喫煙所。脂が染みつき変色した灰皿。申し訳程度に乗っけてあるトタンの屋根とそれを支えている柱はすっかり錆ついて赤茶けている。屋根には空が見える風流で不便な穴がいくつかあいていて、雨の日には今日の様な白いワイシャツを汚す破目になる。 昨今喫煙者は迫害されている。 今度製図を担当している教授に喫煙所を課題のテーマにしてもらうように頼んでみようかなどと下らないことを半ば本気で考えて、煙草を咥えた薄い唇をゆがめた。 楸瑛はヘビースモーカーだ。煙草とコーヒーがない世界では生きていけないと本気で信じているだろ、と絳攸にいつも言われるし実際そう思っている。 二人の関係は――。 簡単に言ってしまえば友達以上。続く言葉は想像通りの恋人未満。 こんな表現も彼の前では一蹴にされて空に吸い込まれ星になって消えて行くだろう。その彼曰くただの知人で腐れ縁らしい。高校時代から口癖のように仲が良いと言われ親友だと答えるたびに隣で聞いてきた言葉だ。 そりゃ同じ高校出身で同じ大学に進み似たような研究をそこの大学院で進めマスターの後ドクターを取得し――。別々の大学で助手として働いたあと、同じ時期に建築学と土木工学の准教授として母校に迎えられ、同僚として道が再び交わったともなれば友達と呼ぶにはもったいないし、連名で論文をいくつか書いていても過去が過去だからなるほどただの同僚よりも腐れ縁のほうがしっくりくる。 准教授としてこの大学で久々に顔を見たとき彼がもたらしたのは懐かしさと胸の痛みだった。 ――ああ、私は絳攸のことがずっと好きだったんだ。 そのとき初めて気付いた。 淡い恋心なんて存在しない。恋心そのものが幻想だとすら思っている。それでは説明できない切なさはAからZの言葉の鎧を纏い数字の0から9を組み合わせた理論を駆使して冗談だけで済まそうとしてきた。このあまりの臆病さを知られでもしたら普段の浮名も相まって笑い草だ。 吐き出した紫煙はかき消え、肩身が狭くなるように仕向けられている喫煙所で一人孤独に煙をくゆらしながら思いを燻らせておくくらいが丁度いい。 それにしては聞きなれた足音が響くタイミングが良すぎた。 「おや、珍しいお客さんだ」 「煙草」 にこりともせずに差し出された右手に長方形の小さな箱をのせると、箱の中のライターと煙草を一本取り出し火を付けライターごと楸瑛に戻した。胸ポケットにしまう。残りは七本。楸瑛にはなんでもカウントする癖があるから中身は把握している。今日中に一箱買わなくては供給が消費に追い付かない。 「授業開始十五分分前。今まで一度として授業に遅れたことないばかりか五分前には教室で待っている君がこの時間に私が居るこの場所に来るとは。偶然にしては出来過ぎている。今から運命論者にでもなろうかな愛しい人」 「お前と運命についてとやかく話す気はない」 ははーん、と楸瑛は思って右眉を上げた。喫煙は何か難しい考えごとをしているときの絳攸の癖だ。 「で、どんな難問に直面しているんだい?そんなに難しいのかい?」 「まあな。お前をどうやって落そうか策略を練っているところだ」 楸瑛は指にはさんでいた煙草をぽろりと落とした。まじまじと喫煙中の端整な横顔を眺めたが、際立った表情の変化は無い。胸ポケットをあさって新しい煙草を咥えた。 「本当に珍しいね。君がそんな冗談を言うなんて。天気予報を見忘れたけど、もしかして雪でも降るのかい?」 「安心しろ。今日も明日も明後日も晴れだ。――俺も歳だからな。こんなことを言うくらいには社会に適応して頭が悪くなったんだ」 「その歳で取れる賞を総なめにした君のその発言は撤回して欲しいけど、まあ解らなくもないよ。世の中無駄が多い。その無駄の中にいろんなものを組み入れようとしてる」 「受賞はお前も同じだろ楸瑛」 絳攸は目を細めて煙を吐き出した。眉間にしわを寄せる姿は喫煙自体を楽しんでいる訳ではない。煙草を吸うと頭が冷えるということを生物学的な証拠を挙げて講義を聴かされた夜を思い出す。あの日の酒は味がしなかった。 「行かないのかい?」 「ああ行く」 しかし絳攸の口からまた煙が上った。きっちりと吸い終わるまでここに居るらしい。 学会で発表されたばかりの理論のことが思い浮かんだが、常日頃から仕事に追われている絳攸に対してここでその手の話をする程楸瑛は野暮ではない。 「――そう言えば絳攸。今日は何の日か知ってる?」 「お前が何を期待しているのかは知らないが、量子力学、土木工学、建築学、あとそうだな、数学的にいろんな発見があった日だというのは解る。中でも俺が感銘を受けたのは」 「ストップ。その続きはお断りするよ。押しつけがましいと思われたくなくて回りくどい言い方をした私が悪かった。今日は私の誕生日なんだ」 「それで?」 「それでって君。そりゃ私の生まれた日なんて君の大好きな力学や土木工学、建築学、物理学史上に残らないだろうけど」 「数学だ」 「失礼。数学的に重要でも何でもない事だろうけど、他になにかないのかい?」 「何も持ってない」 不意打ちに楸瑛はぷっと吹き出した。じろりと睨まれればますます呼吸が苦しい。 「何が可笑しい」 「あの李絳攸がそんな事を気にするくらい人間的になったこと。君にプレゼントなんて期待してないけどこの調子なら数年後にはどうなるか解らないね。せっかくだから君に言ってもらい言葉があったけどどうでもよくなったよ。今私は最高に気分が良い」 「単純な奴だな。それより言わせたい言葉とやらは何だ?只だし幾らでも言ってやる」 「君の言動にはいつも私の心は左右されてるのを知らなかったのかい?でも秘密。無理やり言わせても意味がないから」 「――そうでもないぞ」 楸瑛は大きく双眸を瞬かせた。 「―――どういう意味?」 「さあな」 灰皿で火を揉み消して時計を確認した絳攸はそのまま楸瑛に背中を向け歩き出す。 「ちょっと待った!絳攸」 焦って呼び止めると歩きながら絳攸は顔だけ楸瑛の方に少し向けた。 「自分で考えろ。宿題だ。次に会ったときに答え合わせをする。間違ったら酒代はお前持ちだ」 「絳攸!」 もう振り向かない。 授業十分前。ここから教室までは五分もあれば着くだろう。 偶数週の金曜日は大抵二人で飲み会だ。つまり次に会うのは三日後。長いのか短いのか――。 ぼろぼろの喫煙所に取り残された楸瑛はまだ長い煙草を揉み消し誕生日プレゼント代わりの置き土産を解くために研究室へ向かった。 ※※※ 下町の風情が残る通りに並ぶ居酒屋の列を一度楸瑛は数えたことがある。初めて絳攸と飲みに行ったとき入ったのは学生の懐に優しそうな十五番目の店だった。この日は二十三番目。2と3と23がすべて素数で、2から23までの素数の合計が100になるところが気に入ったからだ。 客の入りはなかなかで赤い顔をしたサラリーマン風情の男が陽気に酒を楽しんでいる。 少し離れた場所にある座敷に座りながら、お互い間合いを測る剣士のようにどこかぎこちなさを残して向き合った。 この三日間楸瑛は「宿題」の「答え」を求めるためにパソコン画面と睨めっこを続けていた。 昔から解けない問題があると気持ち悪くて仕方がない。コーヒーと煙草の大量摂取をしながら絳攸の思考パターンをシミュレーションし、前後の文脈を吟味したうえで仮説を立て、統計を取り確立とそれに伴う誤差を求め一応答えらしいものを探求したが、それはいまだに仮説として留まっている。 三日でよかったと思った。これが十日先とかならカフェインとタールで死んでいたかもしれない。 芳醇な香りを楽しみながらお互い一杯飲み終わると、降りた沈黙はそういうことだ。 「さて答え合わせだ、楸瑛」 待っていたかのようなこれほどにないタイミングだった。まるで絳攸の講座を取っている生徒にでもなった気分に陥った楸瑛は粛々と重たい口を開く。絳攸の採点は厳しいと有名だし、楸瑛自身確証がないものは好きじゃない。人の心なんて曖昧のシンボルでどんな数学の証明よりも難しい。 「今までの君の言動、思考パターンを参考に統計学をとって確率を求めることで一つの仮説に辿りついたんだけど」 「さすがだ藍楸瑛。いいスタートだ。データは嘘を吐かない」 思わず苦笑が漏れたがそれは緊張を隠せない程乾いたものだった。でも真っ直ぐに見返すくらいの勇気は湧いた。どう思われようと間違っていたら冗談で済ませる準備だけは万端だ。 「君、私の事好きなの?」 音が消えた。それは錯覚だったが絳攸の表情の変化の一つ一つを見逃さないように、息を止めていたのかもしれない。瞬き一つした後開きかけた絳攸の口にぎくりとした。 「五十点」 「は?」 「お前は普段の行いも悪すぎだから総合的に挽回なしのFだな」 「え!?」 「よってここの会計は八割お前持ちだ。残りの二割は温情だ。以上」 そう言って軟骨を口に放り込みこりこりと噛み始めた。 間違えかもしれないと思っていたが五十点。実際にこんな点数が付けられると話が別だ。それも絳攸が楸瑛の事を好きだという仮説に着いた点数だから話は別だ。 「今日は全部払うから君の用意した模範回答を教えてくれないか」 絳攸はいいだろう、と言って喉を上下させた。 「――俺もお前の事が好きだ。これが百点の回答だ」 「―――ちょっと待った」 楸瑛は持ち上げていたグラスをドン、と乱暴な動作でテーブルに置いた。 「どこが違うのかさっぱり解らないよ。普段の行いのことは問題を出したときに聞いてないから無効だし、私の回答だって百歩譲っても九十五点でどう考えてもAだね!ゆえにここは君の奢りだ証明終了!温情で一割は私が出そう!」 「ちょっとまて楸瑛!反論を申し込む!全然違うだろ!国語の勉強しろ常春頭の建築馬鹿!」 「失礼だな君は!国語は私の特科目の一つだ!」 「俺より点数低かった奴が言うな!一度も勝てなかったくせに!」 「完璧の璧を壁と書いた土木馬鹿の君に負けているつもりはないね!」 「昔の話を持ち出すな常春頭!」 「君が初めに言いだしたんだろ!」 口論に発展しつつあったそれを止めたのは店員だった。教え子と同い年くらいのバイト風情の娘が困り顔で座敷の横に立っているのに気付いて、店が静まり返っているのを知った。感じる視線には好奇心か迷惑がしっかりと籠っている。統計を取った訳ではないが1対4の割合で後者が優勢だという予想は事実とさほど遠くないだろう。 楸瑛と絳攸は縮こまって済まないと詫びた。表情に困ったのか苦笑した娘がごゆっくりと言って完全に姿が見えなくなるまで二人は一言もしゃべらなかった。 絳攸と楸瑛はいつもこうだった。意見が合わないと直ぐに口論になる。それは学生時代も今も変わらない。とても学年一ニを争う頭脳の持ち主や、今では学会の期待のホープだと陰日向でささやかれている研究者だとは思えない幼稚な言い争いばかりを繰り返してきた。 息を切らした楸瑛は、絳攸の模範解答を吟味しないまま気まずさから少し窺うように尋ねた。楸瑛には違いなんて解らない。 「私の回答のどこが気に食わないんだい?」 「お前が俺の事好きだという要素が欠けてる」 同じく肩で呼吸をしている絳攸の言葉に楸瑛は呼吸を忘れた。 そこにあるのは文法的には些細な違い。でも――。 絳攸は楸瑛の事が好きだ、では半分。 絳攸も楸瑛の事が好きだ、が正解。 だから五十点。だから半分。 楸瑛の気持ちがあって、絳攸の気持ちがある。2分の1と2分の1を足してはじめて100パーセントだ。 ストンと納得し、楸瑛は国語が苦手かもしれない、とこの時初めて思った。 「本当だ。どこもかしこも間違いだらけだ。全く君には勝てないね」 「当たり前だ」 自信満々な返事にくしゃりと破顔した。次に持ち上げた杯に待っていたかのように軽くぶつけられたグラスに小気味よく笑いが込み上げてきた。 「君いつから私のことが好きだったんだい?」 「お前よりはあとだ」 「―――そう」 隠していたつもりなのにバレバレだったのかと思うと、ヒヤリとしたが今となってはどうでもいいことだ。追加で注文した熱燗を注ぐ。 「この間の言葉は本気だったんだね。ほら私を落とす方法がってやつ」 「ああでもしないとお前は動かないからな」 「私の事なんて解りきってるみたいだね」 「お前よりはな」 全く敵わない。こんな相手は楸瑛の人生で絳攸しかいない。 彼以外にはいらない。 「ところで絳攸。私は積年の片思いに決着がついてそれも晴れて君と思いが通じ合って嬉しくて仕方ないんだ」 ずいっと顔を近づければ迷惑そうに左眉が釣り上がった。 「キスしていい?」 「馬鹿かこの常春頭!いいわけあるかっ!」 振り回された手が命中する前に、手首をつかむ。国語が得意だという認識を百八十度改めた楸瑛は絳攸の言い分を無視した。国語の点数が負けでもいいなんでもいい。 合わさった唇。隙を逃さず舌を差しこむと口内にうっすらと残るのは煙草の味だった。李絳攸が煙草を吸うのは――。 心を落ち着けたいとき。冷静になる必要があるとき。つまり何かしら焦ったり詰まったりすると喫煙に走る。 込み上げてくる温かさの正体。それが愛しさだと気が付いて、楸瑛は幻想の具現を抱きしめた。 |