楸瑛がキッチンで棒立ちになって俯いていた。
 空になったマグカップをちょうどダイニングテーブルに置きに来た絳攸は、ああ、珍しいなと思って、その精悍な横顔をとっくりと眺めた。
 中心にきゅっと寄せられた眉。剣呑に細められた眼。顎にあてられた手の甲。
 斜め後ろからだから僅かしか読めない表情だが、それでも何かに承服しかねているのがよく表れていた。もし表情辞典なるものがあって絳攸が編者なら、間違いなく今この瞬間の楸瑛を「不機嫌」の項に載せたに違いないと確信する、そんな顔だ。
 社会人たるものビジネスや人付き合いの面において腹芸がそれなりに要求される。腸が煮えくり返っていても笑顔で「ありがとうございます」と謝意を述べた経験は、残念ながら絳攸には少なくない。そんな悲しい世の中を何度もヤケ酒とともにやり過ごしたものだ。
 でも楸瑛は高度に磨かれたそれを私生活の面でも引きずるのが悪い癖だと常々不満に思っていた。絳攸相手にストレートに気持ちをぶつけないことが腹立たしい。時にそれがどんなに空しさを与えるか、楸瑛は解っていない。我儘や無神経なことを言っても、苦笑ひとつで片付けられる度に感じるのは甘やかされている事実だけではなく、鈍い痛みだった。
 それが今はどうしたことだろうか。絳攸がすぐそこにいるというのに、楸瑛は全く気付かずに内面をさらけ出してるのだから、気にならない方が変だ。
 そもそもあんな表情をするのは絳攸の役割だ。怒っているわけではないのに眉間によった皺。何かに夢中になると知らないうちにしかめっ面をしているらしい。つまりそれが絳攸の真剣な時の顔なのだが、それを知っていてなお楸瑛はいつも楽しそうに指摘した。

 ――その表情は君の専売特許だね。
 額に円を描くようにあてられた指の感覚に、絳攸はジロリと犯人を睨みあげた。いつの間にか隣に並んだ楸瑛だ。
 絳攸はフローリングの床に直接座り、ソファに縁に背を預けて本を読んでいた。それを邪魔されたことに対する苛立ちを視線と声にたっぷりと込めた。
 ――見てわからないのか? 俺は読書中だ。今いいところなんだ。
 ――とてもそうは見えなかったよ。それにこうでもしないと君は私の方を向いてくれないでしょ。
 楸瑛は恥ずかしげもなくそう言うと絳攸を引き寄せて、額に優しく口づける。頭に花を咲かせて、甘ったるい空気を一人でまき散らしながら。真正面から喜色を浮かべた双眸とぶつかってしまえば、無言の抗議なんて数秒しか持たないのだった。同時に吹き出す。一通り笑いの発作が治まると、それが合図のようにゆるりと抱きしめられ、髪の毛を梳かれた。

 絳攸は足音を立てぬように気を配りながら、楸瑛の死角に回った。そのままやはり細心の注意を払いながら、背後までやってくる。キッチンに近づくにつれ大きくなる換気扇の音と、バターの香り。肩越しに鋭い眼光の先を辿れば、歪なまあるい物体が燦然と光を放っていた。それはオーブンの鉄板の上にのった、黄金に輝くシュークリーム。隣に柔らかく泡立てられた生クリームがあるから、まだ空なのだろう。カスタードクリームは冷蔵庫か。
 たっぷりのクリームで満たした重みのあるそれに齧り付く瞬間を想像して、絳攸の頬は思わず緩んだ。
 絳攸の大好物その一が、楸瑛手製のシュークリームだ。だから読書中などはむすっとしている絳攸の顔が、チーズよりもとろけるのも無理はない。
 頬を手で押さえた。そうでもしないとついつい手が伸びてしまいそうだから。いつもならともかく、このシュークリームは本日の来客用のはずだから我慢。
 甘い誘惑を編み出す男に視線を移す。すぐ後ろにいるというのにまだ絳攸の存在に気付かない楸瑛をさすがに訝った。
 位置的にほとんど見えないが、それでも解るほど硬い表情。ややつり上がった眉。三白眼に近い瞳。結ばれた口。
 デザイン性を追求しているにしては、この顔は怖い。罪なきシュークリームと仁義なき睨めっこをしていたって、相手は無生物だ。建設的なことなど何もない。 擬人化したらきっと泣きべそものだろう。シュークリームが不味くなるからやめろと言いたい。
 何に腹を立ててるのかもしくは悩んでいるのか絳攸には解らない。
 ――相談してくれればいいのに。
 絳攸は歯がゆかった。楸瑛は何も言わなくても絳攸のことなどなんでもお見通しという態度を取るから、なおさらに。そんなに頼りないのか、という不満と一人で抱え込む楸瑛の姿に、胃のあたりがきゅっとなった。
 ――そっちから言い出さないのなら。
「楸瑛、お前どうかしたのか?」
「う、うわあ!」
 今来ましたという風を装ってひょいと傍らに立てば、楸瑛は飛び上るほど驚いて、勢いよく振り返った。出し抜けたことに意地悪くも胸がすっとした。
「こ、絳攸! い、いつの間に!?」
「変な顔してどうしたんだ?」
 楸瑛はあからさまにギクッとした。
「えっと…」
「ん?」
「その……」
「………」
 視線をきょろきょろさせる楸瑛を見据えれば、観念したのか唇を一度かみしめてから、ぽつぽつと語りだした。楸瑛にしては不明瞭で、途切れ途切れの言葉を忍耐強く聞いていたのだが――。
「はあ!? 砂糖と塩を間違えただあ!?」
 大声になってしまった。
 いやでもだって。そんなベタな。
 貞淑とした純白の生クリームを見る。
「悪かったね。ベタな間違いを犯して」
 思わず声に出していたようだ。楸瑛のとげを含んだ口調と恨みがましい視線を向けられて、絳攸は反省した。
「まあ、あれだ。うん」
 言葉を濁すしかなかった。そもそもが料理が苦手な絳攸の手に余る問題だ。かといってまさか漫画みたいな間違いに「気にするな。誰にだってミスはある」や完成させる前に気付いたのだから「未遂だ」なんて真面目な顔で肩に手を置いて慰めるなんて、これほズレたやり取りはない。というかおかしい。何がおかしいって、何もかもだ。
 やばい。絳攸は焦った。意識して腹筋に力を込めるが、内側からくすぐられてるんじゃないかと疑いたくなる愉快な波が、沸々と湧き上がってくる。
「せっかく大事なお客さんが来るから、手によりをかけてシュークリームを作ったのに。君の伴侶としての面目が丸つぶれだ! ああもうっ! それにこの生クリームどうするのさ!」
 苛立って頭をガシガシ掻き混ぜる楸瑛に、絳攸はとうとう噴出した。ますます臍を曲げる楸瑛に悪いと思いながら、声をあげて笑った。
 まったく可愛いじゃないか。塩入シュークリームを作りかけるなんて。
 そう思ってしまう自分の思考回路のどうしようもなさに呆れる。呆れるがそれよりも抱きしめたいような愛しさを感じるんだから、これはもう末期だ。根底にあるのが楸瑛への想いなんだから悪くない。悪いはずがない。
 絳攸は愉快な衝動に身を任せて、むくれる楸瑛の肩に手をのせて少し背伸びした。
 額に唇をあてる。
 え、という小さな声と息をのむ音。
 いつも楸瑛がしてるみたいに、間近で顔を合わせて、今はもう瞠目している端正な顔に微笑んだ。
「仏頂面は俺の専売特許なんだろ? 俺は許可した覚えはないぞ」
 ぱちくりと音がしそうな瞬きの後、楸瑛は何とも形容しがたい顔になった。多分いつもと逆の状況に陥っていることに思い至ったのだ。その顔を見て、笑い上戸でもないのに絳攸の笑いの衝動は再び大爆発した。抱腹絶倒していると「何もそんなに笑わなくても」と八の字眉の楸瑛が言うものだから、収まるものも収まらない。火に油を注ぐようなものだ。
 複雑な心境が顔に表れている楸瑛も、とうとうつられて大笑しだす。お互いうずくまりひーひー言いながら、時には肩をたたき合って。キッチンにはけたたましい笑い声がしばらく響いた。
 涙目を開けて絳攸がチラリと時計を確認する。もうすぐランチタイム。体内時計もぴったりで、お腹の空き具合は完璧。来客もそろそろだ。そうなると塩入の生クリームの行く末は――。
「オムレツだ」
「え?」
「オムレツを作るぞ楸瑛。外食はナシだ。元からあちらにも何も言ってないし予約もしてなかったんだ、いいだろう。あのシュークリームを召し上がっていただきたかったが、また今度だ。生クリームを買い直したら俺が食べるから、それも心配するな。シュー生地はどこかに隠しておけ」
 もし見つかったら「案外抜けてて可愛い奴なんです」とでも言う腹積もりは秘密にして、シュー生地の行く末まで保証してやれば、楸瑛がまるでツチノコを発見したみたいに珍妙な顔を、再び向けた。
「確か前にお前がオムレツ作ってくれた時、生クリームを混ぜてただろ。あのオムレツなら塩入生クリームを無駄にせずに済む。ソースは冷凍してあって。あとは……サラダでも作れば十分だろう。今からでも間に合う」
「………」
「何だ? あ、もしかして泡立てた生クリームは使えないのか?」
「え、いや。温めれば溶けるから使えるよ」
「なら準備するぞ。ほら、しっかしろ楸瑛。お前がいなきゃどうにもならない」
 絳攸は態と言葉を選んで楸瑛を喜ばせた。そう、そういう顔をしていればいいんだ、と心の中で呟く。
「――君ってすごいね」
「何だお前今頃気付いたのか? いいからほらやるぞ」
 呆れた口調で腕まくりをしていると、肘を掴まれ引かれた。何すんだ、と文句を言おうと振り返れば、すぐそこに楸瑛の顔。
「忘れ物」
 鮮やかな手早さで絳攸の唇は奪われた。にっこりと笑う楸瑛にしてやられたことを知る。これは絳攸に翻弄されたことへの意趣返しに違いない。そっちがその気なら――。離れていく楸瑛の頭と襟を引っ張って、唇に軽く噛みついてやった。振れた先から楸瑛の驚きが伝わってくる。上目づかいでニヤリと笑えば、見開かれた眼が細まり絳攸の腕をつかむ右手と新たに腰に回された左手に力が込められた。ぐっと真剣みを帯びた顔が接近する。それを手で遮って。引きはがされる前に言ってやった。
「ストップ。もうそろそろいらっしゃる時間だ」
「――ずるい酷い意地悪。弄ぶなんてサイテー」
「オムレツの準備もしなきゃならないだろ」
 渋々ながら離れた楸瑛の耳元に弧を描いた挑戦的な唇を寄せた。
「楽しみは後で、だろ?」
 今度こそ楸瑛は絶句した。続いて穴が開くほど絳攸をまじまじと見つめる。
「君、本当にどうしたの? 熱でもあるのかい?」
「至って健康だ」
「いやおかしい。絶対おかしい。君があんなこと言うはずない」
 両肩に手を置かれ本気で心配された絳攸は密かに己のこれまでの所業を反省した。でもここはすっとぼけて。
「好きな奴に言わずにどうするんだ?」
「―――!」
 ぱっと手が離される。唇を間一門に引き結び、見る間に赤く染まっていく楸瑛の顔。
「楸瑛お前顔あか」
「ま、参りましたっ! 私が悪かったから、もうやめてっ。 ね! でないと本当に我慢できなくなるから! お客さん来るんだから、本当にそれはマズいだろ!」
 悲鳴みたいな声を上げて懇願するものだから、それがまたおかしかったが今度はそれをおくびにも出さず、素直に頷いた。
 それを見届けた楸瑛が、何かを探すふりをして背中を向けた。ぶつぶつと呟かれているのは「盆と正月が一緒に来たようだ」だとか「もしかして私死ぬの? 余命幾何なのか? だから?」とかだ。解りやすい照れ隠しに、絳攸は心から満足した。
 藍楸瑛にこんな顔をさせる人間は――多分絳攸しかいない。その自負がすべてを満たした。
 大事にされるだけの存在になんてなりたくない。こうして対等でいたいのだ。時には喧嘩して、こうして楸瑛を振り回して、笑って。
「ほら作るぞ」
 広い背中をこんと叩いて、絳攸は準備に取り掛かった。
 キッチンの収納から取り出した銀色のボウルをシンクの横に置いく。続いて冷蔵庫に顔を突っ込んで両手に卵を抱える。絳攸は料理は基本的にしない。だから二つを残してボウルの横に転がして、まだ背を向けてる楸瑛に一声かけた。
「オムレツってことは卵を割ればいいんだよな」
 振り向く気配。
 両手に持った卵を高い位置から加速度を付けてボウルのふちに叩きつけようとするのを見て、楸瑛の慌てた声が響いた。
「ああ、ちょっと待った! 力を加減しないと卵が潰れて殻が――」
 ぐしゃり。
 空しく響く音。 続いて襲う静寂。――遅かったという気配。
 半開きにした手を卵で濡らした絳攸は、頭を抱える楸瑛とボウルの間に視線を彷徨わせて。
「うわ、殻が入ったぞ楸瑛!」
「――まったく。またどうして君は片手で割ろうとするかなあ」
「だってお前がいつも軽々とやってるから、簡単だと思うだろっ。どうするんだこれ」
「まずは殻を取って!」
「滑って取りにくい。ああくそっ!」
「ああ、もういいから。君はお湯を作って生クリームを溶かして。あと野菜室からサラダの材料。レタスとキュウリとミニトマトと――ナッツも入れようか」
 ぎゃあぎゃあと騒がしいキッチンは、笑いに満ちていた。



 エレベーターから降りた一組の男女は、回廊にまで僅かに響く騒ぎ声にすぐ気付いたようだ。はちみつ色の髪の毛をした女は傍らの男を見上げる。
「なんだか随分楽しそうだね、黎深」
 男はフン、とつまらなさそうに鼻を鳴らした。そんなそっけない調子にクスクスと笑いながら、騒々しい部屋の前まで来てチャイムを鳴らす。
 ほどなく開いたドアから顔をのぞかせた二人の息子は、活き活きとした顔を見せてくれた。
「黎深様、百合さん! お越しいただいてありがとうございます。 今、オムレツを作りますね」
「あら、ちょうどおなかが空いてたところなの。嬉しいわ」
 それこそふわふわのオムレツのように笑いながら温かく向かいいれて、二人は喜んだ。




2012.7.16