その日の午後、絳攸は学長室に呼ばれた。 廊下を歩いていたら後方から珍獣でも見つけたような素っ頓狂な声が聴こえて、振り返れば大学のスタッフが絳攸を指差していた。周りの生徒が目を丸くしている。 ちょっと待て俺は珍獣じゃない、と思ったが言葉に出る前にスタッフに腕を取られ「ちょっと来て」とずんずんと引きずられて、学長室の扉まで連れてこられていた。 訳も解らない絳攸に、黒縁眼鏡をした女性のスタッフは「くれぐれも中のお方には失礼のないようにふるまいなさい」と三歳児に言いきかせるように、人差し指を立てて迫った。羽教授の遠縁にあたる女性は、あの癒し系オーラを受け継がなかったらしい。殺気だって妙な迫力があり、「いいわね」と念をされた絳攸は押し切られるようにして首をカクンと縦に振った。それを見て満足そうに彼女は笑い、木製の扉をノックした。 「珠翠です。李絳攸を連れてまいりました」 「入りなさい」 珠翠は扉を開き、絳攸を促した。絨毯が敷いてあるんだな、とどうでもいいことを思った。一歩二歩と足を踏み入れる。 革張りのソファ、一枚板でできた木製の机、細い車輪、黒のヒール。 顔を上げれば白衣を着ていない柴先生と、車椅子に座った見たことがない優しげな男性が絳攸を見つめていた。 「李絳攸君かね?」 彼らの向かい側に座るパンフレットや学内誌と入学式でしか見たことがない学長が、まるで棺桶から出てきた直後みたいなゾンビさながらの凶相を絳攸に向ける。 「ええ」 「柴凛講師は君も知っているだろう。隣の御仁は」 「鄭悠舜です。私も彼女と同じアフロディーテの職員です」 キョンシー学長の言葉を遮って、男は言った。 「この身体ですから礼儀を欠くことをお許しください」 絳攸が答えあぐねていると、お座りになってください、と悠舜は向かいのソファを示した。扉付近で棒立ちになっていた絳攸は、言葉に従いソファに腰掛ける。程よく体が沈む上等な座り心地だ。 「先日君は私の授業のプロジェクトの中間報告を提出しただろう? デッドライン前に仕上げるなんてなかなか出来ない。早速読ませてもらった」 柴先生が言った。 「それが何か?」 「正直驚いた。こんなことが可能なのか、と。君が同時に提出したモデル機器も君自身が指摘する問題点があるにしろ、なかなか興味深い。一学生が作るにしては技術や費用が随分大がかりだという印象を受けたが、まさか君の家に研究室があるのか?」 「いいえ。恩師に頼み込んで大学の研究施設を使わせてもらいました」 費用についてはスズメの涙ほどの退職金プラスアルファが消えただけだが、これは黙っておいた。 正直絳攸にはまだ話が読めていない。研究内容についての詳細が知りたいのなら、学長室に呼ばれた理由は説明できない。 「なるほど。もしや誰かの研究結果を盗んだか、とまで疑ったが。念のために訊くが気を悪くしないでほしい。やったか?」 「――こんな酔狂なことを考える人間が私以外にいるなら、共同研究を申し込んだでしょう。そのほうが手間も出費も省けます」 一瞬楸瑛の顔が頭に浮かんだ。酔狂。なるほど、いろんな場面で使える便利な言葉だ。 「それを聞いて安心した。正直、君の研究は私の手には余ると判断した。そこで悠舜殿に相談したんだ」 「私の専門分野外なので、まるで宇宙人と会話している気分でした。ですが確かに君の研究の持つ可能性は無限の広がりを持っていることを感じました」 「絳攸殿、卒業予定は?」 「単位を落とさなければ今年の夏です」 「では来学期で終わりということか。どの授業を履修する予定だ?」 絳攸は指を折りながら答えた。 「なら通信教育で単位取得可能だな、学長?」 是、と短い返答。 絳攸はいよいよ戸惑った。もしかして、という予想とそんなまさかという否定を表情には一切出さずに繰り返す。 「単刀直入言おう。アフロディーテの上層部は君の研究内容に興味を持った」 悠舜が言葉を継ぐ。 「あなたの研究がもたらす効果は計り知れない。私たちは一日も早く実用化できるようバックアップしたいと考えてます」 ――それはつまり。 「李絳攸殿。あなたにアフロディーテのスタッフになっていただきたい。――了承していただけたら、このプロジェクトリーダーはあなたです。私たちのほうがあなたに引っ張ってもらうことになるでしょう」 その時脳裏をよぎったのは楸瑛の言葉だった。 ――芸術に潜む魔力。 それに堕ちた。 こうして絳攸は、一足早く彼の星の空気に触れることになった。 誰にも別れを告げる時間などなく。慌ただしく移住し、支給された白衣をまとって散策中。海面から顔をのぞかせる青い星を見た時、ふと何か切なさがこみ上げた。 後に記憶の女神の名が冠される直接接続の研究が、この時アフロディーテで秘密裏に開始された。 |
2012.7.31 |