普通ならこういった裏の仕事の報酬は、面と向き合って渡すものではないんだろう、と珀明は思う。
 連絡が来るまで待って、指定の銀行口座――それもお決まりのスイスの銀行に振り込むのだ、と言ったらまた絳攸に「スパイ映画の観すぎだ」と笑われてしまうだろうか。
 甘い香りがする道を渡り、高級住宅街へ足を踏み入れる。
 空は青く、風が花びらを運んでくる。
 右手の革製の旅行鞄はパンパンに膨れていた。
 スパイに仕事を依頼した額の相場なんて知らないが、きっとこれで足りるはずだ。自信がある。いや、むしろ多いに違いない、と確信したからこそ詰め込んできたのだ。
 そうなのだ。珀明はミッション達成の昨日の今日、朝一番で、絳攸たちのアジトへ押しかけようとしている。幾らかなんてまだ聞いてない。
 待てばいいのだが、それだと珀明の決意の意味がない。
 高級アパートの階段はその外観に似合わずあの日と同じ甲高い音を奏でた。
 もしかしたら絳攸たちは珀明に知られてしまったことで、あの部屋をすでに売り払っているかもしれないとも考えたが、ノックをする前に黒髪の男がその整いすぎた顔をのぞかせた。呆れ気味、といった表情だ。きっとどこかに小型の監視カメラがあって、珀明の来訪を知ったのだろう。
 ただしその顔を見た瞬間、血の気が失せた。それこそまさにサー、と血が下る音を確かに聞いた。この家には何かあるのだろうか。前回、振り子時計の示す時間に蒼白になったが、あの時のほうが何倍もましだ。だって今回のは――。
「あ、姉がご無礼を働いてしまって、す、済みませんっ!!」
 ――そう。珀明の責任ではないのだ。
 体を真二つに折り曲げる勢いで、頭を下げた珀明に上のほうから「中にお入り」と苦笑交じりの声が降ってきた。
 信じられない――いや、信じたくない事態に遭遇したショックでフラフラしながらリビングに通された。あの数日前珀明が惰眠をむさぼったソファに座ると、絳攸が直ぐにコーヒーを運んできた。楸瑛が茫然自失状態の珀明を引っ張り込んでいる間に淹れたらしい。マグカップを満たすのは、いかにも濃そうな茶色い液体だが、今では丁度いい気つけ薬になるに違いない。
 向かい側に楸瑛と絳攸が座った。
 絳攸は涼しい顔で自分のマグカップを持ちあげていた。でも眼には明らかに好奇の光がある。――面白がっているのだろう。
 ――問題は、楸瑛だ。
 絳攸同様――いや全く別の印象を受けるのだが――相変わらず同性だというのに思わず見惚れてしまうほど整った顔を、珀明はこの日は別の意味で注視してしまう。
 正確には視線を逸らし続けているのだが。何度も確かめるようにチラッと横目で盗み見ては眼を逸らせた。
 残念ながら事態に変化はない。
 藍楸瑛の頬には――真っ赤な手形が浮かび上がっていた。
 誰のせいかなど解りたくなかったけど経験的に確信してしまっている。
 珀明は楸瑛とは反対に顔面を蒼白にたまま、いたたまれなくなくて今にでも逃げ出したくなった。
 珀明の姉、歌梨は気が強く短気だ。そして――。
 ――大の男嫌い、だ。
 ごく一部の例外を除いて世の中の男は全て敵だと思っている。それは男の権力社会が色濃く残る旧家に産まれたため、実力では群を抜いていることもあって、歌梨に対する嫉妬は目を見張るものがあった。相当ひどい――口に出すのをためらう程の嫌がらせを毎日毎日受けていた。
 あの日、緊張やら興奮やらが入り混じって歌梨の性格を告げるのを失念していた。珀明の落ち度だ。楸瑛の頬をさっと見て、冷や汗をかきながら視線を泳がせた。一日経っても叩かれたことが解るのだから、よほど容赦のないビンタだったに違いない。そもそも歌梨は男に容赦は不要だと思っているのだ。
 ――せめて昨日言ってくれればよかったのに。脳裏に浮かび上がった歌梨の高笑いが聞こえて、思わずズキズキとする額に手を当てた。
 その楸瑛と眼が合ってしまった。珀明は再び頭を下げて詫びた。
「―――ご迷惑をおかけしてしまって、申し訳ございません…!」
「いいからいいから」
 そう言いながら「君のお姉さんというのは……相当インパクトが強い方だね」と、言葉を選びながら呟かれた楸瑛の言葉にますます低頭した。思い出したのか苦笑がひきつってるし。心の中で、他に一体何をしたんだ! と叫ぶ。あれやこれや思い当たりすぎる節が、珀明を馬鹿にするようにグルグルと脳内で踊りまわった。
「おい、そんなに頭を下げるな。こんなのまだマシな方だ。気にするな。――それに半分はコレが悪い」
 絳攸の白い目を受けて楸瑛は「誤解だ」と苦い顔をして言ったから、半分云々は珀明を慰めようとしての言葉だと思いますます縮こまるしかなかった。
「確かに怪我の度合いとしては可愛いものだけど。世間の眼がこれほど痛いって身にしみたよ。真っ正面から見ずに、横目で見られてヒソヒソ話し。白い目、言い得て妙だね」
「女好きの冥利に尽きるんじゃないのか?」
 いかにも馬鹿馬鹿しいといった風に絳攸は言った。
「見るからに軽薄で信用がないんだから、刺されなかっただけマシだと思え。その身体からにじみ出る胡散臭さをなんとかしろ。初対面の女に見抜かれる薄っぺらさはスパイとしてその適性を疑うな。それ以前に仕事中に公私混同するなんてプロとして失格だ」
「――悪かった。だからそれくらいで勘弁してくれないかな」
「その言葉を信じて両手両足の指では足りないほど、馬鹿を見てきたのは一体どこの誰だったか?」
「――君、私のことなんだと思ってる?」
 言葉に詰まった楸瑛は作戦を変更したようだ。悲壮な顔を作っていたのを、絳攸に容赦なく鼻で笑われている。
「舌先三寸常春頭」
「………。それはさすがに言い過ぎなんじゃない?」
「どこがだ。任務中に携帯電話で聞きたくもないお前と女の別れ話を隣で聞かされる身にもなってみろ。それに今回俺が止めなかったらどうなってた? あの場であの女に怒鳴られて敵がわんさか押し寄せて来ただろうな。あの女が手を上げなかったら俺が殴ってた。握り拳じゃないだけマシだと思え」
「す、済まない。今回は本当に反省した」
 敵がわんさか――。想像して珀明は顔面を再び蒼白にした。歌梨の身に何も起きなくてよかった。
 同時になんとなく流れが読めた。歌梨にその口先だけだという甘い言葉を送り、嫌がる姿にさらに何か言った結果、平手をもらったのだろう。うん、僕もしかしてあまり悪くないかも。胸をなでおろすと、気が随分楽になった。
 ずっと下げっぱなしだった顔を上げる。言い争う――いや、人差し指を向けながら一方的に非難する絳攸と、両手を上げ顔をややのけぞらせた状態で弁解し謝る楸瑛に躊躇いながらも「あの」と声をかけた。誹謗と謝罪が示し合わせたようにピタリと止み、端正な顔が二つ、珀明に向けられた。
「本日僕がここを訪れたのは理由があります」
「随分大仰な言い方だな」
 背伸びをしたもの言いに絳攸は微かに笑った。
「で、何だ?」
「あの、依頼料は幾らでしょうか? 早く済ませたほうがいいと思って本日来たのですが、よろしいですか?」
「気が早い奴だな。――楸瑛、幾らだ?」
 告げられた金額に世の中のビジネスマンたちの九割は悲鳴を上げただろうが、珀明は眉ひとつ動かさなかった。ただし心中では、よしいける、とガッツポーズをしていたのを二人は知るまい。応接のローテーブルにバッグをトンと置いて、中から丸められた紙を取り出した。
「これが報酬になります」
 机の上に広げたのは――一枚の大判の絵だった。どんなに絵に疎い素人が見ても、いや子供だって思わず目を奪われるような迫力に満ちている。美術品と呼ばれるのに相応しい物だ。
「もしかしてこれ――」
「はい。お察しの通り碧幽谷の作品です。売れば相当な金額になるでしょう。こちらをお納め下さい」
 現金や小切手ではなく美術品を渡されたことに多少戸惑っているのか、絳攸と楸瑛は顔を見合わせた。
「実は、絳攸博士と楸瑛さんにお願いがあります」
「また碧幽谷が攫われでもしたのか?」
 不謹慎な冗談に珀明は真面目に「いいえ」と答えた。
 ここに来た理由。その本当の真意は――。
 震えそうになる。昂ぶりを落ち着けるためにコーヒーを一気に飲む。口の中が苦味に支配されて、思わず顔をゆがめた。よくこんな物体を絳攸は平気で飲めるな。
 珀明はまるで壁のように立ちはだかる――実際は座っているのだが――絳攸と楸瑛をキッと見据えた。
「僕をあなた方の仲間に入れて下さい」
「却下」
「右に同じく。遊びじゃないんだよ、珀明君」
 考える間もない即答は快刀乱麻を断ちきるように鮮やかだった。取り付く島もないとはこのことか。でも珀明だって絳攸と楸瑛の言葉はとっくに予想済みだから、多少がっかりした気持ちを直ぐに切り替えた。気合が入る。そう、勝負はこれからが本番だ。
「そう言われると思っていました」
 微笑さえ浮かべそう告げた珀明に、スパイ二人は形容しがたい表情を浮かべた。
「その絵ですが」
 視線で示す。
「碧幽谷初期の作品です。今の画風の片鱗がうかがえるため、世界各国に多数いる好事家たちの受けがいいでしょう」
 碧幽谷初期の絵画――正確には碧家の親族一同が、歌梨に筆を折るように迫り数日間監禁した後、どうにか絵の道を断たれないまま解放された彼女が、憑かれたように一心に筆を執ったうちの一枚だ。そしてこの時こそが碧幽谷誕生の瞬間である。そういった意味でもこの絵には価値がある。きっと監禁中の地獄を思い出したくないだろう、描き終った絵を歌梨は「処分しなさい」と珀明に手渡した。それを捨てられなくてずっと保管していたのだから所有権は珀明にある。
 珀明個人として依頼したからには、碧家には頼れない。初めからこの絵を渡すつもりでいた。依頼をした日に言葉を濁したのは、現金じゃなければダメだ、と言われる可能性があったからとっさに出た言葉だったが、今では自分を褒めたいくらいだ。
「さらに、この作品は今まで市場に出回ったことがないものです。コレクターたちは金に糸目をつけず、我こそはと手に入れようとするでしょう。――参考までに市価の概算はこちらに」
 楸瑛に鑑定書を握らせる。その数字を見て楸瑛は軽く口笛を吹き、手元を覗きこんだ絳攸は片眉を跳ね上げた。そこにはゆうに八個のゼロが並んでいるのだから。
 二人の反応をじっくりと確かめてから珀明は続けた。
「それは三年前に依頼した時のものです。現在、美術品は値上がり傾向にあるので、競にでもかけたのなら軽く二倍になるでしょう。あなた方は違法な競りもご存じでしょうが、そうしないと信じて預けます。ご自由にお取り扱いください」
 大きく息を吸い込む。
「――ただし、僕のことを受け入れないというのなら今すぐ差額を下さい。キャッシュで」
 これが珀明の手札だ。
 ふん、と面白くなさそうに鼻を鳴らした絳攸と、あごに手を当てて目を僅かに眇めた楸瑛を挑むように上目遣いで睨めつけてやった。
 億単位の金を直ぐに用意しろと言われても土台無理な話だ。莫大な金を動かすにはそれなりの手続きが必要で、なによりそれほどの額の移動があったのなら不審に思われるかもしれない。いらぬ危険を招く恐れがある。それも現金ならばなおさらだ。スパイにとって致命的なはずだ。
 だからこそ珀明はこうして押しかけて、先手を制したのだが。
「どうです? 僕を仲間に入れてくれる気になりましたか?」
 碧珀明、人生二十年弱で一番の大見栄を張った。様にならなくたってそんなこと関係ない。ここでやらなきゃいつやるんだ。
「お前の手はそれだけか?」
 返答のかわりに絳攸がそっけなく言った。それに珀明は答えずに続ける。賽は振られたのだ。ここからは腹の探り合いだ。
「そもそもあなた方は僕が頼み込むのに関係なく、姉を助けるつもりだった。――違いますか?」
 珀明も答える代わりに微笑んだ。挑発するような音を持ったその言葉に、絳攸は目をキラリとさせた。
「ほう、どうしてそう思う?」
「手際がよすぎたからです。僕の知識なんて作り物の世界から得たものしかりませんが、僕が依頼してから実際に姉が帰ってくるまでのたった二日。その間に敵のアジトを調べ侵入方法を検討するなんて可能でしょうか。もっと慎重になってしかるべきです。いや、最凶と恐れられるあなた方ならもしかして――とも思いましたが、そうするとまた新たな疑問が浮かんでくるのです」
 無表情な楸瑛に比べ、絳攸は単純に珀明の思考展開を楽しんでいるようだ。それこそ大学の研究室の教授のように、評価を下す者の余裕がある。
「何故僕に泥棒を働けなどと言ったか」
「それこそ偶然だよ。偶々君があの大学の生徒だから絳攸は――嫌な言い方だけど利用しようと考えた。そうだろ?」
「まあそんなところだ」
「僕もそう思いました。―――初めは」
 以下に記録を改ざんしようとも、素人の手にゆだねるなんて不用心にも程がある。失敗するかもしれないのだ。そのリスクが高いのだ。
「あなた方は悪名高い精鋭たちです。僕の助けなどなくてもあの保管庫に忍びこんで、本の一冊や二冊懐に入れるのなんて雑作もないことでしょう。なのに僕を巻き込んだ。緊張でうっかりミスをする可能性がある素人の僕を。――それにあなた方が寄越した蘇芳さんは、今人手が足りない、と言っていました。図書館の地下保管庫なんて僕を使って日中に潜入せずとも夜中、みんなが寝静まった頃にでも忍び込めばどうにかなるでしょう?」
 心の中で蘇芳に謝る。どうか彼が絳攸や楸瑛に怒られないことを願うばかりだ。
「それはお前が知らなくていい情報だ」
「それが出来ない状況にあるのではないか、と僕は考えました。例えば他の人たちは全員何か別の仕事をしている。つまり碧幽谷誘拐事件の依頼が僕より前に他方から――おそらく八家筋から正式に舞い込んだというのはどうでしょうか? そうすれば手際の良さも納得できます」
「もしそれが本当だとして、何か問題でも?」
「直接的にはないと思います。でも、あなた方、もしかして二重に料金請求をしようとしていませんか? いや、さすがにそれはなくても組織のバックである八家からの依頼より、僕個人からのほうが依頼料を高く取れるのではないですか?」
「確かに碧幽谷救出の仕事は別の筋から受けた。だから何だというんだ? そもそもこういった稼業は信用第一。同じ依頼を別口から受けても黙秘するのがルールだ。フェアじゃないとでも騒ぎ立ててもそれこそ詮無いことだ。どの依頼を引き受けるのかはこっちの勝手だからな」
「そもそも言い値で払うと明言したのは僕です。あの時はそれはもう必死でしたから。うっかりあなたたちの仕事を協力してしまうくらいに」
 とげを含んだ声色にも全く動じない。同情を引けるとは思ってなかったからまあいい。
「だた、僕を仲間に加えて下さるのなら、後日キャッシュか――額が多いので、小切手を渡すか指定された口座に振り込みます。僕の申し出を断るのなら、お釣りはこの場できっちり頂きます」
 自信満々とまではいかないまでも、多少は満足していた口上に、うんともすんともなくて珀明は不安になった。胸の奥がどんどん重く冷えていく。
「――今回、あなた方が色々手はずを整えてくれたとは言え、僕はしっかりとミッションを達成しました」
 焦りで震えそうになる声を制御しようとしたら、低くなった。
「それくらいの度胸はあります。どうでしょうか? 確かに技術はありませんが、直ぐに手に入れて――いや、盗んでみせます。それまで足手まといにならないよう努力します。だから、僕を仲間に入れて下さい…!」
 懇願。こんなはずじゃなかったのに、最後は頼み込むしかないのか。
 いや、そうじゃない。まだある。とっておきが。しぼみかけた力が湧いてきた。
「それに今なら」
 ごそごそとななめがけのバッグをあさる。中腰になって取りだした紙袋を彼らの前に勢いよく突き出した。
「ドーナッツ付きです!」
 絳攸と楸瑛は虚を突かれた表情をさらした。
「僕は他にも美味しいお菓子の店をたくさん知っています! 僕がいれば毎日絶品スイーツ三昧! どうです? 僕を雇った方がお得だとは思いませんか!?」
 はあ、と一気にまくしたてた珀明の息継ぎの音が響いた。
 一瞬の間を置いて、ぷっと噴出したのはどっちが先だったのか。絳攸と楸瑛が腹を抱えながら大爆笑し始め、スパイの住処は笑いの渦に包まれた。何が何だか解らなくて目を白黒させながら二人を交互に見た。甘いものがない人生なんて珀明にとって有り得ないから、これしかない、と確信しての言葉だったのに、一体何か変だったのだろうか。
 仮面のように本心を曝そうともしない楸瑛は、今は苦しそうに「ふ、腹筋が…!」と言いながら肩を激しく揺らしている。同じく作り物めいた印象があった絳攸だって、ヒイヒイ言いながら目尻に浮かんだ涙をぬぐった。馬鹿にされているのとは違う純粋な、これぞというような爆笑だ。クエスチョンマークを何個も浮かべながら、珀明は突然雲の上の存在の血の通った様子に遭遇して、ただ呆然とするしかなかった。
「――珀明」
 それなのにピタリと止んだ笑い声。かわりに向けられたのは、どこまでも平坦な道のような声だった。
 瞬時に緊張が押し寄せる。
 絳攸に名前を呼ばれるのはこれで二回目だ。
 絳攸の精悍な顔が珀明に向けられる。ひとしきり笑った後なのに、息一つ乱れていない。さっきまでの爆笑が嘘のような、静かな表情だ。
「いいか。スパイは簡単な仕事じゃない。怪我もするし追われもする」
「犬に追われて怪我したことは何度もあります。――実は今でもよく追われて逃げ回ってるので、逃げ足には自信があります」
「信じた者に裏切られることだってある。休息がない腹の探り合いの世界だ」
「碧家でも大学でも足の引っ張り合い、腹の探り合いなんて日常茶飯事です」
「一度足を踏み入れたら生涯安息を得られないことが多い、底なしの闇だ」
「碧家から逃れられると思ってないから、対して変わらないと思います」
「それに頭を使うだけじゃない。ぶら下がったり飛んだり落ちたり体力も必要だ」
「体力は研究室でそれこそ馬車馬のように使われているのでそれなりに、頭脳は博士ほどではありませんがそれなりに自信があります」
「日々誰かに狙われてる。命の危険だってある」
「はい」
 ――そりゃ危ない仕事なのだからそうだろう。でも。
「そうならないよう万全を期してみせます」
 決して大声ではなかったが、自然と珀明の固い決意が表れていた。
 大学や学会、はたまたその他の研究室で権威と呼ばれる人や時には政治家や名士に阿ながら、これから歩んで行っていいものだろうか。
 漠然とした将来に対する不安は、絳攸たちと会ってからいつの間にか吹っ飛んでいた。研究ならこの組織でも出来る。それにここには最高の指導者がいるのだから。
 溜息を吐いて米神を揉んだ絳攸は、テーブルに広げっぱなしにしてある絵を取り上げ、つきつける。嫌な予感と戸惑いで珀明は混乱した。
「え?」
「持って帰れ。金ならお前からじゃなくて、別の依頼主からぶん取ればいい話だ。向こうはキャッシュで提示額を振りこんでくれるだろう」
 あ、と口に手を当てた。そうだ。そうだった。その点を珀明は見落としていた。失敗したことを悟って、心臓がバクバクする。どうしよう。どうやって挽回しよう。
 絳攸は立ち上がって、デスクへ移動した。楸瑛は絳攸のマグカップをその机に置いて、壁に寄りかかった。
「それにそんな物騒な物いらん」
「え? 物騒、ですか?」
 理解が追い付かない珀明の顔色を読んだ楸瑛が、簡単に解説してくれた。
「今まで市場に出回ってなかった美術品を捌くとなれば、当然出所はどこか、ということが話題になるだろ? 特に碧幽谷初期の作品で今まで出品されたことがない物なんて、碧家周辺の人物が関わっていると子供でも予想できる。君は鑑定を依頼しているし、その筋を探れば一発だろうね。そうなるとね、もしかしたらもっとお宝があるかもしれない、と考える困った奴のせいで君が狙われるかもしれない。だから絳攸は受け取れない、と言ってるんだよ。珀明君、スパイはいろんなことに細心の注意を払わなくてはやっていけない稼業なんだ」
 ――そう、なのか。
 今までの虚勢がガラガラと音を立てて崩れ落ちていく。力が抜けて、そのままソファにすとんと落ちるように座った。
 スパイの世界のことを知らない子供が無謀なのを曝しただけか。悔しくて――。絳攸たちは珀明の心配までしてくれたのに、何も解らずまくしたてた自分が情けなくて恥ずかしくて――。
「何泣きそうな顔をしてるんだ」
「泣いてません!」
「今からそんなんじゃこの先が思いやられるな。もう少し気骨がある奴だと思っていたのは俺の勘違いか」
「へ?」
 何? どういうこと?
「まったく――。まあ初めから君の好みだとは思ってたけどね」
「お前と違って素直で可愛げがあるからな」
「おやおや、妬けるね。私も意外に可愛いところあるよ? 今度二人きりになった時見せてあげようか?」
「今すぐそのよく回る口を閉じろ」
 絳攸は身近にあった分厚い本を一冊手に取り、楸瑛に向かって投げつけた。ナイスキャッチを見せて、嫌味なほど優雅にその本を机の上に返すのが様になっていて嫌だ。絳攸は渋い顔で苦いコーヒーを飲んだ。
 脱線してしまったが話がとんとん拍子に進んでいて、それも珀明の話題だと思うのだが、当の本人だけが取り残されている。
 珀明の戸惑っていますといかにも書いてありそうな無防備な表情を見て、楸瑛が笑った。
「絳攸からのお許しを得たんだよ。よかったね、珀明君」
 ――そ、それって。それって!
 信じられない思いでいる珀明に楸瑛が片目を閉じて人差し指をたてた。
「ただしドクターコースを修了するまではただのアルバイト。その後は見習いからスタートだ。アルバイト期間にスパイに向かないと判断したら、その話はなしだ。いいね?」
「は、はいっ! ありがとうございます!」
 嬉しさのあまり感極まって声が震えた。まさか本当に入れてもらえるとは思っていなかった。気概はあったし期待もしていたが、断られるとどこかで考えていたのに。
 そんな珀明をしばらく笑いながら見ていた楸瑛は、斜め下――絳攸に視線を移す。何かたくらみを思いついたように、楽しそうだ。
「で、最初の任務は何にする? リーダー?」
「――そうだな」
 少し考えるように上を見た絳攸は、ワークチェアをくるりと回転させた。その硝子玉のような瞳で珀明を見据える。表情の無い陶器の人形が口を開いた。
「毎日うまい菓子を用意するように。――いいな珀明」
「は、はい! お任せ下さい!」
 微笑を浮かべた楸瑛が手をすっと、右腕をすっと斜め下にもってきた。
「ようこそ珀明君。我らが名無しの組織へ」
「期待してるぞ、珀明」
 立ちあがった絳攸にすれ違いざまトン、と背中をたたかれた。珀明は後ろを振り返ってドーナッツをあさっているその背中に頭を下げる。
「よろしくお願いします! 絳攸はか――」
「ストップ」
 眉を寄せた絳攸が顔だけ珀明に向けた。噛み切ったドーナッツで珀明を指して――。 「その博士というのはやめろ。前から気に入らなかったんだ。俺はもう博士じゃない。これからは絳攸と呼べ。いいな」
「よろしくお願いします! こ、絳攸、さまっ!」
「何だそれは」
 呆れられたが、その気安さが珀明には嬉しかった。


 ――以後何度場所を変えようとも名無しのスパイたちのアジトは、珀明の持ってくる菓子でいつも甘い匂いに包まれていた。




 この後珀明はアルバイトの身ながら、事務にその人あり、と言われるまでに成長する。見習い期間を経た後も主に事務で手腕を発揮したが、多種多様なスパイ技術を身につけ、人員不足の組織では重宝され様々な部門で幅広く活躍し、名無しの組織に必要不可欠なメンバーとなった。





2012.04.22