ふと、現実に引き戻される感覚に絳攸はまたか、と思った。目の前のPC画面上で数字が踊っている。
 大学の理系の教授塔一室。准教授の絳攸に与えられた部屋で、いつの間にかデータ解析に夢中になっていた。
 壁にかかった時計が示すのは十一時。午前ではなく、午後。
 ため息が出た。時間にではなく自分に。
 金曜日は次の日が休みだからと、とことん作業を続けるのが絳攸のスタイルだ。一段落ついたり、この日のように意識が浮上したら帰宅するのが常だから、遅くなろうと温かいご飯が待っているわけでもないので構わない。
 いつの間にか何かに没頭しいてるのは物心がついたときからだった。走り出したら止まらず、物を食べるのも忘れてずっとずっと目の前の数字と向き合って、怒られた回数は数知れず。昔はパソコンなんて高尚な物がないから、ノートや裏紙に鉛筆と消しゴムと、近くに鉛筆削りを置いて――。ペンだこが日に日に立派に育って、潰れて、また硬くなって――。今でも近くにパソコンがない時によくアナログな手段を使うからそこら辺の学生に負けないペンだこを隠し持っている。
 でも、いつからだったかその感覚が途切れるようになった。
 首を回し伸びをするとゴキゴキと大きな音がする。これが狂っている証拠か、とどこまでも客観的に思った。そろそろボロが出始める年齢なのかもしれない。
 データを保存し、パソコンの電源を切る。パンパンのバックに力技でいくつか資料を詰め込んで、部屋の電気を消した。
 廊下は薄暗く、パソコンのディスプレイを見続けていた絳攸は多少めまいを覚える。ふと窓に眼をやると、一つだけ明るい部屋があった。
 ――なにやってるんだ、あいつは。
 知らぬ間に一番近くの階段を通り過ぎていて、自分を制御できなくなっている事実に絳攸は新鮮な驚きを覚えた。李絳攸は理性的な人間だ、と思ってきたのに。
 駐車場は外だ。絳攸は車で帰宅するつもりだから、一階まで降りるはずだったのに、足は自然と廊下をつき進み一つのドアの前で止まった。このまま立ち去るのもいいかもしれない、と思っているのとは裏腹に条件反射のようにドアノブをつかんでいた。
「楸瑛、いるのか?」
 お互いの部屋に入るのにノックはしない。室内に漂う刺激臭に絳攸は僅かに眉を寄せた。
 窓の手前にあるデスクには誰もいなかった。そのかわりソファに横たわった大きな塊が死臭ではなく、アルコール臭を漂わせていた。
 珍しく酔い潰れている楸瑛を呆れながらとっくりと見た。
 絳攸は酒をあまり飲まない。美味しいとも思わないし弱いという自覚があるから、変なことを口走って醜態を見せるくらいなら、アルコールを摂取することを拒む。とは言っても雇われ人だから付き合いで飲むこともあるが、「車で来たので」と、舐める程度でごまかしている。正反対のように楸瑛は酒にはめっぽう強いはずなのだが――。
 楸瑛の教授昇進が発表されたのが一週間前のことだ。それから引き継ぎやら宴会やらに引っ張りだこで、ここ数日まともな生活を送れていなかったはずだ。いつもなら用事がなくても絳攸の部屋に勝手に居座る楸瑛が、一週間一度も来なかった。絳攸も別段どうしようと思う訳もなく、研究を進めていたら時間が過ぎていた。楸瑛と会うのは一週間ぶりだ、といちいち考える方がどうかしてる。
 飲み会を抜けてきて、何か仕事をしていたのだろう。腹の上に置かれた右手には紙が握られていた。
 どっちが先に教授になろうという競争はしていなかったし、そんなことは無意味だ。ポストの空き具合と論文の評価次第。ノーベル賞でも取ったなら話は別だが基本的には積み重ねが物を言う。
 絳攸にも「うちなら教授として迎えます」という話は時折転がりこんでくるが、今のままでやりたい研究はできていると断り続けてきた。不満といえば大学という場所は無駄な手続きが多く、時間通りに終わらない会議をやたらに好む人間が多いことだ。最大のメリットは研究費と――学生という名の労働力だ。楸瑛と絳攸も学生時代は長時間の無償労働をしていた。
 そのころから比べ多少老けた大きな塊は正真正銘かっこ悪い酔っぱらいなはずなのに、妙に整った顔が崩れないのが気に喰わない。
 ただ、隣にいた相手の肩書次第でほんの少しだけ離れてしまった気がするのは、論理的な考えではない。そもそも親しさを距離で表すことはできないのだ。
 握られている紙を無遠慮に引き抜く。うん、と唸り声は聞こえたが楸瑛は起きなかった。
 広げてみて、絳攸は目を見開いた。設計図だった。――遠い昔、学生だった楸瑛と絳攸が戯れにアイディアを出し合った。
 ――俺はお前の設計は好きだ。
 無駄ばかりの楸瑛の、無駄がない設計図はシンプルで美しい。
 絳攸の一言からどう発展したかは覚えていないが、いつの間にか共同で設計図を描いてみようという話になってできた物だ。すっかり忘れていたし、こんな物が残っていると思わなかった。
 絳攸はくしゃりと顔をゆがめた。疲れきってるくせに、こんなものを見ている楸瑛に腹が立つ。もっと他にも色々雑務があって、学会の準備もしなければならないのに。
 この時絳攸は唐突に、何でここに来たのか理解した。
 まだ言っていない言葉がある。
 酒のせいで僅かに赤らんでいる楸瑛の顔を見る。あのころと比べて、お互い歳を取った。
「楸瑛、教授昇進おめでとう」
 設計図を机に置いて、絳攸は背を向ける。ドアノブに手が触れた時「待った」と声がして、振り向いた。
「お前起きてたのか?」
「私は…起きてるのかな?これは夢だと思うんだけど。あれ?君は……絳攸?久しぶりだ」
 起き上がった楸瑛の言葉に、絳攸は顔をしかめた。へらっと笑み崩れた顔を向けてくるのは紛れもなく酔っぱらいだ。酒を飲まない側から見たら迷惑の一言で片づけられてしまう存在。
「最後に君に会ったのが金曜日で――…あれ?今日も金曜日だから、いち、に、さん」
 子供のように指で数字を数えだした姿に重症だ、と絳攸は頭が痛くなった。
「その時何を話したっけ?それとも、君、いつものように考え事に夢中になって声掛けたのに気付かなかったのかな?」
 絳攸は瞑目して溜息を吐いた。心底どうでもいい。そんなことより――。
「送って行ってやるから、一分で準備しろ」
 数秒絳攸の顔を凝視した楸瑛は理解したのか一つ頷くと、のそのそと動きだした。時々ふらついて、足取りは危なっかしい。舌打ちして絳攸は楸瑛のバッグに荷物を適当に詰め込んだ。足りなかったら次の日はどうせ休日なんだから、取りに来ればいい。
「行くぞ」
 バッグを押し付け背を向けると腕を引かれた。あっと思ったら背中が何か硬い物に触れて倒れずに済んだ。と思った瞬間。
「昇進祝い」
 耳に感じた低い声と熱い吐息。――ゾクリとした。
 そのまま流れるように唇を塞がれる。合わさったところから溶けてしまいそうな熱に、強い酒気にくらくらする。容赦なく貪られ、溺れそうになる直前に解放された。
 ハア、という切なさの籠った大きな溜息はどちらのものだったのか――。
 残暑が厳しいはずなのに、吸い込む空気はずっと冷たい。背中から伝わる体温よりも、先程まで重なってた唇よりも。
 耳元で好きだよ、早く君に会いたかった、ようやく会いに来てくれた、と囁かれ絳攸は悟った。
 金曜日の絳攸の夜の予定は決まっている。誰よりも遅くまでパソコンと向き合っているのだ。
 そんなときに最近昇進したばかりの知り合いの部屋の電気がまだついていたら、どういう行動に出るかなんて予測済みだったに違いない。いや、きっと金曜日だけではなく月曜日からの絳攸の行動をシュミレーションしていたに違いない。いつ来てもかまわないように。
 絳攸は知っている。常に人を喰ったような微笑みを浮かべている裏で、この若さで教授になる男は切れ者でしたたかで、計画を遂行するために時間や労力を惜しまない。
 ――安い罠にかかったものだ。
 酒のせいかはたまた別の要因によるものなのか、熱を帯びた深淵目を挑むように近くで見返す。クスリと笑って再び距離を詰めようとしてきたその顔を無表情活無言で掌で押し返した。顔面で文句を訴える楸瑛を睨んだ。
「酒気帯び運転は法律で禁止されている」
 李絳攸は極めて理性的で論理的な人間だ。間違っても変なことを口にしないように、酒なんて極力飲まない。
「だから」
 ――家まで我慢しろ、馬鹿。
 こんなことを口走ってしまったのは、酔っぱらったせいなのだ。
 呆けた後にもの凄く幸せそうに笑った楸瑛を見てしまった絳攸は、恥ずかしさがこみ上げてきて背を向ける。そんな絳攸の逃げだしたい気持ちを見透かしたように――。
「君の気が変わらないうちに早く帰ろう!早く!急いで絳攸!」
「うわっ!」
 手を掴まれ、楸瑛が走り出す。突然引っ張られたたらを踏んだ絳攸は、部屋を出る前にどうにか電気を消した。
 その酔っぱらいにしては確かな足取りに、絳攸は果たして気付くことができたのか。
 ただこれだけは言える。藍楸瑛は酒にはめっぽう強く、酔いが醒めるのも早く――ずっとただ一人にだけ狂っている。




2011/8/15