リビングのソファーに腰をおろしつけっぱなしのTVをBGMにしながら本を読んでいた楸瑛の前にコーヒーが置かれた。いい香りに自然とカップに自然と手が吸い寄せられる。
「ありがとう絳攸」
「ああ」
 絳攸は自分のカップもテーブルに置き、楸瑛の正面にあるソファーではなく、床に座った。座ったと言うより片膝を立てて、カップに伸ばした楸瑛の手をそっと取って、優しく握る。驚いた楸瑛が困惑気味に問おうとするより早く絳攸が口を開いた。一段低い場所から真っ直ぐな視線が窺うように楸瑛を見つめている。
 普段の彼とは違う。楸瑛の鼓動は速まった。
「愛してる」
「―――――」
 瞬き一つなく、真摯な透き通った眼を逸らす事無く言われ、楸瑛は目を見開いた。本が手から落ちる。喉が張り付いたように、うまく声がでない。恋人が久々に愛をささやいてくれたのに、表情筋は固まったまま。嬉しいとか愛しいとかそういう感情より何よりも先行して、楸瑛はとにかく驚いていた。驚きすぎて頭の中は真っ白になって、情報処理能力が完全にダウン。TVの音も聞こえない。楸瑛の時間だけが止まっていた。
 しばらく見つめあった後、絳攸が顔をフイと逸らした。触れていた手も放し、カップを持ち上げる。その段になってようやく楸瑛は現実を取り戻し、期限を損ねた?甘い言葉を囁くべきだったのに、と慌て始める。
「こ、絳攸!」
 コーヒーを飲んでいる絳攸は目線だけで何だと問うてくる。
「今の」
「ああ」
 絳攸はカップを机に戻した。
「今のどうだったか?」
「え? どうだったって?」
「だからどう感じたか?」
「えっと…」
 思い返していくうちに絳攸が好きだと言ってくれたという実感が湧いてきて、楸瑛はどんどん嬉しくなってきた。あんなにストレートに言われたのは初めてだ。自然とにやけてくる。
「嬉しか」
「やっぱり少しためすぎたか…。なんかアドバイスあるか?」
「――へ?」
「収録明日なんだ。お前なら言い慣れてるだろ? なんかないのか?」
 楸瑛はガクッと肩を落とした。何だ台詞の練習だったのか…。
「いや、いいと思うよ」
 自然と声に張りが無くなるのも仕方がない。
「そうか」
 きっと明日同じようなセットの中で、同じように跪いた絳攸が同じように優しく手を取って、誰か楸瑛じゃない相手に愛を囁くのだろうと思うと、演技だと解っていても少しやりきれない。
「でもね絳攸」
 カップを口に着けたまま、また問うような眼差しをよこしてきた。
「私が愛してるって言うのは君だけだから」
 そのままコーヒーを飲み干した絳攸が立ち上がり、台所まで行った。
 楸瑛はあまりの反応の無さに苦笑した。冷める前に、と楸瑛も絳攸が淹れてくれたコーヒーを楽しむ。
 じゃぶじゃぶとカップを洗う音が聞こえてきた。その水音に紛れて知ってる、と小さく呟かれた言葉を楸瑛は耳ざとく拾った。瞠目して、次に振り返る。
 後ろ姿だから絳攸の顔は確認できなかったが、耳が赤く染まっているのを見て微笑みながらコーヒーを飲む。
甘みが増していて、とても美味しかった。





 ハードボイルドな刑事ドラマに相応しい重厚な音楽が一転してラブリーで軽快なものに変わる。楸瑛は珍しく少しだけ不快感を示すように眉をしかめた。白が背景の画面に映るのは女性誌で人気のモデル。大きく映し出された顔はカメラ目線で唇をすぼめている。口紅のCMだ。
 音楽はそのままで場面が変わる。彼女の横に楸瑛の見知った体躯の男が並び、見つめあった二人はキスをする。男の方から彼女の頬に手を置いて。
 ――キスしたくなる唇。
 これがこのCMのキャッチコピーだ。
「ねえ絳攸、さっきのシーンだけど」
 テレビを囲むようにコの字型におかれたソファーの縦の部分に座り本に眼を通す絳攸に横の部分にいる楸瑛が話しかけた。
「なんのドラマの話だ?」
「いやドラマじゃなくて君が出てる口紅のCM」
「…ああ」
 間が気になった。本に集中してるせいか別の理由なのかと考えると胸が締め付けられた。 このCMを絳攸がいる時に見るのは初めてだった。そもそもこのCMが放送されてから二人で会うのがはじめてだったとも言える。言いたい事があるならはっきりと言え、といつも言われてるから楸瑛は頑張った。
「――本当にキスしたの」
「した」
「何回?」
「三回」
「そう」
 再び重々しい音楽に変わる。でも刑事二人が拳銃を構えてるシーンを楸瑛は見ていなかった。
 本気じゃない。これは演技だと言い聞かせても楸瑛の胸のつかえは取れなかった。理不尽だって解ってる。楸瑛だってラブシーンを演じる事はあってそういう時絳攸は特に何も言わない。
「お前もキスシーンあるだろ」
 案の定言われた。小さくうん、と返したら溜息と本が閉じられる音。顔を上げるとすぐそばに絳攸が来ていたから驚いた。そのまま唇に柔らかい感触。生温かいそれは直ぐに離れた。
 絳攸はもう読書を再開していた。
「絳攸」
「さっきのは本気だ」
「!」
 空っぽになりかけてた心がまた満たされて楸瑛は微笑みながら刑事ドラマに向き直った。