黎深は目の前でぎゃーぎゃー怪獣のように怒鳴る絳攸をつまらなさそうに見ながら扇をぱたぱたと動かしてやる気なく風を送る。やや汗ばむ陽気にこんなに怒っていては沸騰してしまうだとか、眉間に刻まれた皺がなければま見れる顔なのに、などと絳攸の「仕事して下さい」という嘆願は馬耳東風で別のことを考える。それにしてもいつにもまして今日は粘るな、とどこまでも人ごとのように思った。 だいたいこれが人に頼みごとをする態度か。素敵な黎深様、私のために仕事をしてください、そしたら秀麗との仲も取り持ちます、とかもっと他に言いようがあるだろうに煩くてたまらない。 でもまあそんなに望むならやってもいいか、という気にもなった。ただしこのままではつまらない。 何か面白いことはないか、と数拍考え、扇をパチン、と閉じた。絳攸の右眉が跳ね上がる。 「私にそんなに仕事をさせたいのなら口説いてみなさい」 「は!?なんで私があなたを口説かなければならないんですか!嫌です!」 「私が仕事をしたくなるような殺し文句の一つや二つ言えなくてよく吏部侍郎が務まるな。私が気持ちよく仕事をさせるのが副官の君の役目だろう」 「私の役目は縛り付けてでもあなたに仕事をしてもらうことです!それに口説くのと仕事は関係ないでしょう!いい加減なことを言ってないで仕事してください!!」 チッと黎深は舌打ちをした。まったくもって可愛くない。いつの間にこんな風になってしまったんだ。 「今日はしつこいな」 絳攸の肩が僅かに揺れたのを黎深は見逃さなかった。 「何か理由があるようだな。よし聞いてやろう。言いなさい」 ぐっと詰まった絳攸だが、観念したようにぽつりと漏らした。 「私だってたまには早く帰りたいんです」 「ほう。君は自分の帰宅願望のために私に仕事を押し付けようと言うのだな」 大げさに呆れた様子を出したら、絳攸がまた噛みついてきた。 「あなたに吏部侍郎の仕事を押し付けたりしません!尚書の仕事して下さい!」 すっと立ち上がる。 「ちょっと出てくる」 「あ、黎深様!どこに行くんですか!?」 「絳攸。私に仕事して欲しいなら戻ってくるまでに口説き文句を考えておくことだな。心が動かされたら仕事をしてやろう」 止める絳攸を無視して黎深は出て行った。 戸部と府庫を回った黎深がようやく吏部に戻ろうとした時、影から絳攸が相変わらず迷っていると連絡を受けた。宿題の回答を密かに楽しみにしているため、黎深は養い子の遭難場所に足を向けた。角を曲がったところで絳攸と、目障りな藍家の男が向かい合っているのが見えて、黎深は壁に身を寄せた。一足先に藍楸瑛に絳攸が捕獲されてしまったことが悔しい。だが会話している二人の唇を読んだ黎深はさらなる衝撃を受けた。 「今日は早く帰れなくなった。黎深様が仕事をしてくれれば、と思ったんだがどこかに行ってしまった。この間は付き合ってもらったのに悪かったな」 「気にしてないよ。それより残念だね」 「いや、別の日にどうにかして時間を作れるようにするさ」 なんだか親しげ――というよりは秘密を共有するもの同士の妖しい雰囲気に黎深は腸が煮えくりかえるような怒りを覚えて、扇を握りしめた。友人として付き合いがあるのは知っていたが、この会話はなんだ!まるで逢瀬の約束をしていた者同士ではないか! 絳攸が選んだ相手ならだれでもいいが、よりによって藍家。しかも浮名を流しまくっている相手となれば、話は別だ。絳攸を泣かせでもしたらどうしてくれよう、と物騒なことを本気で考える。 しかしそんな黎深の怒りは一瞬にして吹き飛んだ。 「父の日を一緒に過ごしたいと黎深殿にちゃんと告げたかい?そうしたらきっと仕事してくれると思うよ」 「いや、あの人はそんなことで動かない。必要最低限の物だけでも終わらせて、戻れるようにしてみるが…危ないな。どうせならあの人と一緒に帰りたかったが仕方ない」 黎深は軽く目を見開いた。父の日――? 「まあ初めからあの人が仕事をしてくれる期待なんてしてなかったが」 そう言って黎深にしかわからない程の寂しさを混ぜて笑う絳攸を無視して急いで吏部へ戻り、両開きの扉を勢いよく開けはなち「仕事をする」と一言宣言した。吏部に在籍年数が長い者でもそれ何語?と思うような一文の衝撃からすぐさま立ち直り目の色を変えて臨戦態勢に入る官吏と、空耳かと疑い混乱する者に別れるが、構わず整理が行き届いていない倉庫のような、書翰詰め状態の尚書室に入り、椅子に座る。 どこからか聞きつけた絳攸が息を切らしてやってきた。 「尚書が仕事をするそうです」と吏部官が告げるのに頷きながら、黎深を一目見て本気を悟った絳攸は、無駄口を叩かず、てきぱきと部下を指示してこのたまりにたまった仕事を全て片付けようと戦略をたてる。その顔に混ざる隠しきれない安堵と喜色に満足した黎深は、扇の下でひっそり笑った。 一緒に帰れるのならたまには仕事してやるのもいいかもしれないと思った、黎深三十五歳の初夏。 (※黎深の年齢は捏造です) 2011/08/10 |