首を傾けるとゴキッと凄い音がした。ゴキ、ゴキゴキ。
 悠久の歴史と先人たちの偉大な知識が詰まった図書館の木製の机には、デスクトップPCが並べられている。シャンデリアと大きな窓が、高いところから室内を照らす。まるで数百年前から時が止まってしまったような空気に満ちたこの図書館と、何ともそぐわない最先端の機械の前には、テスト期間中でヒイヒイ言っている学生の姿が多い。必死な彼らは碧珀明の首がたてた騒音には気付かなかったようだ。いい集中力だ。
 学期末試験の提出論文数が両手両足の指では足りなくて、珀明はここ数日まともに寝ていない。それでも山のようにあった論文を残すところあと一つにまで追い詰めてやった。これで澱のように溜まった疲労と、時間短縮のためものを考えながら歩くせいで、曲がりきれずぶつかってしまった壁に、それとは気付かず頭を下げる間抜けな日課にも漸くさらば出来そうだ。
 ウェブ上でいくつかの論文を提出し終えたところで、珀明は大切な資料を寮に忘れていることに気付いた。何たる不覚…! 知らず濃い隈が浮かんだ碧眼を釣り上げ舌打ちした。
 寝不足による心身の疲労はここまでくると、精神的ダメージよりも体力の消耗が問題だ。大失態に自らを罵ったが、そこで諦める可愛さは大学院生という名の安価な労働力となって以来、とっくにどこかに置いてきた。幸い取りかかっている論文は一番厄介だがほとんど終わっていて、このまま提出しても成績に傷が付くことはないと確信している。それでも実行に移さないのは満足するものを書きあげたい、という珀明の矜持だった。
 珀明はまだ二十歳に満たない。世界屈指の大学で一回り時には二回り年上の大人に囲まれて工学部のドクターコースで学んでいる、いわゆる天才とか神童とか騒がれる部類に属している。だが珀明自身はそんな驚嘆や畏敬、好奇や嫉妬に満ちた声に冷静に対応してきた。優秀が故に上には上がいることを知っているし、そんな比較が気にならない人物にこそ天才という言葉は相応しい気がするのだ。そもそも世の中にはまだまだ解明されていない謎が沢山ある。その一端を突き崩すことが珀明の使命だし、その後になら幾らでもいろんな称号をもらってやるつもりだ。
 でも常に高評価が与えられる論文も、最近は思ったように研究が進まず、それを補うために資料集めに励み、引用を纏めた間に合わせになってしまったりと色々もどかしい。仲間にはご機嫌取りのつもりなのか、教授の著書ばかりを使いもっと酷いものを書く奴がいるが、そういった奴が推薦を得たりするのだ。大学内や学会などの組織内での権力争いに腐心し、学生に研究をまかせっきりの教授もいる。
 純粋に知的好奇心を満たすはずが、このまま学問の道を極めたところで権力闘争の暗い渦に否応なしに巻き込まれるのか――。時々自分は何をやっているんだろう、と珀明は溜息を飲みこむことが多くなった。
 頭脳明晰な珀明でもさすがに今回の試験期間はいろんなことが重なり、密度が濃くなりすぎた。頭だけではなく肉体の酷使により、自慢の金髪はすっかり輝きがなくなりくすんでしまった。親戚――特に姉が見たら大騒ぎだ、と考えて頭が痛くなった。
 よし、せっかく寮に戻るのだったら少し休もう。久々に布団の感触を思い出し、その魅力的な想像に決意を新たに荷物を手早くまとめ、肩掛けのバッグに詰め込み、論文を手に学校の敷地を出た。
 日はまだ高く、石畳と童話に出てくるような色とりどりの街並みを照らす。窓に置かれた鉢植からのぞくパンジーに、ふっと気分が和らいだ。からりと晴れた空と鮮やかな花。図書館や研究室にこもってパソコンと対峙していると忘れそうになる感覚。そして清廉な世界に混じる甘い香りは――。
 そうだ、と思いつきのまま珀明は歩調を早め、メインストリートを急ぎ足で横切る。遠くで鳴り響くクラクションを聞きながし、通りの角にある台形の形をした小さな店のドアを開けた。
 充満する小麦粉と卵に砂糖やはちみつがたっぷり混ざった香りをお腹いっぱいに吸い込むと、自然と頬が緩む。自らの思いつきに満足しながら駆けこんだドーナッツ屋で欲望を満たすのだ。あれこれ選ぶのではなく欲しいものは全部。いつもよりも大量に買い込んだ円形のお菓子が入った包みの重さに心を躍らせながら、再び外に出た。消耗する体力、痺れた脳に有効な起爆剤は、なんていっても甘い物に決まっているのだ。それもとびっきり甘い方がいい。
 ふふふ、と幸せな気分で笑っていた珀明の思考は完全にドーナッツに奪われ、もう片方の手の力を無意識に緩め――。
 四角く白い物が視界をよぎったのを認識した瞬間、茫然としながら珀明は慌てて走った。  それは手からすり抜けた論文だった。
 風に舞った論文を追い掛けて赤茶色のマンションの鉄製の黒い階段をあわてて駆けのぼると、カンカンと甲高い音が響く。閑静な住宅街には似つかわしくない騒音に、通行人が眼を向けるがしっかり地に足を付けているつもりの珀明は、客観的に見ればふらふらと前後不覚の酔っぱらいと大差がない。溜息一つと呆れた表情がひっそりと残されたことに気づかぬ少年の疲労は限界まできていた。
 あ、ヤバい、と思ったのは最後の一段を右足で踏みしめた時だった。
 膝から力が抜けていく。
 ああ、論文のコピーなんて放っておいて、寮のプリンターで印刷し直せばよかったのに。
 点滅した眼前を黒が埋めつくす。崩れ落ちる身体を自覚しながら珀明が最後に見たのは、年代物のなめし皮のような独特の深みを持つ重厚な扉だった。




2012.4.16