■何でもない日(現代) それまで楽しい夢を見ていたはずなのに、突然場面は差し替えられた。詳しい情景は忘れてしまったが重い何かが腹の上に乗っかり、そこから抜け出そうともがいてもがいてもがいて必死になっているうちに目が覚めたのだった。 休日だと言うのにあまりいい一日ではない予感。 寝なおしたいがなんだが気分が悪くてできそうにない。ゆっくりと浮上してくる意識がそう結論を出し、目を開けた。そこで気付いたのが本当に体が重かった。そのまま視線を下におろすと広がる銀糸。 腹筋にやや力が入ったのが伝わったのか、つややかなそれは少しだけ揺れた。そのおかげでさらされた横顔の上部は、楸瑛の知っている人物のもので、心音が心地よいのか目元がすこし緩んだように見えた。 時間に取り残されたかのようなひと時。無意識に止めていた息を吐き出す唇は弧を描いていた。 ――ああ、どうしてくれよう。 一瞬のうちに三回ほど溜息を吐きたくなる心境だったのがどこかへ吹っ飛び、けだるく甘ったるい幸せが楸瑛を包み込む。伝わる体温と重さをかみしめると、愛しさが込み上げてきた。 そっと腕を回し楸瑛の上ですやすやと眠るその人を抱き締めた。すり寄せられた頬の感触がスウェットの上からでも伝わって、胸がくすぐったい。 とんでもなく優しい笑顔の楸瑛はふわりと銀糸に唇を寄せて、なるべく振動を起こさないように細心の注意をしながら枕へ頭を戻した。 安らかな寝顔を見ていると自然とまどろんでくる。それに逆らわぬよう、瞳を閉じた。 さて、もうひと眠りしよう。 ■現代 駅の売店で新聞を取り、コインを置く。その一連の動作は1秒もかからない。サブウェイから地上に出れば晴天。太陽の眩しさに目を細め、サングラスを掛けた。石畳の通りを磨かれた靴で足早に過ぎ去りながら、僅かに暗くなった視界が黙々と横文字を追う。これが藍楸瑛の朝の日課だった。昔教科書で見たようなヨーロッパの神殿風のビルディングには顔も向けず、颯爽と株価、為替レートの増減に左右され始める朝の殺気だったウォール街を歩いた。大通りにお決まりのイエローキャブが何台もせわしなく排気ガスを吐き出しながら続けて押し寄せて、楸瑛は大群が過ぎ去るのを待った。この間に新聞を一気に読み、二つに折りたたんだ。 「すみません」 驚きのあまり楸瑛は笑顔を忘れて振り返った。ホットドッグを右手に、ビシッと黒のスーツにピンクのチェックのネクタイをした国籍不明な珍しい銀髪の男が窺うような目で楸瑛を見ていた。えっと彼が話しかけたんだよね、と左右を見回すとやはりそうだった。遅刻決定のこの時間、世界のマネーを左右するこの界隈に他に人は居ない。確認のため人差し指で自分を差して確認したら男は頷いた。 「えっと何かな?」 サングラスを上げるついでにちらりと時計を確認したのに気付いたのか、少し彼の顔が申し訳なさそうになった。 「ちょっと新聞を見せてくれませんか?小さいお金がなくて、おつりをもらう時間ももったいなかったもので買えなかったので」 「え、ああ。もちろん」 楸瑛は読み終わった新聞を差し出す。ちょうど黄色い鉄の塊が行ってしまったので、行こう、と楸瑛は言うと彼は新聞を受け取りながら頷いた。歩調は二人とも速かった。何となく親近感を覚えると思ったのは、初めだけだった。マジシャンがトランプのカードを切るような手際の良さでページをめくるのを、忙しく足を動かしながら唖然と見守った。ものの十数秒、この通りは全部で8車線の大きいが、信号を渡りきる前に新聞返された。その時、彼の顔がやけに整っている事に初めて気が付いた。 「助かった」 「どういたしまして」 足早なのに親近感が湧いたのはどうやら楸瑛だけじゃなかったようだ。 信号を渡りきって、楸瑛が曲がったのとは反対に彼が曲がる。半分体が開店したところで振り返ってねえ、と声を掛けた。振り返る彼は高層ビルの中朝日を背にして、かっこいい。日差しが強すぎて、あまり見えないのが残念だったが、サングラスという人工物を通すよりかマシだ。 「どうして私が同郷だと思ったの?」 「遅刻だと解ってて、こんなに急ぐのは俺たちだけだったからな」 すいと唇を上げただけの笑顔がやけに印象的で、排気ガスに塗れた街の朝をすがすがしくしてくれた。いつまでも背中を眼で追っていたらイエローキャブの悲鳴のような音にはっとして、サングラスを掛けて慌てて足を動かした。 ■原作設定 暖かい光に照らされるその薄い背中を眺めていたら浮かんできた。構って欲しかったなんて、口に出しては言えない。 「ねえ絳攸、私が死んだらどうする?」 本をめくっていた手が止まり、振り返る顔には不機嫌と書いてあった。いくらなんでも酷い。 「自殺か自然死か?」 「殺されるっていう選択肢は無いのかい?」 「左雨林軍将軍が聞いてあきれる。自信がないなら地位を返上しろ」 「――君の返答は自殺か自然死で違うんだ」 「同じ方が変だろ」 それもそうなのかもしれない。悲しみは同じかもしれないが諦めとやるせなさ、怒り。その度合いは違うかもしれない。 「それでどっちだ?」 「両方聞きたい」 無言の数拍、紫煙の瞳は何かを確かめるように合わされて、唐突に首ごと逸らされる。 「お前が死を選ぶと言うのなら――」 緊張してきた。冗談だとは言え冷たくされたら傷付くに違いない。 「ちょ、ちょっと絳ゆ」 「俺が止める」 「――――」 「二度と変な気を起こさないように説教してその顔を殴り飛ばして――」 そこで絳攸の言葉が止まった。 「絳攸、どうしたの?」 左の瞳だけ髪の毛の間からのぞく。 「――いやどっちの場合も結局俺が選ぶ道は同じだな、と思っただけだ」 「ふうん」 ふいっとまた顔を逸らされて銀糸の軌跡が光った。 「二度とそんな気を起こさせないくらい幸せにしてやる。病気かなんかで死ぬ場合も、世界一幸せだと思えるようにしてやる」 息が止まる。見開いた眼が乾くが、瞬きすらできなかった。胸に突き刺さった何かは、危ないくらい鼓動を速めて――本当にやばい。 「――楸瑛?」 返答がないのが気になったのか、絳攸がちらりと振り返る。 「君の事が好きすぎて死にそうなんだけど」 「――死ぬな馬鹿」 そむけられた顔。その耳が少し染まっていて――。 愛しくってどうしようもなかった。 |