結論から言うと珀明の初仕事は実にあっけなく終わった。勿論成功だ。 大学の事務で図書館の資料保管庫への入室手続きを申請したらあっさりと許可され、司書と警備に許可書を渡せば、これまた簡単に中には入れた。ただし資料室に入るまでは手に汗をかいていたのだが、警備に扮した助っ人の蘇芳のおかげで妙な力が抜けて、実に余裕を持って遂行できた。絳攸たちによるお膳立てがあったにせよ、案ずるがより産むがやすし、を身をもって体験したことになる。 その蘇芳とは彼のスケジュールの関係で、事前に顔合わせなんてものが不可能だっため、当日はいろんな意味で不安で仕方がなかった。 普段通りを心掛けても、そう意識することで一層不安になる。許可書をもって保管庫へつながる階段を降っている時に「ねえ君」なんて声を掛けられて、驚きのあまり足を踏み外しそうになったほど珀明は緊張していた。 「あー大丈夫? えーっと、碧珀明君、でよかった? いきなり声をかけてわりぃ。驚かせるつもりはなかったんだし許してくれない?」 警備員の格好をした蘇芳は、なんだか毒気を抜かれるほど――普通の人だった。この場合普通というのは顔がよすぎないとか、頭の回転が速すぎないということだ。比較対象はもちろん絳攸と楸瑛で、つまりあの人たちの中では蘇芳の印象は驚くほど精彩に欠けた。もっともあの二人と比べてしまえば大抵の人は凡人だが。 スパイのくせに脱力するようなテレテレとした蘇芳の態度に、この人本当にあの最凶のスパイ集団の一員だろうか、と疑ってしまった程だ。でも「人を油断させる技術は一級品だ」という絳攸の言葉を思い出し、信じることにした。確かに珀明の臆病が故に研ぎ澄まされた神経は、もう氷解してしまっているのだから。 「今人手が足りなくってさあ。君、うちのリーダーとサブ見ただろ? あんな長身だとどこにいたって目立つわけ。メイクとかマスクで顔はどうにもなるけど、背はさ、さすがに骨を削るわけにはいかないじゃん。出来るかもしれないけど絶対痛いじゃん。俺はごめんだね。とにかく他にもそんな奴らばかりでさー。だから普通の俺ばかりあっちこっち飛ばされて大変なの。今回も休む暇なくどっかの御屋敷からここだぜ? ウチのリーダーの人使いの荒さは一級品だからさー。まあ俺はあの人たちみたく頭よくないからこんくらいしか出来ないけど」 蘇芳の緊張感のなさにつられてリラックスしてミッションをコンプリートで出来たのだと思うと、少し情けない気がする。 書架のもともと絳攸の本が入っていた場所には、一見それとは解らにようにそっくりの装丁をした偽物が入っている。絳攸曰く小学生の時の夏休みの自由研究に書いたレポートが元になっているという。「酢卵とミョウバンの結晶の共通点」についてというのが内容で、どんなことが書いてあるのかさっぱりだ。さらにページ数を調整するために特別に「化学反応から見る一番おいしい唐揚げの作り方の考察」を書きおろしたらしい。――読んでみたい気もする。怖いもの見たさってやつだ。どんな化学薬品がふりかけられるのか解った物じゃないから、唐揚げは食べるのは正直ごめんだ。それに「作り方」というのが何となく不気味だ。まさか鳥肉まで何か別の物で――と想像力を逞しく働かせる結果となった。実際には読んで確かめる時間はなかったのだが。 保管庫と警備員の詰め所から死角になるところで、盗み出した本を断腸の思いで蘇芳に手渡した。 「今回は君がいてくれて助かった。俺、コソコソやるの向いてないからさあ。何でばれないのか不思議だけど毎回俺の繊細な心臓はバクバクしてるんだぜぇ。絶対あの組織に入ってから俺の寿命は十年は縮んだね。心臓に毛が生えてる奴ら沢山いるんだから、夜中にこっそり忍び込めばいいと思わねえ?」 蘇芳が頭を掻きながらポツリと漏らした言葉に珀明はガクッと肩を落とした。ダダ漏れだ。確かに人の油断を誘うが、狙ってやっていないのならスパイとしてどうなのだろうか。潜入先でもこんな風なら迂闊にも程がある、と珀明なんかが心配してしまう程だ。 「あの…。僕にそんなことまで話してもいいんでしょうか?」 「え? 何、君って仲間なんじゃじゃないの? え、違うの? もしかして俺何か不味いこと言った? うっわーヤベェ、バレたら絶対超怒られる。あのさー、あの人たちにこのこと言わないでくんない? 頼む!」 必死に拝まれて、珀明は曖昧に頷くことしか出来なかった。 そして寮へ戻ると――。 歌梨がいた。 珀明の姉。囚われているはずの、碧幽谷。 ウェーブがかかった金髪が高いところで結い上げられているその人は、大きな窓から侵入する柔らかい光を浴びながら、ややつり上がった瞳に珀明を映し「ありがとう」と言ったのだ。 信じられない光景に、珀明は自室のドア付近で目をまん丸にしながら、茫然と立ちつくした。 「姉さん…?」 まさか、こんなに早く絳攸たちが動くなんて――。 歌梨はツカツカと寄ってきて、その気の強そうな碧眼をつり上げて「珀明、あなたその恰好なんですの!」と怒鳴り始めた。目の下の隈やくすんでしまった金髪、さらに洋服やら散らかった部屋の惨状などにありったけの文句を聞かされ、「全くこれだから男は」というフレーズが飛び交ったが、その半分以上が珀明の耳をすり抜けた。 突然静かになる。大声を出して疲れた歌梨の荒い呼吸音が聞こえるくらいの静寂だ。 もっと怒って欲しかった。そうでなければ何か変なことを口走ってしまいそうだから。堪えている熱いものが外へ出てしまいそうだから。 歌梨がよく似た顔で、ふっと微笑みを浮かべるものだから、珀明が顔を歪めて唇をきゅっと結んだ。そしたら頬をにゅっと抓られた。 「あら、面白い顔ね。でもせっかくの男前が台無しですのよ」 憎まれ口とその柔らかい微笑を浮かべる表情がまるで一致していないじゃないか。抓られた頬が痛いし。 「―――――――!」 我慢できなくて、珀明はその場にうずくまり膝を抱えて声にならない声を上げて泣いた。ガミガミと怒鳴るから、頬を抓るから――。だからに決まってる。 ツンツンと何度か腕を突かれた後、ふわりと温かく包まれて、珀明はしばらく立ち上がることが出来なかった。 2012.04.19 |