紅邸と張り合える程の広い屋敷の門を抜けた絳攸は手に傘を握りしめ、軒から降りた。雨が降り出しそうな曇天の中、案内してくれる家人の後を歩きながら屋敷内へと踏み入れた絳攸はキッと前を見据えた。
 百合さんと――黎深様のために頑張らなくては。
 百合のふんわりとやさしい笑顔を思い浮かべて己を奮い立たせた。
 事の発端は黎深が出かけたこととこの日の天気が変化したことに始まる。

「絳攸お願い!この傘を黎深の出先に届けてほしいの!!」
 どうやら黎深が戻ってくる夕方には雨が降るようなのだが、傘を持たずに出かけて行ったらしい。いつもなら百合が行くところだが黎深の行き先が問題だった。百合はちょっと理由があってその屋敷には入れないのだと絳攸に告げた。慌てた様子の百合に絳攸は思い至った。きっとここが黎深様の愛人宅なのだ。黎深様は百合さんと結婚した後も愛人に会いに行っているのだ導き出し、絳攸は震えた。
 ダメだよ黎深様!百合さんという物がありながら!リコンされちゃうよ!と心配して青くなった。百合を逃せば黎深は間違いなくこの先独りぼっちだ。それに絳攸だって百合がいなくなればさびしいし、黎深と二人っきりでやっていく自信は正直ない。第四の人生を歩むのはさすがにご免だし、四でとどまるか怪しい。
 ここは何とかしなくては!と奮起すると同時に、百合は絳攸に様子を探って来てもらいたいはずだ、と思った。
 扉の前に立つと、さすがに緊張してきた。
「失礼します」
 家人がこの屋敷の主人――黎深の愛人に紅家から使いがきた報告をしている途中に絳攸はえいや、と部屋の中に入った。礼を尽くさないのは小さな絳攸なりの宣戦布告だった。
 部屋には机を囲んで黎深と一度あったことがある悠舜ともう一人――。もの凄い綺麗な人がいた。うっとりするどころか完璧すぎて恐怖を感じる程だ。
 三人ともいきなり入ってきた小さな子どもをじっと見つめるが、絳攸は美貌の麗人を目をまん丸にしながら見ているのを知ると悠舜が慌てた。
「ほ、鳳珠!仮面を装着して下さい!」
「え、ああ!」
 鳳珠は机に置いてある仮面に素早く手を伸ばす。最近ではすっかり仮面姿が板についてしまった鳳珠である。
 黎深はぽかんと口を開けている絳攸を見て、眉を寄せた。
「絳攸、何の用だ?」
 黎深の声に我に帰った絳攸は慌てて百合に教わった挨拶をした。
「はじめまして、黎深様の養い子の李絳攸です」
 手を合わせ軽く膝を曲げて一礼。流れるような動作をこなした絳攸の様子を黎深が偉そうに、悠舜と鳳珠は驚きながら見つめた。この美貌に耐えられるとは。
 確かにありえない顔だが、絳攸にとっては百合同様黎深の方が数倍倒れたい存在だ。だから驚いたけれど、それだけだった。
 それにいくらきれいな人でも男だ。悠舜も一緒にいることだし愛人宅ではないと悟った絳攸は、リコンの危機回避に安心してにこっと笑った。
「黎深様。雨が降りそうなので傘を届けに来ました」
 立ち上がった黎深が絳攸から傘を受け取る。
「突然お邪魔して申し訳ございません。僕はもう失礼します」
 きちんと頭を下げてから背を向ける絳攸に、仮面を持ち上げた手を宙に浮かせたまま固まっている。
 悠舜はうなった。百合といい絳攸といいなんでこう黎深の周りは恵まれているんだろう。訛がすっかり抜け利発な眼をした絳攸については百合が育てたことも大きいのだろうが、黎深を反面教師にでもしてるのかな、なんて失礼なことまで考えてしまった。
 それにしても、と横目で石像と化した鳳珠を盗み見る。これではまるで鳳珠が百合に一目ぼれをした場面そのまんまだ。相手は子供だし同性だしいかに賢くていい子だとはいえ黎深と百合の息子なのだから、まさかありえないだろうと思っている悠舜の心を読んだかのように黎深はきっぱりと言い放った。
「鳳珠、あれは男だ。惚れるなよ」
「ほ、惚れるかーーーーー!」
 叫びながら手にしていた仮面を黎深めがけ投げ付けた。

 百合への失恋その他もろもろの苦々しさとしょっぱさを味わった、鳳珠十九歳の春。






(※鳳珠の年齢は原作では語られてないので捏造です。コウから絳攸になった直後?)
2011/08/10