今日も今日とて静蘭は右羽林軍の武官にもかかわらず、定時にこっそりと軍を抜け出し帰路の途につく準備をしていた。見つかると煩い一部がいるので、抜け目なく気配を窺いながら早足で歩く。 しかし突然静蘭は目を細め斜め後ろの茂みを睨みつけた。――誰かいる。近い。 この近さまで気付かせなかったとは手練だ。腰に佩く干將の柄に手をかけた。 がさがさと茂み揺れて、はちみつ色が僅かに覗き、ひときわ大きな音をたてて見知った顔が現れた。 「静蘭」 「主上…」 頭に葉っぱをたくさんのせた可愛い弟が草の陰から静蘭を手招きしている。近くまで来たら腕を取られて茂みの中に引きずり込まれた。 「ちょ…!何なさるんですか主上!」 「しーッ!絳攸を撒いてきた。見つかるとやばいから静かに!」 撒いてきたって。静蘭はきっと今頃イライラしているであろう絳攸に同情した。 「こんなところでいったい何をなされているのですか?お仕事は片付いたのですか?」 「そんなことよりそなた今晩暇か?」 いくら劉輝の願いでも王の義務たる職務を放り出すのはいけないだろう。仕事を「そんなこと」呼ばわりする劉輝に僅かに頭が痛くなるが、仕事は自己責任で後で怒られるのは劉輝だし、と思う静蘭も同じくらい酷い。それにしても聞き捨てならないことを言われて静蘭はちょっと黙った。 男色家として一時期朝廷で王家の存続の危機だと騒がれていた劉輝はからのこの言葉。それも茂みに隠れてこそこそしているのだから、見る人が見たら完全完璧に誤解されるに違いない。静蘭は慎重に言葉を選ぶ。 「どんなご用件でしょうか」 是とも否とも言わず曖昧な答えを返す。静蘭は帰宅するつもり満々なのだが、劉輝の悩みがもしあの左羽林軍の将軍職に就く男のモロモロのせいだとしたら懲らしめなければならない、と思ったから聞いた。今頃楸瑛はくしゃみをしているに違いない。 「饅頭の作り方を教えて欲しいのだ。今夜にでも」 劉輝のお願いに静蘭はめをぱちくりさせた。 お坊ちゃま楸瑛は包丁を握ったことがあるかも怪しいし、絳攸に頼もうものなら「そんなことより仕事をしろーーー!」と怒鳴られてしまうのは目に見えている。邵可に拾われ秀麗と一緒に台所事情にも精通した器用な静蘭なら確実だ。必ず美味しい饅頭の作り方を知っているに違いないというのが劉輝の予想だ。 ちなみに忙しい秀麗に頼むのは無理だから、いつだって定時帰宅の姿勢を崩さない静蘭に眼を付けたというのも理由の一つだったりする。 「またどうして饅頭なんて作ろうと思ったんです?あなたなら女官を通して厨房に頼めばいくらでも好きな時に作ってもらえるでしょう」 「うむ、それはそうなのだが」 幽霊云々言ったら静蘭はどう思うだろうか、と劉輝は考えた。きっと信じてくれまい。超現実主義且超合理主義の静蘭なのだ。冷たい目で見られて「劉輝、仕事しなさい」と言われるのを想像してなんとなく楸瑛の辛さが解った。 イヤでも待て。楸瑛ならともかく静蘭と同じ合理主義者の絳攸も幽霊を見てるのだという。全部話して絳攸のまねをして饅頭を餌に静蘭と二人で幽霊退治――。なんと心惹かれる響きではないか。だがあの小さな幽霊は本を読んでいるだけで悪さをしていないのだから退治するのは可哀想だ。それにまだまだ相談に乗ってもらいたいこともあるし。 その内容を他人に聞かれるのはちょっと恥ずかしい。 劉輝は悩めるお年頃なのだ。 「余の我儘で料理人たちの休息を奪うのは良くない。それに余は饅頭が死ぬほど好きなのだ。好きなものの作り方は知っていて損はない!」 「ほう」 じぃと穴が開く程見つめられて劉輝は背中に冷や汗をだらだらとたらす。しかし府庫の幽霊のため、劉輝の悩み相談のためにここは頑張るぞ!饅頭饅頭!幽霊幽霊!と気合を入れて見返す。静かなる戦いは静蘭の溜息で幕を閉じた。 「――いいでしょう」 「本当か静蘭!」 「ただし私に教えを乞ったからには、中途半端はもの許しません。覚悟して下さいね、主上」 やる気のみなぎる静蘭に劉輝は元気よく「はい先生」と答えた。 「よろしい。あなたを一晩でどこの店に出しても恥ずかしくない立派な饅頭職人に育てて見せましょう」 笑顔で細められた目の奥がキラリと光った。 劉輝が兄の完璧主義を改めて思い知った一夜となった。 2011/08/10 |