全てが夜の病院のような白に埋め尽くされたそこでは、潜入用の黒いスーツは異質に浮かび上がる。カタカカ…ウィンウィン…と忙しなく響く機械音の中心にある白衣のその背中が、無防備に晒されていた。それはまだ不安定な少年の物で、楸瑛はサイレンサーを付けた銃を向けるのをためらった。
 十六歳――楸瑛よりさらに二つも年下の少年は世界の常識を凌駕した。
 李絳攸。若き天才物理学者が今、目の前にいる。
 十歳まで孤児として市井を彷徨っていたのにもかかわらず、彼の頭脳は飛びぬけていて隠しようがなかった。めきめきと頭角を現した子供は政財界の要人の眼に留まり「もっとちゃんとした教育を」という言葉とともに政府機関へ引き取られ、以来その存在は秘匿のうちに厳重に保護されてきた。
 ――保護という名の監禁による搾取が行われてきたのは、裏社会では有名な話だ。
 まだ十六歳の少年に対して、だ。
 李絳攸に割り当てられた研究室のような私室に辿りつくまでに潜り抜けた何重ものトラップは執拗で、世界最悪の凶悪犯でも閉じ込められているのかと疑いたくなったのはつい先ほど。二十四時間監視下に置かれた彼は、その研究の成果全てを利用され続けていて捕虜と大差ない。実際彼にはそれだけの価値があるからこそ楸瑛にミッションが下ったのだが、むしろその才能を見いだされなかった方が良かったのかもしれない。
 最も十八でこんな仕事――スパイを生業にしている楸瑛が言えた筋ではないが。
 今回の任務は絳攸の現在行っている研究記録。少年の命の有無は問わないと言われたが、この状況で彼に気付かれずに奪うことは魔法でも使えない限り到底不可能。
 コルトを握る手に力が入る。
「あと八秒待て」
 それは脈絡を無視した唐突な言葉だった。感情を排した響き。銃身が揺れる。音を立てたつもりはなかったのに気付いていたというのか。撃つしかない。楸瑛は緊張を高めた。
「待てと言っているだろう。八秒後にお前の主人を満足させられるギリギリの段階まで論文が完成する。それを持っていけばお前の評価は上がるだろう」
 最もお前の組織が間抜けぞろいでなければな、と話している間に最後のキーが叩かれた。続く水を打ったような静寂の中、李絳攸は立ち上がり振り向く。楸瑛は何故か引き金をひけなかった。
「なんだ若造か」
 表情は無いがあどけなさを残した顔。絳攸は何もかもを迎え入れるように手を広げて見せた。
「ほらもういいぞ。ひと思いに殺れ」
 何が面白いのかクックと笑った絳攸に楸瑛は怯んだ。
「君は」
 潜入目的以外で殺さなければならない人間に関わるな。手早く仕事を終えなければ失敗するリスクは高くなる。パートナーを拒み続ける楸瑛にはオペレーターなど存在せず、危険が迫ろうとも容易に気付けない。迷いなど不要だ。早く引き金を。早く!
 ――でも。
「君はそれでいいのか?」
「その質問に意味があると思えない」
「解らない。ただ知りたい」
 銃を向ける青年と受け入れる少年の視線が真っ直ぐにぶつかる。色素が薄く澄んだ瞳に気付いた楸瑛は場違いにも綺麗だ、と思った。
 先に逸らしたのは絳攸だった。
「今の分野に飽きたのが二年前。だが研究内容を指定する権限が俺にはない。それに何度説明しようとも内容を理解しないプライドが高く保守的な研究員と、俺を子供だと聞く耳を持たない上に懲り懲りしただけだ」
 ――束縛され自由の無い生活。誰よりも先が見えるからこそ抱く失望。窮屈な環境よりは死を。解放を。
 出会って間もないのに彼らしい選択に思えた。
「ほら、殺れ」
 少年は促す。躊躇いは無用だ。せめて苦しまないように。胸のあたりに照準を定めていると、何かが動いた気がしてギクリとした。時間がかかりすぎた。
 絳攸も気付いたのか後ろのパソコンを素早く確認し、その勢いのまま楸瑛を睨みつけた。
「気付かれたぞ!」
 監視カメラが楸瑛をとらえたようだ。絳攸がハッキングしたのだろうディスプレイには警備員が大群となって押しかける様子が映し出されている。
「早く殺せ――いや殺すな!三分稼いでやるからこれを持ってとっとと消えろ!」
 メモリチップを投げ付けて東側は警備が手薄だ、と叫ぶ少年の腕を、楸瑛は気付いたら掴んでいた。そのまま肩に担ぎ、暴れる絳攸を押さえつけ片手で窓に弾を数数発ブチ込むが、全く割れる気配を見せないそれに舌打ちしたくなる。
「おい、あれを使え」
 力の差に早々に抵抗を諦めた少年は力なく逆さまにぶら下がったまま、四角い機械を示した。
「超音波発生装置だ。この防弾ガラスと振動数を合わせてある」
 意味は解らないがつまり割れるのだろう。楸瑛は君、以前逃亡を目論んだことがあるのか、という疑問を胸に秘めコルトをホススターにねじ込み、荷台に乗った箱を移動させた。指示されたスイッチを押すと数秒でガラスが砕ける。十分な大きさに穴を広げて足を掛けると――。
「あ、忘れてた」
 飛び降りる瞬間、総仕上げ、と言わんばかりに立て続けに手榴弾を三つ投げ込んだ。
 爆音が響く頃には楸瑛と横抱きにした絳攸は夜空の上だった。パラシュートを開くまで続いた叫び声に、楸瑛は絳攸がはじめて十六歳だと実感した。


 ※※※
 夜の市街地。スプレーで壁という壁が落書きに埋め尽くされたここは治安が悪いことで有名な地区だ。楸瑛はアパートの階段に肩を落とし座っていた。
「あー…これからどうしよう」
 冷静になって考えてみるとミッションを失敗しただけではなく、施設を破壊したのは命令違反に捉えられても仕方がない。奴らは躍起になって犯人探しをするだろうし、そしたら楸瑛のボスに手が伸びないとも限らないのだから。
 つまり藍楸瑛、十八歳にしてお尋ね者。まだまだ人生はこれからだというのに早まったか。
 そんな悩みに悩む楸瑛を傲慢な眼で見降ろし続ける少年も憂鬱の種だ。これから彼をどうやって安全な地まで逃すか――…。放っておけとも思わなくはないが、そうしたら絳攸は呆気なく連れ戻されるだろう。数年ぶりの自由がたった数時間なんていくらなんでも悲しすぎる。
 項垂れる楸瑛に影がかぶさった。絳攸が前のめりになったのだ。
「お前、名前は?」
「楸瑛、藍楸瑛」
「楸瑛、お前運転は得意か?」
「休日には女の子とよくドライブしたよ。運転姿がセクシーだって評判だった」
 意図が読めない問いに精神的な疲れが押し寄せる。
「そうか。で、これからどうするんだ?逃げるんだろ?」
「さあね、知らないよ。君は?何か良い考えでもあるなら聞こう」
 投げやりな声の返事は遠ざかる足音だった。丸投げされたような物言いに少しイラついたとはいえ、このまま絳攸を行かせてはいけない。慌てて顔を上げると、路上駐車をしている黒いバンの横で何かをし始めた。どうやら怒って去った訳ではないことが解りほっとした。
 何を――と観察していたら運転席が開く。続いて上半身を潜り込ませてごそごそ。出てきた絳攸が投げ付けた何かは案の定車のキーで。
「せっかく自由になったんだ、捕まるのはニ度とごめんだ。とっとと逃げるぞ。運転はお前な」
 えちょっと待って、この子ってこういう子なの?
「ところでお前、ドライバー持ってるか?」
 不安で胸がいっぱいな楸瑛は隣に停まる車と絳攸が泥棒を働こうとしているバンのナンバープレートを交換させられた。
 さすが天才物理学者。法則とかを駆使して物事をスマートに解決――ってこれじゃただの力技だ。
 楸瑛の向ける物言いたげな視線を感じ取ったのか、少年はやけに鋭い一瞥をくれて「元孤児をなめるな。こんなの生活の知恵だろ」と憮然と言い放った。いえそれは違います、と反論できない楸瑛だった。そんな物騒な生活の知恵があってたまるか。
 それから楸瑛のタブレット式携帯電話を奪い、始めたのはハッキング。足が付かないよう公共施設の誰でも利用可能なコンピュータに侵入してから目的のサーバーに忍び込み、車の登録ナンバーの記録を変更。スパイも真っ青な粗っぽい犯罪行為の連続に開いた口がふさがらない楸瑛は、睨まれた。
「何してる楸瑛。早く乗れ。車を出せ」
 逞しい。逞しすぎる。ここまで来るとあっぱれだ。
 運転席に乗り込みエンジンをかけると――。
「お前の技術は大したものだ。これまで数人が施設に忍び込んだがあそこまで辿りつけたのはお前だけだ」
「そりゃどうも。君もなかなかだったよ。見込みがある」
 色々目撃してしまった後の本心からの言葉だった。
「そうか。そこで一つ提案がある」
「行き先のリクエストかい?」
「いや、違う」
 一端区切った絳攸が気になりチラッと見ると眼が合った。真剣なそれに呑まれそうになって、思わず息を詰める。
「お前俺の手足にならないか?」
 思ってもみない言葉に楸瑛は一瞬何を言われたか理解できない程驚いた。絳攸にはビックリさせられっぱなしだったが、これが文句なしの一番だ。
「君、本気?私と組もうっていうのかい?」
「今見込みがあるって言っただろ。それにお前のせいで俺も追われる身だ」
「ちょっと待って。半分は君の責任だよね!?」
「残りはお前の責任だと認めたな」
 ぐうの音も出ないとはこのことか。いや言葉遊びをやっている場合じゃなくて!
「お前に腕があるように俺には頭脳と生活の知恵がある。どうだ?理にかなっているように思うが。当面の資金はコイツを売り捌けば捻出できるだろう。せいぜい高値でぼったくるぞ」
 弾いたチップをキャッチした絳攸はやりとした。
 私はパートナーを持たない主義だ、とハードボイルドの主人公を気取って告げたかったが耐えきれず吹き出した楸瑛の負けだ。大胆で不敵で粗っぽい絳攸にワクワクするのを抑えられない。
「あー…。もうどうにでもなれって気分」
「決まりだな」
「ところで、どこか行きたいところは?」
「レストラン。思いっきり体に悪いものと熱々のアップルパが食べたい。あそこの料理は病院食みたいでマズかった」
 絳攸の渋面に楸瑛は「良い店を知ってるよ」と言いながら盛大に笑った。
 景気のいいエンジン音と振動を残して、二人を乗せた車は発進した。


 後に世界最凶と恐れられる謎に満ちた名の無いスパイ組織が誕生した夜は、ひっそりと更けていく。




2012/01/23