ポーンと放った小さな正方形は綺麗な放物線を描き、再び楸瑛の手の中におさまった。小さな物体、その名はチロルチョココーヒーヌガー味。
 ずっしりと重い左手を引きずって、全身甘い香りに包まれた楸瑛は右手でそれを弄んだ。 夕日で真っ赤に染まる海岸を横目に楸瑛は無駄にアンニュイな雰囲気を背負って帰路につく。


 君とチロルチョコ


 毎年この日はギリギリに登校することに楸瑛は決めていた。急いでいれば声を掛けられにくいし、仮に呼びとめられても時間がないという言い訳ができる。廊下に出ている生徒の数も少ないし――まあこれは気休めにしかならないのだが。
 2月14日――バレンタインデイ。義理だとか本命だとか楽しみ半分だとか、楸瑛には計り知れない様々な思いが籠ったチョコレートを女の子が渡す日だ。
 予想していたとはいえ靴入れを開けるとポロっといくつかこぼれてきた物に溜息をつきたくなった。可愛いラッピングが施されたそれ。ビニール袋で覆われてるが衛生的にちょっと気になる。楸瑛はどうせくれるなら直接手渡ししてくれた方が嬉しいのに、と思う。繊細で可愛いはずの女の子たちはこの日ばかりは何事も免罪符になると信じ込んでいるのだろう。
 例えば1つももらえないのが虚しいことだとしたら、軽くチョコレートに嫌気がさすほどもらうのはどう形容したらいいのだろうか。楸瑛は人口の半分を敵に回しそうなことを考えて、大きめの紙袋を2つ詰め込んできたバッグを床に置いた。
 去年は紙袋を忘れて大変だった。両手で抱えきれないチョコレートでも捨てるのは失礼で、学校近くのスーパーで段ボールを調達したことを思い出す。悪友がそれを見て思いっきり笑ってくれたことも。そのせいで余計に人目を集めたことも。
 冷たい上履きを履いたら予鈴が鳴った。そしてタッタッタという不協和音。
「楸瑛!」
 驚いて声のした方を見れば、絳攸が階段を駆け下りながら寄ってきた。彼こそが去年思いっきり馬鹿笑いをしてくれた悪友その人だ。
 おはよう、どうしたのと言おうとした声は「お」の段階で「遅い!」という一喝にかき消された。今日も相変わらずの切味に惚れ惚れする。
「悪い、国語の教科書貸してくれ」
「いいけど、何で他の奴に借りなかったの」
「今日無駄に出歩いてみろ。酷いことになるのは目に見えてる。俺は今日一日空気と一体化するんだ」
「へえ、それはすごい」
 気のない返事になってしまった。
 絳攸も普通ならチョコレートをもらいすぎて困るクチなのだ。ただ受け取らない主義を通してることが学校中に知れ渡ってるから、大抵の女の子は挫けるだけで。それでもチョコレートを持ってくる子はよほど本気なのだが、まあ結局断られる。どうにも中学時代に色々あったらしいのだがよほど言いたくないのか言葉を濁されて終わった。反対に誰からもチョコレートを受け取る楸瑛は毎年バレンタインデイには絳攸から侮蔑の視線を送られたりもする。
「あと三分だ! 急ぐぞ」
 一緒になって2年生の教室が並ぶ3階へ階段を一段飛ばしで登る。
「目が合えば口をそろえて楸瑛君は? だぞ」
 声音を変えて訴えかけてくるのが可笑しくて楸瑛は笑った。
「それは悪かったね」
「おまけに数人はこれ楸瑛君に渡して、だと。ふざけるな」
「でも君受け取らなかったんだろ」
「当たり前だ。だれが使い走りなんてするか」
 チャイムの初めの一音が鳴り始めたから慌てて走った。どうせホームルームだし楸瑛は別に遅れても構わないと思っていたのだが、絳攸はよしとしない。真面目なのもあるが「たった10秒遅れただけで嫌な顔されるのが気に入らない」らしく「自分だって平気で5分遅れは当たり前なのに」と続く。絳攸のクラスの担任はある意味教師らしい教師ということだ。
「あ、教科書は使い終わったらロッカーに入れておいて」
「了解」
 ギリギリで3階まで到着して、楸瑛が1組へ入ろうとする瞬間。
「楸瑛! 礼だ!」
 飛んできた何かをキャッチ。角があるのかぎゅっと握ったら少し痛い。
 絳攸は3組へ入るのを見届けたらちょうどチャイムが鳴った。
 手の平をそっと開けてみると茶色い包装紙の小さなチョコレート。今はもうない背中の残像をしばらく目で追いかけた。




 手の中の物体をもう一度ポーンと夕日をバックに上へ投げる。
 何で、と思う。解らないなあ、と。
 会話から思うに今日がバレンタインだって絳攸は認識してたはずなのに、チョコレートを寄越してくるとかもうお手上げ。
 パッケージを見る。
 確かにロングセラーでこれだってチョコレートだ。でも全然おしゃれじゃないし生チョコでもないし小さいしいつでも買えるし安いし何にも特別な意味なんてないのに。右手にチロルチョコ。左手には授業道具その他が詰まったバッグと山ほどもらったチョコレートが溢れる紙袋がずっしりと負荷を掛けるのに、心の中で天秤は右に傾くのは何故なのか。
 自問して気取ってみても答えは決まってる。
 偶然かそれ以外の何かがあるのかさっぱり判断付かない。
 教室を覗いてみたら肝心の絳攸はもう帰った後だった。用もないのに残ってたら確かに今日ほど危険な日はないだろう。けど他に何か意図があったのか、と考えてしまう。ホームルームを長引かせた担任がこの日ばかりはかなり憎い。思い出すだけで荒んだ顔になるし舌打ちしたくなる。
 海風が容赦なく吹きすさぶ。
「あーもうっ!」
 楸瑛はだんだん全てが腹立たしくなって、力任せに小さな包み紙に手を掛ける。茶色くて四角くて全然おしゃれじゃなくておまけに一粒しかなくて。全然わかってないと思う。
 怒りの勢いに任せてぽいっと口に放り込む。でないといつまでも食べられない気がするから。
 いっそ誰もいないこの海にに向かって胸にわだかまる思いを叫んでやろうか。本当にそうしたくなるのにそれでも出来ないのは――。
 臆病な想い。

 舌の上に広がったのはちょっと甘くてちょっとほろ苦く、まるで恋そのものだ。



2012.2.4