海岸線の向こう――黄昏時の空にその大きな頭を僅かにのぞかせ、ぽっかりと空間を隔てる青い燐光を放つ弧。
 藍楸瑛は白衣を風にたなびかせて、そのひどく美しい光景を見つめた。ヘビースモーカーの彼は、この時ばかりはその麻薬的な効果がなくても静かな興奮を味わうことが出来た。もっともこの星の喫煙エリアはごく限られていて、外で燻らせようものなら謹慎および昇格処分は免れない。
 長身の楸瑛の腰丈程あるぼうぼうとした草むらに車を隠し、度々この海岸へやってくるのは休息と人為を超えた美しさを確認するためだ。
 ザザ、ザザ。
 ザザ、ザザ。
 心地いよい生命の故郷のリズムに耳に傾けながら、母なる星は徐々に昇り海面に反射する面積を大きくしていく。
 地球と月の重力均衡点に浮かぶ星。オーストラリアほどの面積の小さな星には、世界中のありとあらゆる美術品、工芸品、動植物が集められ博物館として機能している。
 女神の名を冠された博物館アフロディーテ。楸瑛はそこの学芸員の一人だ。
 ――絳攸。
 声には出さず、そっと頭の中で呼びかけた。
 ――はい。
 静かな水面のような声に楸瑛は満足した。
 ――ほら、あの音楽。なんて言ったっけ? ラーラーラーってやつ。
 ――検索を開始します。
 芸術品の研究というのはかなり骨が折れる作業だ。莫大な資料を昼夜を問わず漁っても、報告書には一行ほどの成果にしかならないなんてことはよくある。その解釈が間違っている可能性は少なからず存在し、実際そういった実績もある。そしてアフロディーテの学芸員たちは、解釈の書き換え――それまで定説だったものを覆す証明を幾度となくやってのけた。
 その秘密が直接検索にある。
 脳内の言葉にはならない曖昧なイメージ、例えば長い曲の一説だったり、色だったり、ぼやけた形だったりをそのまま検索にかけられる、学芸員の脳内と直結した直接検索を可能とした。インスピレーションの一瞬の光を拾い上げることが出来るのだ。全く関係がないと思われていたものの関係性を見つけることなどにも役立つ。
 導入されたのは、十年前。現在のヴァージョンは7.80。楸瑛が使用しているのはそれより数世代前のものだ。一度直接接続者になれば、ヴァージョンアップが出来ないのが目下の課題点。次々新しいものが開発されれば、旧ヴァージョンを使用している学芸員たちの居場所が危うくなってくる。そこは経験や感性で補うしかないのだが。
 記憶の女神であるムネーモシュネーというのがこの直接検索のデータベースの名前だ。
 ゆるりとピアノの音色が頭の中に響いた。
 ――違う、それじゃない。
 次はフルート。
 ――次。
 そうして何回度か同じやり取りを繰り返して、楸瑛は思い描いた音楽を見つけた。
 ――ありがとう絳攸。
 このデータベースを絳攸と呼ぶのは楸瑛しかいない。公の場では楸瑛はムネーモシュネーで統一している。つまり、絳攸は楸瑛しか知らない楸瑛だけの名前だ。
 それは直接接続者の試験に受かり、手術を受けたすぐ後だった。
 ――君の名前は?
 そう脳内に訊いた。
 ――ムネーモシュネーです。
 ――そうじゃなくて…。君に個人の名前ってないの?
 ――それは検索を必要としますか。
 楸瑛は頷いた。その意思がこのシステムにも伝わり、表層意識と潜在意識を攫って行く。
 ――絳攸。李絳攸。
 その名を耳にして、楸瑛は眼を見開いた。その後くしゃりと笑った。
 ――そうか。では君のことは絳攸、と呼ぼう。
 ――了解しました。
 それ以来、絳攸は楸瑛だけのものになった。

 ザザ、ザザ、ザザ。
 ふんわりとした海風が頬を撫でる。
 ここの住人は基本的に博物館関係の者たちだけだ。彼らは便宜上地球のことを下と呼ぶ。
 楸瑛がまだ下で学芸員コースを勉強していた時だった。彼に初めて会ったのは。
 同じ学芸員コースで学ぶ学生だった。誰よりも真面目で、誰よりも博識で。芸術を心から愛していた。楸瑛は彼惹かれ、話しかけたのはいつだったか。
 芸術談義に夢中になって白み始めた空を、濃い隈取で迎えたのは何回あったか。
 うざったそうな顔を四六時中貼り付けている彼が時々笑って、それを見るのが楸瑛は好きだった。
 でも彼はいなくなった。突然。楸瑛になんの言葉もなく。
 学芸員コースを修了した楸瑛は、アフロディーテの採用試験にも見事合格し、現在学芸員として自ら望んだ立場を得ている。でも、あれ以来楸瑛の心には、この海面に浮かぶ地球の影みたいにぽっかりと穴が開いていた。
 直接接続者になるまでは。
 初めて質問した時、ムネーモシュネーが読んだ楸瑛の意識は、彼自身捕えきれていない部分をはっきりと示していた。
 このシステムの存在を知って、楸瑛が無意識に思い浮かべたのは絳攸だったのだ。
 関連していると思わないものを結びつける、研究員たちの強い味方。
 あの誰よりも頭がよかった彼は、このデータベースの開発にかかわっているんじゃないか、と一瞬でも考えてしまった。機密事項なので権限Aクラスの楸瑛でも調べられないが、それがかえって強く確信を抱かせている。
 ――楸瑛。
 絳攸に呼ばれた。
 ――何?
 ――所長が呼んでいます。これよりメッセージを再生します。おい楸瑛、サボるなんていい度胸してやがるな。首を飛ばされたくなかったら大至急部屋に来やがれ!
 後半は所長の野太い声に変って、楸瑛は効果がないのに片耳を塞いだ。
 ――二十分以内に参ります。私が辞めたら困るのはあなたでしょう。前任者は六か月、前前任者は三か月、前前前任者はえーっと三日だったそうじゃないですか。過去には翌日来なかった人もいるって聞いてます。そう返しておいて。
 ――その半分の時間で来やがれ。夏休みとボーナス出さないぞ! もし返信があった場合こう返しておけ、と申されました。
 楸瑛は頭を抱えた。ボーナスは結構どうでもいいが、休みは欲しい。溜息一つをこぼして、海に背を向ける。仕事がらみの連絡から逃れられない直接接続者の悲しい運命だ。
 ――新しいメッセージが届きました。
 全く聞きたくなかったが、続けて、と楸瑛は伝えた。
 ――優しい上司様が一つ教えておいてやる。お前に面会を求めているお偉いさんが到着するのは十分後だ。遅刻して機嫌損ねるようなことがあれば、どうなるか解らねえ。
 車に鍵を差し込み、エンジンをふかす。
 ――そのお方はムネーモシュネーの研究者だから、機嫌を取っておいた方が賢明だ。名前は――。

 次の瞬間楸瑛はアクセルを思いっきり踏んだ。




2012.7.29