飛び級に飛び級を重ね大学院を卒業した後、一般企業に数年務めてそこで実体を伴わない好景気と夢から覚めたような「空前の」と形容詞が躍った不況を経験した。日本の歴史には過去、バブル景気というのがあって似ていると何度もニュースで取り上げられた。 倒産する会社の数はタンジェントが描くグラフ的で、大幅人員削減により失業率は二桁に達し人々から笑顔が消えてから久しい。 業績がよかった時に企業が買いあさった美術品は、借入返済の担保となり銀行に流れたが、今はもう買われた時の価格の半分もない。焦げ付いたそれに銀行は困惑していた。いや、買い手がつかないそれに迷惑しているのを、李絳攸は知っている。梱包された美術品を運び出す白い手袋をした彼らは、まるで汚らしい物を見るかのような眼をそれらに向けた。 その中には、絳攸が小学校の時教科書で見て「きれいな色だ」と眼を奪われた絵があった。絳攸があこがれた楽器があった。絳攸が研究したいと望んだ植物も、きっとどこかでぞんざいに扱われているに違いない。 人は過去から何を学ぶのか――。 絳攸は会社帰りにふと空を見上げた。 疲れが蔓延している街ではどうやら空も淀んでいるらしい。雲に隠れ星は何億光年という気の遠くなる長旅の末、とうとう光を届ける機会に恵まれなかった。 歩道を渡ろうとした時、信号無視をした車が猛スピードで突っ込んできた。驚いて身を引けば、何か光を眼の端がキャッチした。 首をひねりながら顔を上げれば――。 暗く重たい空に浮ぶまあるい球体。 月――ではない。それよりもやや大きい。 ――ああ、こんなに近くにあったのか。 子供のころはよく指差した天体なのに、うっすらと光を届けるそれは新鮮だった。ずいぶん長いこと空を見るなんてことをしていなかったことに、この時気付いた。 アフロディーテ。 月と地球の重力均衡点に浮かぶ星には、女神の名前を冠された博物館がある。世界中のありとあらゆる美術品や動植物を収集し展示している。 好景気の時は休日返上の超過勤務を誰もがしていたから、絳攸はまだ見たことがない。一日じゃとても見回ることが出来ないコレクション。権威の象徴とか、資産運用だとか。そんな人の手から逃れるように、宙へ送らた芸術の宝庫。 ――行ってみたいな。 そう思った。 翌日絳攸は辞表を提出し、元から仕事なんてなかったから昼に退社し、その足で大学の学芸員コースに申し込んだ。 それから数日後。最後の給料には、どうにか初任給と同じくらいの給金と、スズメの涙ほどの退職金が振り込まれていた。業績不振に陥ったにしてはなかなかのものだというのが通帳と向き合った時の感想だった。幸い忙しい時には高給をもらっても使う暇がない。ゼロの数を数えて絳攸はまあなんとかなるだろう、と暢気に構えた。 |
2012.7.31 |