ジジ、ジジ、と微かな音を響かせ、呼応して影が大きく小さく、太く細く揺れる。そして漆黒が舞い降りた。 ――暗い。 藍楸瑛は杯を干しながら、卓上に置かれた小型の玻璃製の洋灯にチラリと眼を遣る。火が落ちていた。 油が切れたのだろう。 楸瑛はそう思った。 それもそのはず、何しろ李絳攸と飲むと長い。この日も燃えるような夕陽を望み、「去りゆく夏を偲んで」と戯言を零し、喉を潤したのが初めか。今はとっぷりと濃紺と薄灰に染まった昊、その天頂高くに月が輝いている。洒落てはいるが小型の行燈に、油を満たしたところで高が知れているというもの。 それにしても暗い。 悍ましいほど肉感的な紅に染まった昊が、徐々に黄昏の薄闇に変貌を遂げる様子を楽しもうと、その小さな燭を残し、全ての照明に火を入れなかった。やがてそれも途絶えたため訪れた紗がかかったような視界にも、楸瑛は直ぐに慣れた。 結局のところ暗闇も悪いものではないのだ。陽光の中では到底気付き得ない艶が、夜にはある。楸瑛はそれが好きだ。 時は深更。否、未明。 人々は寝静まり、遊興を誇る人物でさえ片足を夢へと突っ込む刻限。闇夜は獣と化け物の世界と相場が決まってるというのに。 はてさて。ならば酒に興じる人間二人と化け物たち、どちらが上等か。 確かなのは渦巻く欲望と謀略に、身を置いていること。 楸瑛は腹の底から愉快な気分になった。 同時に晩夏の夜だというのに熱気を多分に含んだ大気が、長い髪や顔にまとわりつき、なんとも気怠くさせた。 コクリと喉が大きく上下し、熱い液体が胃に溜まる。ただでさえ暑いというのに、さらに身体を火照らせようとしているのだから全くどうしようもない。笑いを噛みしめるように再び杯を干し、ふう、と酒気交じりの息を態と盛大に吐き出せば、対の席から不機嫌な低音が上がった。 「おい、楸瑛」 李絳攸だ。左手に顔を預け、同じく倦怠感を含んだ瞳はその酒量のせいかどこか虚なまま、見上げてくる。 楸瑛は微笑を返した。もっともこの暗闇だ。見えているか疑問だが、例え見えていなくても一向に構わない。 国試からの知った仲。言葉を借りれば腐れ縁。礼儀もなにも今更ない。酒が入れば尚のこと。 ――だが。 楸瑛はその切れ長の漆黒を、獲物に対峙した獣のように細めた。 いつでも寝れるようにと二人は湯浴みを疾うに済ませてあった。絳攸は薄い夜着の襟ぐりを、早々に「暑い」と言って寛がせ、胸元を肌蹴させている。熱気と酒で唇まで紅くし、上目遣いの瞳は濡れているのが妖艶で、本物の化け物ならば舌舐めずりをしたことだろう。 ――目に毒だからこそ、楽しい眺め。厄介なほど癖になる。 果たして気付いてやっているのか。浮かぶ否定。湧き上がる渇望を呑み込むのは、楸瑛の意思をもってすればまだ可能だ。 「――暗い。お前の屋敷だろ。何とかしろ」 投げ遣りで直截的な物言いが可笑しくて、楸瑛はさらに口角を上げた。 「そう? 私には問題ないよ。君の姿がよく見える」 「誰もお前の意見など聞いてない。あいにくと文官は夜間訓練なんていうものがなくてな。夜目は利かないんだ。覚えておけ」 「冗談を。吏部侍郎は火も入れずに仕事に没頭しているともっぱらの噂だよ。それに証拠がある。実際陽が落ちたのにも気付かずに、君が小さな文字を追っている現場に何度立ち会ったことか。説得力というものがまるでないね」 遠くを彷徨っていた水晶玉の焦点が、瞬時に合わさり楸瑛を鋭く射抜いた。――ゾクゾクする。その瞬間、楸瑛は酔っているのだと悟った。――まだ早い。気を紛らわせるために、次の言葉を予想する。そう。吏部では――。 「吏部では灯りの一つや二つ気にしてたら仕事にならん」 大当たりに声を上げて笑った。訝った絳攸がいつまでも続くそれに舌打ちした。 「のらりくらりとしやがって。相変わらず不愉快な奴だ」 馬鹿にされたとでも思ったのだろう。吐き捨てるように言われればますます怒りたくなるというもの。いくら忠告しようともそこらへんの心理を全く理解しようとしないだから、絳攸には付けこまれても文句を言う資格はない。どうしても手に入れたいものを手中に収めるために、容赦をする優しさなど楸瑛は持ち合わせていない。 「もしかして君、暗闇が苦手? 怖いのかい? 手でも握ってあげようか?」 「そんわけあるか!」 「――なら月明かりがある。夜目が利かずとも、そろそろ慣れてきただろう?」 穏やかに言えば、勢いを失った絳攸のぐう、と変な声が上った。 「屋敷の主人として言わせてもらう。君と私の仲だし、今更変な気遣いは無用だろうから。こんな時間に家人を起こして騒ぎ立てるのは忍びない。どのみち明日になれば彼らは惨状に頭を悩ませることになるだろう」 床にゴロゴロと転がる空の酒瓶を言外に示せば、絳攸には黙るしかないことを見越しての言葉だ。 絳攸と深酒する時は、酒と酒肴を初めに運ばせた後、家人を寄せ付けないようにしている。誰にも気兼ねしないで過ごせるからだ。 その代り空けた酒瓶は溜まるし、喧嘩をすれば皿の一枚二枚は割れ、振りかけられた酒がポタポタと絨毯に沁みをつくることもある。その厄災はすべて家人に降りかかる。申し訳なくは思いつつも、改める気はない。 以前高価な皿を割った時はひどかった。上がった悲鳴に賊かと思い肌蹴た夜着のまま、剣を持って駆けつければ、俯いた顔を蒼白にした侍女が手にしていたのは、割れた皿で。集まる家人と、彼女の手元を見て驚き戸惑う声が上がる。遅れて現れた、楸瑛同様夜着姿の絳攸。彼女が割ったのでは、という緊張が高まる中白状すれば、侍女たちを取り仕切る老婆に大目玉を喰らったことは、記憶の中に鮮烈に刻み込まれている。絳攸ともども正座で延々と説教を聞かされ、朝食を食べ損ねた。それ以来、実は紅家の御曹司様との酒宴用にと、比較的安価な食器類が屋敷に揃えられるようになっていた。 「せめてそれまでは彼らを休ませてやってくれないかい?」 苦々しい顔は楸瑛へ向けた振りのようなもので、その実了解していることが伝わった。 白い手がやや頼りなげに彷徨いながら行き着いたのは、酒瓶で。あ、と思った瞬間には、強い酒気が充満し、同時に短い悲鳴が上がった。 行き場をなくした指先からポタポタと垂れる滴。楸瑛は手を取って迷わずそれを口に含んだ。ピクリと細長い物体が蠢くのを口内で感じながら、絳攸の意識を末端に集中させるようにことさらゆっくりと舐め上げる。強く引かれる手を押さえつけ、付け根から舌を這わせ逃げ惑う指に絡ませる。焦れるほど丹念に繰り返し、仕上げとばかりに爪を甘く噛めば、は、と頭上で息を呑む音。 「や、めろ…!」 立ち上がった絳攸の力を押さえつけ、より深く咥え込み何度も舐め上げ甘噛みする。 指や爪への刺激が快楽を徐々に高め、じれったさを蓄積させることを、絳攸は身を以て感じているに違いない。喉の奥で嗤えば、不意に反発する力が抜け、咥内深くに差し込まれた。楸瑛の舌に絡みつくように意志を持って動き出す。絳攸を見れば、感情を殺した冷徹な顔で見下ろしていた。作戦を変更したらしい。 欲を孕んだ瞳がこの暗闇に隠れるとでも思っているのだろうか。もその眼に隠しきれない熱がある限り、楸瑛を駆り立てるだけだというのに。そんな快楽に耐えるような顔をされて、やめらようはずがない。 攻めたてる側だったのにこれでは形勢逆転。口の中で動き回る指を追いかけ、捕え、翻弄され――。楸瑛の熱も自然と高まった。 「楽しいか?」 「ああ、楽しいよ」 水音が響く。 指をしゃぶりあげれば、絳攸の肩の震えが舌先に伝わった。眉を顰め、唇を噛みしめる姿に満足し、指先に口付た。熱い吐息は二人分。 「搦め手で落とそうとするのが気に入らないな」 「おや、快楽を弱点と認めるのかい? 情熱的だ」 「――お前は違うのか?」 唇をなぞる人差し指の感覚に、背筋がゾクリとした。そのまま食もうとするが、指で弾かれ敵わない。絳攸は捕らわれていない手で、楸瑛の髪の毛をクシャリと混ぜ、嘲笑を浮かべた。 「色恋沙汰に通じてらっしゃる藍将軍が、こんな手しか取れないなんて随分情けない」 「謀略なんてそんなものだよ、李吏部侍郎。特に絶対に落とさなければならない戦に対しては、ね。容赦はしない。折しも偶然は私に味方した。降伏を申し出るなら紳士的に扱うと約束しよう」 手首を指の腹で官能的に撫でれば、とうとう繋ぎとめていた手が払われた。 「ではその策に穴があったとしたら。果たしてどうする?」 「聞き捨てならないね。私が策に溺れるとでも言いたいのかい?」 「楸瑛」 絳攸の声質が突然昼間のものへと変わった。 「これ、高価なものか?」 皿を手にしてその表裏を確認している。 脈絡のない話題の転換は絳攸と話しているとよくあることなのだが、雰囲気が変わったことに虚を突かれ、内心穏やか成らざるのを隠して調子を合わせた。 「いいや。あれ以来うちの家人も懲りただろうから、それはないと思うよ。その皿がどうかした?」 ふうん、と興味なさげな生返事が上がったと思ったら。 ひゅ、と頬の横を風が通り過ぎた。続いて響くガシャンと派手な音。 一瞬の意識の空白の後、楸瑛の頬を生暖かい酒気が掠めた。 恐ろしいほど近くに紫煙を溶かした瞳がある。覆いかぶさるような体勢で、絳攸が迫っていた。 太腿に置かれた手の重みと、椅子に乗り上げた絳攸の膝と接触している部分に熱が集まり、どうにも気になる。 緊張している? そんなまさかと否定したくても出来ない緊迫感があるのが事実で。 顔を少し傾ければ唇が触れ合う距離なのに、それを押しとどめる努力は心をチリチリ焦がした。 柔らかく頬を撫でられれば、先の戯れとこの張り詰めた状況で鋭くなった感覚を刺激され、くすぐったさが官能を生み出す。 「――こんなことしてただで済むと思っているのかい?」 「だとしたら、どうなんだ?」 珍しく硬質な低音と、それを追って発せられる侮蔑を含む声。 だとしたら――。楸瑛も絳攸の頬へ手を伸ばす。 暗闇の中で絳攸の瞳が光っている。欲に濡れて、鈍い光を宿している。それが楸瑛の理性を焼き尽くそうとしているのに、気付きもせずにそんなことを言うのか。 だとしたら。だとしたら――。 「君はどうしようもなく愚かだ」 楸瑛の顔から笑みが消えた。代わりに絳攸は鮮やかに微笑んで見せた。 「違うな」 一変して低く鋭い声が落ち、眼光が真っ直ぐに楸瑛を射抜く。 「愚かなのはお前だ、楸瑛」 そうして楸瑛の呼吸が奪われた。 驚いたのは一瞬で、グイと絳攸を引き寄せる。酒で湿った唇は甘く脳をしびれさせ、舌で突けば簡単に侵入を許す。咥内はとろけるように熱くそれが楸瑛を夢中にさせ、口付にのめり込んだ。舌を絡めれば、威勢がいい割にくぐもった声と合間の荒い呼吸が余裕のなさを示しているようで、楸瑛は存分に煽られる。 「楸瑛様、どうかなさいましたか?」 部屋の外から控えめな声が上がった。静まり返った夜中にあれだけの大音量だ。家人が駆け付けたのだろう。離れがたい甘い感触を惜しみながら舌先や眼で中断の意を伝えるが、銀の睫毛が持ち上がることはなく、突っぱねられ、より積極的に絡んでくるから堪ったものではない。拙さを感じられるのが、また楸瑛を刺激する。 ――態と、なのだ。溺れそうになる。快楽が搦め手とはよく言ったものだ。 コンコン、と叩かれる扉。これ以上は拙い。楸瑛にはこういった行為を他人に見せる趣味はないから、半ば自棄になって理性をかき集め、力づくで絳攸の肩を掴み、身体を離した。瞬間糸を引いた唾液が切れてなくなった。 不満顔の絳攸が噛みついてこようとするのを押しとどめ、焦りが声に表れないよう注意した。 「なんでもない。各自持ち場へ戻れ――」 再びどちらともなく激しく貪り合う。廊下の気配を気にする暇などないが、何もないからきっと去ったのだろう。いつもの喧嘩だ、やれやれ明日の朝は骨が折れる、などとため息交じりに思われたのかもしれない。 途中から絳攸の力が抜けるのが伝わり、膝の上に抱き上げさらに深めると、一気に酔いが回った。 布ずれ。荒い息遣い。喉が鳴る。短く漏れる甘い声。 くらりくらりと。すべてが眩暈を起こすほど、楸瑛を捕えて離さない。 途中の大きな合間で、絳攸は吐き捨てた。 「指なんかで満足できるか」 薄い胸を上下させて吐き出す呼吸は熱い。グイと濡れた口を拭った。肩に置かれた手ともども小刻みに震えている。激しい口付の後で指一本動かすのも億劫に違いないのに、平素通りに振る舞おうとする自制心に半ば呆れ、そして感心した。 ――その意志の強さが好きだと言ったなら、果たしてどんな顔をするだろうか。 真意が見えない戯れは、楽で誤魔化しが利くが刹那的で、虚しい。 絳攸は楸瑛の下ろした黒髪を弄んだ。 ふとした間に、眼だけはやけに真剣にして。 「俺はお前が欲しい」 楸瑛は心底驚き、瞠目した。 その言葉を示すように、悪い手が楸瑛の衣の合わせを割る。ツと指が滑り落ち、心臓の上で止まる。ドクドクと心音が耳に響く。下半身に血液が急速に集まり、身体が燃えるように疼いた。爆発しそうな衝動を抑えるだけで、頭がどうにかなりそうだ。 「お前も俺が欲しいと言え。そしたらくれてやる」 「どういう、こと、だい?」 滑稽なほど声は震え、擦れる。 「解らないのか?」 「解らない」 「何がどう解らないんだ?」 「何もかも」 「お前の常春頭も存外大したことないな」 絳攸はくつくつと肩を揺らしていたのを不意に止め。 「お前を愛してる」 ――だから欲しいならくれてやる。 絳攸は真っ直ぐに言い切った。 訪れたのは水を打ったような静寂。 もともと楸瑛はこの日、絳攸を手に入れようとしていた。そもそも楸瑛の方が酒が強い。酔わせて戯れから、搦め手で引き返せない一線を越えて。決して褒められた行為ではないが、欲しい物を手に入れるのに容赦などしてられない。それほど強く求めていた。 果たして真意はいかに。戯れが過ぎれば、全ては曖昧で――。 「どうした? 欲しくないのか?」 誘われて手を出しあぐねるなど、どういうことだ。快楽で縛り付け、雁字搦めにしてしまおうと思っていたのに。 これではまるで――。まるで何だというのだ。 ふ、と絳攸が空気を震わせた。 「冗談だ」 絳攸は本気にしたか、と意地悪く笑って立ち上がる。少し距離を取りそれまで胸に留まっていた手がトン、と軽く楸瑛を押した。それが嘲笑っているようで。 激情が楸瑛を襲った。 先ほどまでの欲望の熱に浮かされたような色が、絳攸の瞳からまるで夢のようにすっかり消えているのも気に食わない。楸瑛は舌打ちした。 ――全く性質が悪い。 そうして楸瑛の余裕を奪うのだ。 欲しいに決まっている。ここまで張り詰めた熱と飢えは、それ以外に説明できない。 さんざん煽られて、焦らされて。ここで素直にそうですかなんて馬鹿な話はない。凶暴化する内心でそう吐き捨てながら、楸瑛を押した手を捕え、容赦なく引く。絳攸の身体を力任せに抱き寄せた。転ぶようにして半分馬乗りになった絳攸の咥内を、有無を言わせず貪る。 楸瑛は細見の身体をまさぐった。 跳ねるそれを満足いくまで楽しむには、ギリギリの理性。いや、足りないほど煽られている。 触れてる部分は火照り、密着した下肢には確かに血液が集中している。逃げるどころか身体を押し付けて隠そうともしない。僅かに体を浮かせて絳攸の背を机に押し付けた。ガシャン、ガシャンと立て続けに何かが割れる音。皿か杯か灯籠か。ああきっと明日も怒られる。老婆の顰め面が脳裏に浮かび、それもすぐに消えた。快楽の前に掻き消された。 酔ってるせいか全身熱いのが悪い。口内はとろけるようで、手を滑らせれば抑えきれない反応が返ってきた。そして間合いの呼吸も熱くて、欲望が前面に押し出され、思考は鈍く感覚は研ぎ澄まされる。 濡れた呼吸を繰り返しながら、ふと楸瑛は思いついた。 「もしかして君、本当は夜目が効くんじゃない?」 「さあな」 鮮やかな笑顔はいっそ妖艶で。 楸瑛はこの日、絳攸を手に入れようとしていた。曖昧のまま、身体を喰らおうと思っていた。 なのに絳攸はそれを許さない。本気を曝け出せ、心まで囚われてしまったのは、楸瑛のほうだ。くれてやると言った絳攸にすべて持っていかれた。くそ、と思ったがひどく愉快で。 「あれは偶然だ。状況を利用したのは同じだろ。それに言っておくが先に仕掛けたのはお前だからな」 違いない。楸瑛は笑った。 そういえば伝えていなかったと気付き、唇を優しく啄ませて一言。 「愛してるよ」 その柔らかい声質とは裏腹に、楸瑛は白い喉に噛みついた。 舌を首に這わせれば、面白いほど身体は正直で、上気する肌に眼を細める。 「熱い」 「ああ、熱いね」 この熱が気になるのならば、気にならなくすればいいだけのこと。 「――もっと熱を」 果たして初めに求めたのはどちらか。 暗闇の中、白い手が黒髪の頭を勢いよく引き寄せた。 夜明けは近い。だが明るくなるまであと数刻。時間は十分にある。 |
2012.9.17 |