どうしてこうなった、とぐるぐると疑問が頭の中で渦巻く。もう何周したかわからない。距離にしたら地球一周ぶんくらいにはなるかもしれない。いや、なるだろう。 がやがやと煩い店内は昼過ぎなのに客が多く、効きすぎの冷房のせいで冬結露した窓ガラスみたいに、冷や汗がでる。 ソースまできれいに平らげたイチゴパフェを、ウェイトレスが「下げてもよろしいですか?」と断り、操り人形のようにカクンと首を上下させた。 「追加で何か注文しようか?」 対面する男が訊く。傍らのエスプレッソから漂う甘い香りがますます嫌味ったらしい。 「なんなら片っ端からたのんでもいいよ」 高校生のくせにコーヒーが似合って、一部の隙もない完璧な笑顔を向けるとんでもない男を、心の中で思いっきり罵った。悪魔とはおとぎ話の魔女や怪しい本の毒々しいイラストで描かれるものではなくて、現実ではこうやって整った顔をして人が好い笑顔を張り付ける人物のことを言うに違いない。 李絳攸は人生最大の危機に陥っていた。高校生活を快適に――自分の思い描いた通りに過ごすアレコレが根底から覆される危機に直面している、という意味だ。なにせ人生は七十余年。まだ半世紀以上は生きられるのだから、これは高校生らしく物事を大げさにとらえたに過ぎない。 「遠慮しなくていいよ。費用は生徒会もちだから」 そんなことを気にしているわけではない、と怒鳴りたかったがそれも子供っぽいと思いぐっと我慢した。 その男の名は藍楸瑛。生徒会執行部で書記をしている有名人だ。なにも生徒会役員として人前に立つことが多いから有名人なのではない。顔だ顔。そして女だ女。今風に言えばあれだ。イケメン。どちらかというと古風なイメージの美男子のほうが近い。いや線が細そうな感じがする美男子よりも、精悍さを宿す甘い顔立ちは素直にいい男、と言ったところか。いやまて何でこんな奴の容姿について、考えねばならんのだ。絳攸は馬鹿らしくなった。 噂にトンと興味がない絳攸でさえ、女遊びが激しい生徒会メンバーのことは耳にするのだから、どうしようもない。狂ってるんじゃないかと思う。そうでなきゃ違う世界の住人――いや、もう異星人だ。 目立たずひっそりと。常に客観的に、一歩引いて。そんなことを高校生活の信条としている絳攸には、生まれ年の関係で三年間のうち同じクラスになることはっても、こうして一緒にファミリーレストランで座ることなんてないはずだった。だって大気圏よりも強力な三千世界が隔てているのだから。 なのに男は目の前で「なにかたのみなよ」と文字通り甘い誘惑をちらつかせる。 ストロベリーパフェは絳攸の視線を追って、この男が勝手に頼んだのだからともかく。芝居じみて恥ずかしいが、財布から札を抜き取って机に叩きつけるくらいの演技はしてもいい。とにかく――。 「俺は買収される気はない」 「そんな人聞きが悪い」 これが人聞きが悪いこと以外になんだというのだ。 「俺は書割でいたいんだ」 「いや無理だって」 それでも歯車が動き出す。噛み違えて。後はガラガラと内部から崩れていくだけだ。 李絳攸は目立たず生きよう、というのを信条にこれまで暮らしてきた。というのもひどく頭がいいせいで、色々めんどくさい経験をしてきたからだ。黙ってひっそりと過ごしていれば、ただの成績優秀者として過ごせると学んだ。 部活には入っていない。クラスメイトに「何してるの」、と聞かれれば曖昧に笑う。そうすれば「家に帰って勉強でもしてるんじゃない」、「さすが学年一の秀才」などとクラスの連中は勝手に解釈する。それはそれで好都合だ。楽しくもかといってつまらなくもない、単調な日々の連続。それでいい。面倒事に巻き込まれずに済む。――疲れずに済む。 下校時間、廊下を歩いていると聞こえる吹奏楽部の演奏や、竹刀がぶつかり合う音、校庭で野球部が響かせるナイスバッティングや、サッカー部マネージャーの声。そんなものの間を縫うように、絳攸は足を動かした。 朝と同じバス会社の、異なる目的地行きに乗って、さらにバスを乗り継いでやってきたのは、やや絳攸の通う高校から離れた学区外の街。同じ学校の生徒は学校に近くてより大きな街へと繰り出すから、遭遇する心配は小さくて済む。 駅前の商店街。アーケードを半ばまで進むとヨーロッパの街並みに溶け込むような、木製の扉が表れる。そこを開けばカランカランとベルが鳴る。薄暗い室内には、テーブルがいくつか並び、そしてカウンターにはスツールがしつらえてある。その向こうに並ぶのは、色とりどりのガラス瓶。紛うことなき小さなバー。絳攸の秘密のバイト先だ。 何故秘密なのかと言うと、そこが酒を扱う店だからというのも多少なりともあるが、アルバイトをする際はアルバイト届けなるものを学校に提出し、担任教師と教頭と校長の印鑑をもらわなければならないからだ。管理されているようで気に入らない。 時給が高い仕事を探して行き着いたのがこの店だった。実質的にバーの体裁をしているが、この店はレストランの看板を掲げているし、実際に料理も美味しい。アサリの白ワイン蒸しから、季節の野菜を使った味噌汁まで、レシピも豊富だ。だから教師たちの裁可は下るだろうが、優等生として通っている絳攸が実はバイトしているという事実は、人々の興味を引いてしまう可能性が多分にあった。もう一度言うが、絳攸は目立たずひっそりと過ごしたいと常に思っている。だからバイトをやっていることも秘密だ。 そしてどこか決まり事だとかを破りたい、なんて子供じみた反抗心があったのだろう。面倒事を避けるのは性分だが、時々何故そんなことをしなくてはならない、と馬鹿らしくなることがあるのだ。ここは、そんな絳攸にとってはけ口にも似た場所だ。 それなのに――。 グラスを磨いていた時、カランカランとベルを鳴らして開いた扉の先にこの男がいたのだ。 絳攸はゲ、という顔をしたと思う。楸瑛はえ、だとかへ、だとか間抜けな声を出したから、完全に気付かれたことを絳攸は悟った。見たこともない顔の女――他校生かことによっては大学生かもしれない――を連れた男は、何かを察したマスターの誘導で、絳攸から遠い隅の席へと案内された。 なんとか無事にバイトを終えた絳攸だが、翌日学校行くのにさすがにためらいを感じた。いつ奴がやってくるんじゃないかと思うと、憂鬱な気分なった。決してヒヤヒヤビクビクおびえていたわけではない。通用するかしないかはともかく、それなりの言い訳は考えてある。ただめんどくさいのが嫌いなだけだ。 そうして一日の授業を終え、そそくさと退散しようと廊下を歩いていた時。 ――捕まった。 そしてファミレスへ連れ込まれた冒頭へともう少しでつながる。 男が勝手に頼んだパフェの容器が結露し、またアイスクリームが溶けるのが忍びないから絳攸は渋々スプーンを動かし、口に運んだ。最近のファミレススイーツは進化したとつくづく思う。 そんな絳攸の姿をにこにこ見ながら、男は優雅にコーヒーをすすった。 忌々しい。下校の際、いつの間にか目の前に来た男は「ちょっと話があるんだけど、いいかな?」そう言って、弱みを握られてるも同然な絳攸をこの大衆食堂へと引っ張っていった。何が気に入らないかって、脅されたことじゃない。前述したとおり別にどうでもいいと思っている。この男に話しかけられたがために、注目を浴びてしまったことが腹立たしいのだ。 「で、話ってなんだ?」 「あ、もしかして今日もあそこでバイト? なら手短に済ませなくちゃね」 バイトの予定は入っていないが、黙っていた。並んで座ってるだけで周囲の視線を買い集めてしまうような奴の、きっと不愉快な話とやらは早く終わらせて帰るのがいいに決まっている。パクパクとパフェを平らげながら、視線と顎で促した。 「君、生徒会に興味ない?」 「ない。全くない」 彼の名刀長船よりも鋭い切れ味で、言ってやった。おや、というわざとらしい顔をした後、見事な苦笑。こんな高校生嫌だ。 「うーん、君を生徒会に誘おうと思ってたんだけどな」 「断る」 パクパクと食べながら、行儀悪く不明瞭な発音で返した。 「バイト代と同じくらいは出すよ」 「は?」 不機嫌丸出しの声。何言ってんだこいつは。生徒会に入れば時給が発生するなんて馬鹿な話があるわけない。というかそんなとんでもない話は願い下げだ。とんでもないだけになにかとんでもない裏があるに違いない。世の中はそんなに甘くはない。 「いや、怪しい話じゃなくて」 信用できるはずがない。気を取り直すように男はコホンと一つ咳をして。 「実は我が生徒会には秘密予算が組まれていて、予算内の用途は一切不問なんだ。そこから君のバイト代分くらいは出すから、どう?」 絳攸はブチ切れそうになるのを抑えて、せっせとパフェを食べた。怒りが込み上げる。でないと金に釣られそうになるからだ。そんな政治組織じみた生徒会とはどういうことだ。当然授業料などがその秘密予算とやらに充てられているのだろう。ふざけるな。 「バイトのことは秘密にしておくから」 「あそこは関係ない。それにあそこはレストランだ」 「羊頭狗肉ってね。バレたらあそこのマスターに迷惑がかかるんじゃない?」 こういう脅しは絳攸が最も嫌いな手口だった。もっとも脅しをかける側なら、徹底して弱みを突くが。 「うーん、これくらい出すから」 伝えられた数字は今の時給より高くて――。正直心が揺らいだ。 でも。最後の一口を食べ終えて。 「俺は書割でいたいんだ。だから断る」 そう言ったなら「書割ってなに? かき氷の種類? 食べたいの?」だと。本読め! 「ねえ、何?」 しかも執拗だ。嫌いなめんどくさいタイプ。対処法は――。勿論要件を早く終わらせること。出来るだけそっけなく接するのがポイントだ。 「お前、このレストランの今の状況についてなんか感想言ってみろ」 「――寒いね」 「そうじゃない! 雰囲気や周囲の状況についてなんかコメントしろ」 「女の子が多い。さっきのウェイトレスの子、可愛かったね」 そこは即答か! まあいい。絳攸はコホンと一つ咳払いをした。 「つまりそういうことだ」 「え? どの子が君の好みなの?」 「誰がそんな話をしてる!」 女みたいに目をキラキラさせて、身を乗り出して聞いてきた楸瑛の髪の毛を思いっきり引っ張ってやった。顔をゆがませて「いたたたた」と叫ぶ姿にいい気味だ、なんて思ったのだが。 そこで絳攸は、はたと気付いた。――見られている。目立ってどうする俺! おい、そこの女携帯電話で写真を撮るな! とにかく、何もかもこいつがいけない。絳攸は頭をガシガシ掻きながら、唸るように吐き捨てた。 「書割だ書割!」 「ええと?」 ああイライラする。何で解らないんだ! 「もしお前が主人公の小説があったとする。今この状況を文章に起こすとき、いちいち客の一人一人に名前など付けないだろう。店には客が大勢いた、だとかそんな感じだろ。その名無しの大勢、クラスメイトの一人だとか、そういうのを書割と言う。詳細を割愛された背景だ」 へえ、と感心したとも気の抜けたとも取れる返事も気に入らない。これはあれだ、と絳攸は妙に冷静に思った。坊主憎けりゃ袈裟まで憎い。 「でもさ」 ん? 「君、書割でいたいなんて無理だよね」 な、何だと! 「だってそんな顔して書割なんて不可能だよ」 「そんな顔ってなんだそんな顔って」 「またまた解ってるくせに」 楸瑛はふふふと忍び笑いを漏らした。嘲りに違いない。こんな人を喰ったような奴のどこがいいのか、絳攸にはさっぱりわからない。 でも。 絳攸は肩の力を抜いた。何むきになってるんだ、と我に返ったからだ。もういい。所詮は異星人なのだ。三千世界が隔てているのだ。健全な交信はあきらめた。 「今のバイトと掛け持ちでいいから」 ――頭の中で瞬時にそろばんが弾かれた。我ながら情けないとは思いつつ、金の大切さは身に染みてる。 そしてようやく地球を何周もする冒頭につながる。もう少し続くが、ここまで読んでくれてありがとう。 |
2012.9.23 |