「つまり君は楽に進める道を選ばず、仕事を辞めてまで堕ちてきたわけだ。酔狂だね」 「堕ちる?」 「芸術に潜む魔力にだよ。でなければこのご時世、自分から無職になろうなんて思わないだろう」 酷く整った顔の男がわざとらしく快活に笑うのと同時に、講義開始のベルが鳴った。教授が入室するまでおしゃべりは続く。うざったいことこの上ないが、この男の発想は好きだ。絳攸にない物を持っているから。 芸術の魔力に堕ちた――。なるほどな、と絳攸はこの時も思った。 いつの間にか並んで座るようになった――付きまとうようになった男の名は藍楸瑛。言葉を借りるなら絳攸と同じく酔狂だ。 海外の大学を卒業しそのまま向こうの世界的企業に就職。実力社会のピラミッドをどかどかと駆け上り、将来を約束されていたのにある日突然辞表を突きだしたらしい。ライバル会社に引き抜かれたかと騒がれたが、実際誰もが名前を知るような数々の企業から打診はあっても首を横に振り続け、家財を一切売り飛ばしバックパック一つ抱えて世界中を渡り歩いた無謀と言う名の強者だ。三桁目前の何十か国目でふと「あそこにはまだ行ってない」とアフロディーテがある星を見上げて、思ったらしい。 職がない時に自ら会社を辞めた絳攸と、誰もが望む地位に手が届く場所にいながらそれをけった楸瑛。その理由が「アフロディーテに行ってみたい」だから酔狂と一括りにできた。 大きな壺を持った小柄な教授が入室する。示し合わせたように止む会話。お決まりのあいさつと出欠確認。 きっとこの広い講義室でそんな理由でこの席に座っている人間は、楸瑛と絳攸くらいしかいないだろう。芸術とは真摯に向き合っているが、どうしても学芸員になりたいというわけではない。アフロディーテに行くなら学芸員の方が何かと便利だろうというくらいの軽い気持ちだ。 「ねえねえ」 小さな声で楸瑛が話しかけてくる。全身もふもふした羽教授の講義は古今東西の民話や神話に通じ、それがどう芸術に影響しているかを説くのがとても興味深い。機械化が進む芸術研究だが、彼こそが学芸員の手本だと絳攸は思っている。機械による年代測定や成分分析の意義はわかるが、機械の操作方法と点と点を結びつける作業は違う。また弾き出された数値が調べる人間の側にある種の限定を与えてしまうこともある。年代が違うからこの解釈はあり得ない、付着した泥に含まれるミネラルの成分がある地方に特有の結晶が見られるため、君の解釈は間違っている。――果たして本当にそうだろうか。 一瞬のインスピレーション。刺激される記憶。それは機械では到底なしえない成果を与えてくれる。 だから機械化の流れに逆らうように、素養を増やす講義をする羽教授のスタイルが絳攸は好きだ。黄昏のような声で紡がれるそれこそ物語のような講義に集中していたいのに、邪魔が入って絳攸は不機嫌になった。 「ごめん、君がこの教授の講義が好きなのは知ってる」 男が気付いていることに、絳攸は驚いた。 「柴先生の課題、どう?」 柴先生というのはこの大学の臨時講師をしている女性で、アフロディーテの学芸員でもある。もっとも「私は学芸員というより研究員だろうな」と言うのが口癖で、実験器具の開発などを行っている学芸員の中でも変わり種だ。 柴先生は授業初日に白衣をはためかせて「この授業のプロジェクトはたった一つだ。君たちがこれまで学んできたすべての知識、知恵を何か一つの形にまとめてほしい。形式は問わない。複数で行ってもかなわない」と凛々しく宣言した。その後「この授業だけの卒業論文だとか卒業制作だと思ってくれていい」と付け加えた。 楸瑛が課題と言っているのはそのことだ。プロジェクトの中間報告書の提出期限は、明日。 今聞くことではないだろうと思いながら絳攸は小さく頷いた。ついでに「もう出した」と付け加えると、楸瑛はこれまたわざとらしく眼を真ん丸にした。 「え、なにそれ。君と共同研究にしようと思ってたのに」 絳攸は呆れてしばらくものが言えなかった。そんな相談一度も持ちかけられたことがないのに、当たり前のように言われてもどうすることもできない。それに提出期限ぎりぎりに言い出すとは。 「お前馬鹿だろ」 しみじみと言えば「まあ私も酔狂だから」としれっとした顔で返された。 「李絳攸殿」 突然の指名。 モフモフの白い毛に隠れがちな英知を湛えた瞳が絳攸を映していた。癒し系だからって油断大敵。羽教授はやる気のあるものに対しては優しいが、中途半端な姿勢には厳しい。 「あなたの解釈をお聞かせ願えませんか?」 「はい」 絳攸は慌てることなくすっと立ち上がって、淀みなく言った。 「今、私の意見を隣に座っている藍楸瑛さんに聞いてもらっていたところです。そこで彼も同じ意見を抱いていることが確認できました。また彼の方がより深い考察をしているため、私に変わり彼が説明します」 楸瑛の肩に手を置く。え、という顔をした楸瑛ににっこりと笑いかけて。 「頼んだぞ楸瑛」 「ちょ!」 焦った楸瑛が机に膝をぶつけて、ゴン、と鈍い音が響く。一拍後弾けるような爆笑が広い講義室を包んだ。 何もかも当然の報いだ。 打ち所が悪かったのか、歯を食いしばる楸瑛のつむじに冷ややかな視線をくれてやった。 |
2012.7.31 |