コーヒーの香りがする。ありとあらゆる細胞を刺激する甘くて苦い極上の芳醇が珀明を揺さぶる。僕の分も淹れてくれ、ミルク二つと砂糖を付けて、と頼もうと思ったところで自分が寝ていることに気が付き、ついでに眼が覚めた。 ぼんやりとした意識の中で、見慣れない人の顔のような天井のシミにあれ、あんなところ汚れてたっけ、と疑問がよぎる。首を傾けてコーヒーの香りに支配された室内を見渡した。ローテーブルとその先にある暖炉。ここはどこだろうか? まるでそれ自体が壁のような大量の書棚と、それに挟まれたデスクには何か白く長い物。こんなもの珀明は知らない。さらに視線を移動させると、書架の端にある年代物のどっしりとした振り子式置時計が示す時刻は――。 珀明は後頭部を鈍器で殴られたような衝撃を受け、頭の血がサーっと下る音を聞いた気がした。勿論ガバっと飛び起きたことからこの表現はただの比喩なのだが、それどころではない。問題なのは――。 「しまった! 論文を書かなきゃ!」 寮に戻って休もうと思っていたのは事実だが、それもせいぜい一時間程度の予定だったのに、窓から見えるのは無情にも赤く膨張した太陽で、ええとこれは光の波長の長さによって――そんな場合じゃない。とにかく夕陽だ。論文の締切は明日の朝。間に合うか。目をきょろきょろさせながら考えていたら、ベッドだと思っていたのはソファだと初めて気が付いた。一気に現実に引き戻され、改めてここはどこだ、とそもそもの疑問落ち着いた。そうだ、確か階段を上りきった瞬間に眩暈がしてそのまま意識を失ったのだ。ならここはあの扉の中か。 「起きたか坊主」 キィと音をさせてチェアを回転させた若い男が顔を向けていた。まるで見計らったかのようなタイミングに珀明は驚いた。白い物だと思ったのは人だったのか。意図したことではないとはいえ、人様の家で寝ていたのだから慌ててもいい場面なのだが、思わず男の顔に見入ってしまった。 だって銀糸――。 色がごっそりと抜け落ちたような銀髪の綺麗な男がいた。黒フレームのメガネの奥からのぞく眼は、逸らしたくなるほどまっすぐで、嘘みたいに澄んでいる。まるで心を読まれているみたいだ、と珀明は変な恐怖心を抱いた。もしくは魂を喰われるか。 すっと男が立ち上がった。無駄のない所作のくせに、一歩一歩が大きいから雑に見えんだなどと、どうでもいいことを思った。腑抜けてしまった珀明の前に男がすっと膝をつく。無遠慮におでこに触れられて面喰ったが、男はそんな珀明の変化に気付かないのか、ぐいっと顔を近づけて瞼をめくり、恐ろしく無表情で一言。 「問題ない」 ――何この人、医者? 呆気に取られた珀明は論文を追って倒れた焦りよりも、変人に関わってしまった後悔の比重が大きくなっていた。男は珀明に興味を失ったのか、そのままスタスタとチェアへ戻り、コーヒーを飲み、ドーナッツに噛みついた。あまりにも淡々としている、と思ったところで何かがおかしいことに珀明は気が付いた。うん? そういえばあのドーナッツに見覚えが――…。 蘇る甘い香りとずらっと並んだドーナッツ。 「あああー! それ、それっ!」 仁王立ち姿でチョコレートコーティングされた輪を指さし、叫んでいた。 「ぼ、僕の、僕のドーナッツ!」 三秒後。男はドーナッツと珀明を交互に一度ずつ見た後、食いちぎられたドーナッツを差し出してきた。 「お前もいるか?」 開いた口がふさがらない。いやちゃんと閉じるのだが、言葉が舌先を滑り金魚みたいに口をパクパクさせることしか出来ない、無駄な物体に珀明はなり果てた。おまけにドーナッツにまっすぐに向けた指はそのままだから、客観的に見たら間抜けな図だ。 「こら。食べかけを人に渡すのはよしなさい」 そこへどこからか黒髪の長身の男がするりと現れた。やけに整った顔をした男は言葉とは裏腹に、もう一人の男からひょいっと取り上げた甘い誘惑を自分の口の中に収め「うん、甘いね」と笑顔を向けていた。――ああ、この人も変人か。思わぬ遭遇率の高さに珀明は絶望した。 そんなことはつゆ知らずの男はニコリと珀明に笑いかけて、コーヒーの入ったマグカップと、銀髪の男のデスクの上からドーナッツが入った袋を取り上げる。その前に色素の薄い男はひょいっと一つつまみ上げたのだが。その袋をソファの前のローテーブルに置いた。自分が購入したものをこうやって出されて、珀明は名状しがたい複雑な気分を味わった。どんな表情をすればいいのか判断しかねて結局曖昧な顔になった。 「見つからないように隠してたのに、まったく…。君、勝手に食べてしまって済まなかったね。幾らだった?」 「い、いえ。その」 申し訳なさそうな顔をした黒髪は、何だか普通の人かもしれない。数秒前の失礼な思考に罪悪感を抱きつつ、たかがドーナッツ、いや勿論珀明にとってはされどドーナッツなのだが、騒いでしまったことが急に恥ずかしくなって、あわてて両手を振って「いえ、いいです」と断った。他人の家の前で倒れて介抱してくれたのだし、その礼と考えればむしろ安いくらいだ。再び菓子折り片手にこの家を訪れるのは、正直気が進まないのだし。袖触れ合うどころじゃない関わり方をしたのだし、うっかり縁なんて出来てしまったら、それこそぞっとする。これで済めばむしろありがたいくらいだ。だが、そういうわけにはいかない、と黒髪の男に紙幣をいくつか握らされてしまった。 「これで足りるかい?」 「これは多すぎです…! あと三つ余分に買えてしまいます」 「若いんだから沢山食べなきゃだめだよ」 ポンポン、と頭をなでられた久々のその感覚が恥ずかしい。珀明は大学では大人に囲まれているが嫉妬交じりの視線を向けながらガキが、と吐き捨てられるのを除けば誰も子供扱いする人はいない。そもそもあと数年したら成人なのだから、こんなことされるほど幼くはないのに。顔がいい人って得なんだな、と何だかわからないまま納得してしまった。 「それにしても帰ってきたら家に知らない少年がいたから驚いたよ。聞けば玄関先に人が倒れてたから連れて来たって…。大丈夫かい? 頭打ったりしてない?」 「は――」 「大丈夫だ」 珀明が言う前に銀髪の男が答えていた。その眼が珀明に向けられて、思わずビクッと肩を揺らした。硝子玉のように透き通っている。 「おい、坊主。返す」 片手にドーナッツ、もう片方の手で差しだされた紙の束。嫌な予感満載だが、催促するように揺らされ、一歩二歩と足取りを確かめるかのようにゆっくりと危険人物認定した色素の薄い男に近づく。受け取ったそれを一瞥した珀明は、紙が破れるような力で両端を引っ張り食い入るように見つめた。所々赤ペンで下手な落書き足されているそれは。 「ぼ、僕の論文! いつの間に!?」 「それしか言えないのか坊主」 確かに語彙能力が疑われる芸のない表現を使ったかもしれないが、こんな非常識な人に呆れられたくはない。 「坊主じゃありません。僕は――」 「碧珀明」 え、と驚く珀明をよそに生年月日などの個人情報と、大学名と専攻がメモを読み上げられるように続いた。 「へえ、十代でドクターなんて珀明君は優秀なんだね」 「あ、いえ、そんなことは。――ってそうじゃなくて! どうして僕のことを? あ、論文読んだから?」 「違う」 飛んできた何かを慌ててキャッチすると、見慣れた顔が張り付けられたその四角いカードは――。 「ああ、僕の学生証! いつの間に」 「ほらまた言った」 「――済まないね珀明君。彼はその…ちょっと手癖が悪くて」 もはやいい男の苦笑では騙せないレベルだ。疑いの目を黒髪の男にも向けようとしたところで、あの抑揚に欠けた声が響いた。今度は何だ!? 「Aマイナス。最も俺が教授ならBマイナスを付けるが」 論文のことだと直ぐに解ったが、それにしてもBマイナスはちょっと厳しすぎる。複雑な気分で紙の束を見返すと、ミミズが張ったような落書きは難読文字だと気が付いた。別に暗号を解読せよ、とかいう意味ではなくて、ただ単に走り書きの字が汚い。でもその内容に目を見張った。 慌てて全てのページを確認し、時には文字をなぞるようにして苦労して判別していくと、いつのまにか集中して読みふけっていた。ほう、と溜息が漏れた。バラバラな論点がこのメモをもとに集約されていく様が、まぶたの裏に浮かぶ。その強さと美しさを想像して珀明は感動した。曖昧にしか抱けなかった論文のイメージが、今なら具体的に浮かぶ。 ――この人、すごい。 銀髪の男を見る。相変わらず感情が読みとることが出来ない。まるで塑像のようだ、と珀明は思った。 専門家でもない限り、ドクターコース生の論文を読み説くのは難しい。それをやってのけただけではなく、的確な指摘をするなんて一体彼は何者だろうか。興奮と不安が混ざった問いかける視線をやはり気にもせずに、男は口を開いた。 「なかなか目の付けどころがいい論文だが惜しい。反論が甘いというか、なっていないな。実験のデータも足りない」 自覚していたとはいえ、ぴしゃりと言われて珀明は肩を落とした。 確かにどういう観点で切り込もうか迷いがあって纏まっていない。さらに、言い訳になるが教授たちの雑事を押し付けられたせいで実験の時間が削られ、その分いろんな文献の引用を用いたのだが、これもどこかちぐはぐな印象がある。つまり、全体としていろんなデータや理論、仮説の寄せ集めになってしまい、体裁は整えてあるのだが、珀明が本来目指していたものとはかなりのズレが生じていた。そこを直してから提出しようと思っていたのだ。 自然と口調が丁寧なものになるのを自覚した。 「ええ。時間があればもう一つ実験をしたかったのですが、どうやっても暇が取れなくて。仕方なく色んな文献をあさったのですが、なかなかいい資料が見つからなく、手こずっていたところです。でもこのディレクションのおかげでどうにかなりそうです」 「実験のデータがたりないならこの本を使え。役立つはずだ」 ドーナッツをプレートに置き、手を払ってすっと立ち上がった男が、背の高い書架から一冊引き抜き、突き出した。渡された本をぱらぱらめくり、珀明はそれを胸に抱いて「ありがとうございます」と噛みしめるように言えば、初めて男の顔が少し柔らかくなった気がした。勿論気のせいかもしれないのだが。 「さて、坊主。一宿一飯の恩、という言葉を知っているか?」 「は?」 え、あの笑顔はなんだったの、というような言葉に思わず己の耳を疑った。ちょっと、いやかなりマズイ状況なのか? もしかして法外な迷惑料だのなんだのを請求されるとか? ヤの付く職業の方には見えないが、最近は外見では判断できない不逞の輩が多いと聞くが、まさか自分がカモになろうとは。頬の筋肉がひきつった。 「知って、いますが、それが何か?」 ニヤリとう表現が似合うような笑顔がますます広がる。やばいぞこれはやばい! 「ぼ、僕は確かにお宅のソファを数時間ばかりかりましたが、御馳走になった覚えはありませんっ!」 むしろあなた人のドーナッツを勝手に食べたでしょう、という言葉は寸前で飲みこんだ。余計目に渡されたお金をこの伏線だったのか、と疑ってしまう。これはあれだ。圧倒的に不利な状況というやつか。 「でもさっき感謝しただろ。昔から鶴だって恩返しするとある。一宿一飯は例えだ。それともお前は恩知らずか?」 卑怯な、という抗議とも諦めともつかない言葉は、黒髪の男の悲鳴にも似た声にかき消された。 「絳攸! 君まさかこの子を巻き込むつもりかい?」 「解ってるなら話は早い。他の奴らに伝えてくれ」 「私は反対だ」 馬鹿にしたように銀髪が鼻を鳴らした。二人の男の間に流れる空気が一気に険悪なものになりかけて珀明は慌てた。 「あのっ」 ひどく整った顔二つが一斉に向けられて、尻込みしそうになる。爪先に力を入れてぐっと耐えた。 「このタイミングで僕に声が掛ったってことは、大学に関することですよね? 仰ってください。僕がお役にたてるのなら協力します」 「ダメだ。珀明君、あのね、大人の世界では話を聞いた後にNoと言うのはなしなんだよ。この話はなかったことにして忘れてくれないかな?」 「なら引き受けます。仰ってください」 「君ねえ」 黒髪の男はもの解りの悪い子供に向けるような、諦めの混じった苦笑を浮かべた。きっと珀明の返事を、若さゆえの無謀さからきているとでも思っているのだろう。確かに性急な返事は危険だ。学会の権威である教授たちの女装癖だとか、人には言えない秘密を探るくらいしてもいい気がするが、人を害するようなことは引き受けたくはない。でも大学が関係するのなら、そして勉強しか能がない珀明に声を掛けるつもりなら、もっと違うことだろうと確信を持ったからだ。 なによりそもそも珀明が話にのろうと考えたのは――。 波打った長い金髪が頭に浮かぶ。 「そのかわり僕の方からもあなたたちにお願いがあります。――返事は僕の話を聞いてからでかまいません」 言葉半ばからニ対の眼が冷たい輝きを放ち、周囲の温度が下がった錯覚に陥った。全くとんだ人たちだ。緊張を強いられた珀明はぎゅっと掌を握りしめる。ここで引いてはいけない。 慎重に言葉を選んだ。 「ある人物が誘拐されました。僕の願いは、あなた方にその人を救ってほしい、というものです」 「残念だけどお門違いだよ。君は話す相手を間違えてる。交番ならこの先――5thストリートにある。それとも電話かそうか?」 「いいえ。――警察には連絡できません」 組んだ腕の下から、黒い固定電話を指示した男を睨みつけながら言った。 「その誘拐された相手というのは碧宝、碧幽谷です」 「ふうん。碧幽谷、ね。そりゃ大物だ。ならなおさら警察に相談すべきだ」 態度を変えようとしない男を挑むように見返した。 「ご冗談を。あなたたちはあの名無しの組織でしょう?」 男の腕がゆっくりと解かれた。細められた瞳が口元に浮かんだ甘い微笑を全て裏切っている。ぞっとするような漆黒。虚勢を張ってそれを真っ直ぐに受け止めようとすると、珀明の顎が自然と持ちあがった。 「何のこと? 名無し? 組織?」 「誤魔化さないで下さい。あなたは藍楸瑛さんでこちらが李絳攸博士なのでしょう。あの最凶と恐れられる名無しの組織を率いる二人だ」 なおも何か言い訳しようとした楸瑛を止めたのは、それまで静かにやりとりを見守っていた絳攸だった。ワークチェアの背もたれに完全に体重を預け、くつろいでいる。 「無駄だ楸瑛。コイツはお前がさっきとっさに俺の名前を呼んだから確信を持ってるんだ。そうだろ?」 「はい。論文に頂いた指摘を見て、あなたが李絳攸博士だと確信しました。それならもう一人は藍楸瑛さんに違いないと」 「ああ、それもあったのか。――話してみろ。お前が言った通り受けるかどうかはそれからだ。楸瑛、いいな?」 神経質な溜息の音が響いた。 「私が反対したところで君は珀明君から話を聞きだすだろ?」 「愚問だな」 「ならもう言うことはないよ。そもそも私の失態がいけないんだ」 「――ありがとう楸瑛」 ぶっきらぼうな独り言みたいな言葉に楸瑛は一瞬目を丸くした後、絳攸の銀髪に手を置いてくしゃりと一度撫でた。全く嫌そうではない苦笑を浮かべながら。コーヒーを飲む絳攸に目で促されて珀明はもう一度はい、と言った。 「あなたがたに依頼するのには理由があります。碧幽谷を誘拐したグループの裏には政財界の大物がいるらしく、うかつに手出しをすべきでないという碧家の総意があるからです。その人物は名だたる政治家や資産家の弱みを握っているらしく、その中にはこの国の警察組織のトップの名もあります。したがって警察に協力を仰いだところで握りつぶされてしまうでしょう。また相手を追い詰めれば弱みを握られた権力を持っている多数の人物が碧家を潰しにかかるかもしれません。――というのは建前で、その実力によって当主候補へのぼりつめた碧幽谷を気に入らない連中がことを公にすることを拒んでいるのです」 「なるほど、ね」 「犯行グループから今のところ何の要求もありません。それが尚更事態を悪くしています。過去碧宝やそれに連なる者が犯罪組織に協力させられた例は、残念ながら少なくありません。彼らの生み出す作品がさまざまな資金源になるだけではなく、時には贋作制作、贋金や偽造パスポートの製造などにも利用されてきました」 「贋金に贋作、か。それを裏で操る権力者。実に厄介だな」 絳攸がドーナッツを噛み切る。全然厄介そうじゃないのはどういうことか。 「何故君はそこまでして碧幽谷を助けようとするわけ? その才能が惜しいから?」 いいえ、と珀明は首を横に振る。そんなんじゃない。どんなに絶望的な状況にいてもそれを断ちきるような笑顔が瞼の裏によみがえり、熱くなった目頭を押さえる代わりに握りしめていた拳に力を入れた。 「碧幽谷は――碧幽谷の正体は、僕の姉、碧歌梨だからです」 二人の表情に変化は表れない。同情を期待していたわけではないのに、がっかりするな。委縮するな。 「どうか姉を助けて下さい。これは僕からあなたたちへの正式な依頼です。報酬は支払います。それで足りなければ先ほど言ったように、僕は出来る範囲で何でもします」 ――だから、姉を助けて下さい、と繰り返した言葉は掠れた。 あの大学で何をするのか知らないが、彼らに珀明の助けなどそもそも必要がない。偶然見つけた子供をちょっと利用すれば楽が出来るくらいにしか考えていないはずだ。いなければいないで手順が多少増えても、彼らならスマートにミッションを遂行するだろう。 そもそもNo Nameなどと呼ばれる名称がない組織が裏社会に現れたのはここ数年のことだ。その僅かな年月で次々に不可能を可能にし、その世界の人々に鮮烈な印象を与え、最凶と恐れられてきた。それほどの実力を備えているのだから。 彼らの組織形態などはいたって極秘だが、陽の下でのうのうと生きているにもかかわらず、珀明は他の裏社会の住人よりも知っていることがある。それは名無しの組織の依頼を引き受ける基準、いや合言葉というべきものだ。珀明が碧家に産まれたから知っている。 その利益は彩八家と世界のために――。 世界より彩八家が先んずるところが慈善活動以外の面を持ち合わせているらしいのだが、とにかくそれほど彩八家に重きを置いているという事実が重要なのだ。 そして珀明は――。 「僕は名前の通り碧家の人間です」 「碧家の意志から背いて勝手な行動を起こしている奴が何を言うんだ」 絳攸に痛いところを突かれて言葉に詰まったが、それでも諦めるわけにはいかなかった。 「ごもっともです。ですからこれは僕の一存です。碧家なんて関係ない」 「私たちのことを多少なりとも知っているなら言葉を飾るのはよそう。君個人の依頼なら碧家と切れることになる。君はこの件に関して碧家を頼れなくなるわけだ。私たちの仕事は安くない。君個人の支払い能力を超えていると思うけど、それはどうするつもりだい?」 「お金のことなら大丈夫です」 「その根拠は?」 「それなりに手持ちの札があるとだけ言っておきましょう」 納得したのか解らないが、絳攸が楸瑛を見上げた。じぃっと穴があくほどの視線を受け苦虫をかみつぶしたような表情をした楸瑛は、溜息一つでいろんな感情を押し込め、様々な考えを纏めたように珀明には見えた。 「うちのリーダーに感謝するんだね、珀明君」 初め何を言われているのか解らなかった珀明は、頭にのせられた大きな掌の感触に強張っていた身体から無駄な力が抜けていく感覚を味わった。勢いよく頭を下げる。 「あ、ありがとうございます!」 「礼を言うのはまだ早い。――楸瑛、蘇芳は?」 「今日の夜の便で戻ってくる」 「蘇芳への連絡は任せた」 「了解」 キィ、と椅子を鳴らせて絳攸が珀明に身体を向けた。 「お前、あの大学の図書館の地下には資料の保管庫があるのは知っているか?」 はい、という返事とともに珀明は首を縦に振る。 「入ったことはあるか?」 「ありません。あそこは歴史的に重要な資料や本があるとかで、基本的に学生の出入りは禁止されています」 何故だか絳攸はそっぽを向いてふん、と一度鼻を鳴らした。何が気に入らなかったのか解らない。 「まあいい。とにかくその保管庫から一冊取ってきて欲しい本がある。勿論こっそりと。引き受けると豪語したからにはやってもらう」 あそこの本は持ち出し禁止です、という言葉は口の中で消えた。もしかしたらとんでもないことを安請け合いしたのかもしれないという実感が湧いてきて、今さらながら震えそうになる。大いなる知識の一端を盗むなんて、珀明にとっては冒涜にも等しい行為に思えてならない。自然と牽制するような言葉が――最高峰の技術を持つ彼らの意思を変えられないと解っていても――口から出ていた。 「ですがセキュリティが厳しいのではないですか? あなた方にとっては何でもなくても僕に出来るかどうか――。監視カメラや赤外線センサとかあるのでしょう?」 「お前はスパイ映画の観すぎだ。どこかのだだっ広い美術館じゃあるまいし。日中に赤外線センサを入れているようなところはほとんどない。調査済みだ。警報の遠隔操作、モニタその他の記録はこっちで改竄しておくから、お前は堂々と入って本を手にとって堂々と出てくればいい。簡単な仕事だ」 「それにこっちから一人寄越すから心配いらないよ。残念ながら彼は今国内にいないから紹介できないけど。ぼうっとして見えて結構やり手だから、大丈夫」 「ああ。蘇芳の人を油断させる技術は一級品だ」 もの凄く犯罪の臭いが単語が並んだ気がする。いや、まぎれもなく物騒な話なのだ、珀明が手を貸そうとしているのは。冷や汗が滲む。だが緊張、不安、罪悪感に混ざって、そこになにか冒険の時に感じるような高揚感が確かにあることに戸惑いを覚えた。 絳攸の顔を見る。まるで血の通っていない――蝋人形のような顔。その眼が珀明をとらえている。 李絳攸博士の名前を耳にしたことがない理系大学生などいないだろう。手を伸ばしても届かない高みにいる、まさしく憧れの存在だ。その彼がこんなに近くでこうして珀明を見て、珀明に話かけ、そして――誇張があるにせよ、協力を仰いでいるなんて。 初めて絳攸の論文を目にした時には珀明は興奮して眠れなかった。 今の大学を選んだのも絳攸の母校だからだった。しかしその消息はある資産家が経営する企業の研究室に入って数年後、爆発事件以後途絶え、以来消息不明となる。――ただし公の記録では。 初めは落胆した。でも頭がいい珀明の調査はそれだけにとどまらなかった。一般的に死亡説が囁かれているが、死体は見つかっていない。死体がないのに死亡したなんて、そんな馬鹿な話はあるか。死体がないなら生きているに決まっている。あれだけ派手な爆発だったから警察はすぐに駆け付けた。企業側も隠蔽工作などできないはずだ。 ――李絳攸博士はどこかで生きている。 珀明は確信した。 だからそれこそ自分で探しだしてやろう、くらいの気持ちで碧家という恵まれた環境を利用して、独自に表沙汰に出来ない様な方法も交えて調査した結果、藍楸瑛の名が浮かびあがってきた。爆破事件の犯人で謎の多い人物だ。彼が実行犯ならば、博士について何か知っているに違いない。そう考えて藍楸瑛について調べていくうちに、彼が裏社会で暗躍していることをつきとめた。初めは単独行動、というよりパートナーを持たない主義を通していたらしいが、爆破事件から数年後にはどうやら二人組になっているような記録がみられる。そして彼らが関わったといわれる事件は、つきつめて考えれば彩八家の利益となるようなものが多かった。 結び付けるのには性急か、と思いながらもそれとなく碧家の中心にいる狸たちに探りを入れた結果、李絳攸博士がスパイに華麗なる転身をしていたことが判明したのだ。 そりゃ初めはショックだった。追い掛けていた人物が犯罪者になっていたのだ。だけど論文を読むたびに、ため息が出るほど惹かれた。 だから相変わらず絳攸は珀明にとってあこがれの人で、こうして話して、論文のアドバイスまでしてもらった。変人というレッテルは天才だから、にもはや変化している。 そんな陶酔状態の珀明を現実に引き戻したのはやはり、感情を排したような声だった。 「それで本のタイトルだが」 流暢な発音で並べられた単語から、どうやら物理学かなんかの専門書らしい。聞いただけで興味が湧くくらい力強く魅力的な題名だ。 「どなたの本ですか?」 「李絳攸。――俺の博士論文だ」 「ええ!? 博士ご自身のですか? しかも大学時代に書いたもの!?」 「ああ。あの本が保管庫にあるのが最近解った」 「あ、あの! 博士の要件が済んでからでいいので、その論文を貸して頂けないでしょうかっ。後学のために是非一読させて下さいっ!」 とんでもなく希少な本に巡り合える可能性に珀明の心は震えた。読みたい、という欲求で一杯だ。 「いや、あれは処分する」 「ええ! 何故ですか! も、もったいない」 珀明は悲鳴に近い声を上げた。それに驚いたのか絳攸が目を丸くしている。 「何故ですか? 教えて下さい博士! 僕は歴史的な損失を目の当たりにしているのに、黙ってるなんて出来ません!」 「――いや」 「絳攸。下手に隠すよりか言った方がいいんじゃない? 珀明君の仕事に迷いが出るかもしれない。それに私も知りたい。何故今になってその論文を必要とするのか」 くすくすと笑いながら楸瑛が加勢してくれた。これでニ対一、いや珀明はせいぜい半分だろうが、人数で押された絳攸は溜息を吐いた。 「お前が言うような歴史的な価値なんてなんて全くない稚拙な論文だが、ある特定の人間はもしかしたら喉から手が出るほど欲しがるかもしれない情報があることが判明した。だから回収しようと決めた。これで満足か?」 楸瑛がなるほど、と納得する横で珀明には何か悪用する人がいるのを阻止するために処分するんだということがぼんやりと解った。軍事目的、と楸瑛が口だけでこっそり教えてくれた。 「と、いうことで決行は明後日。プランが決まり次第連絡するね」 「あ、電話番号は」 「おい、俺たちを誰だと思ってるんだ?」 不敵に笑う絳攸を頼もしく思えた。疑っていたわけではないが、この人たちなら歌梨を助けてくれるに違いない。 「こっちはこっちでやるが、そっちはお前次第だ。頼んだぞ珀明」 そう言って絳攸は珀明のくすんでしまった金髪をクシャリとかきまぜた。 はじめて名前を読んでもらった喜びが大きすぎて、髪の毛を洗っておけばよかった、と変なことを後悔した。 2012.04.19 |