楸瑛はドアノブに手を掛け、ゆっくりと回し、引いた。コソ泥やスパイさながらの用心深さで臨んだのにもかかわらず、ドアはキイイと音を立てて開いた。
 いつだってそうだ。楸瑛はこのドアを静かに開けることが出来ない。螺子の閉まり具合を確認しようと、交換しようと、蝶番に油を差そうと、ドア自体を取り換えようと、必ずキイイと鳴る。まるでそんな楸瑛の努力を嘲笑うかのように聴こえるが、それでも毎回儀式のように挑むのだ。
 意地とジンクス。そんな子供じみた感情を持て余していることに、次第に切なさと愛しさが募る。
 境界の向こうはまだ夜が明けていない。暗闇の中を慎重な足取りで奥の窓際まで進み、ぴっちりと閉められた遮光カーテンを開いた。庭の木々の隙間から差し込む陽光の眩しさに、楸瑛は思わず目を細め、闇夜を溶かしたような双眸を隣接するベッドへと移した。
 病院を思わせるオフホワイトで統一された寝具に、男が横たわっている。楸瑛はその寝顔をじっと見つめた。毛髪同様の銀色の睫毛は閉じられ、乳白色を思わせる白い肌に影を落とす。薄い胸が上下してなければ、蝋人形と言われて納得する人がいても不思議ではない。
 額にかかる乱れた銀糸を指で払ってやると滑らかな肌の感触が伝わったが、彼は反応しない。そもそもこれくらいで起きるはずがないのだ。楸瑛はすう、と息を吸い込んだ。
「絳攸! さあ、起きる時間だ! ほら、朝だよ! 起きて!」
 大声を出しながらやや乱暴に肩を揺さぶれば、だらんとしていた男の身体に力が入ったのが解った。そこで揺らすのを止めて、顔を近づける。ゆっくりと開かれた薄目から覗く鏡のような瞳に自分の姿が映るのを認めた瞬間、いつも堪らない幸せが楸瑛を包み込む。瞬きもせずぼうっとしている彼に、楸瑛は微笑みながら、「おはよう絳攸」、と柔らかく告げた。男がようやく大きな瞬きをすると、半眼だった瞳が今度は完全に開かれる。上体を起こした絳攸は、しばらく弛緩した後、顎に手を当て考え始めた。
「………俺は…いつ寝たんだ? ――記憶がない」
 楸瑛は眼下の銀糸をクシュクシュとかき混ぜた。
「おはよう。昨夜私が見に来たときには君は机に突っ伏してた。だからベッドに移動させたんだよ。さ、ご飯の用意が出来てるから、冷めないうちに着替えて」
 そう言って、「最近めっきり夜更かしが出来なくなった。これが老いという奴か。なるほど感慨深い」、だとかブツブツ呟いている絳攸を残してダイニングへ向かった。扉が閉まる前、小さく「おはよう」と聞こえて、楸瑛は小さく声を出して笑った。
 二人掛け用の小さなダイニングテーブルには湯気を上げるハムエッグとワンプレートになったレタスにミニトマト、パンが用意してある。楸瑛が流しの横の食器棚からマグカップを二つ取り出そうとしていると、隣に何かが並ぶ気配がした。
 ドラム缶のような寸胴ボディの上に、半球を取り付けた銀色の物体に、楸瑛は笑いかける。
「おはようワトソン君。毎日朝食の準備、ありがとう」
「おハヨウ、ごザイマス。朝食、のジュンビはワタシのシゴトですが、どうイタシマシテ」
 ジー、と奇妙な雑音の後、やや歪なイントネーションがこの物体のどこかからか響いた。
「何か必要なものがあるのかい?」
 再びジー。
「クダモノをイレル、チイサイおサラがヒツヨウです」
 以前は「――ごシュジンサマのおテをワズラワセせるワケにはいきまセン」と答えていたのに、随分勝手を覚えたものだ。
 CランクAI搭載の汎用ダイニング型ロボット、製品名Mr. ボイルド・エッグ。絳攸はワトソンと呼び、楸瑛もそれに倣っている。本人は主観的に語っているが、読者の側からすれば完全なる客体。ロボットのボディには残酷なまでに似合っている。
 長身な楸瑛の半分ほどしかないそれは、刃物や割れ物が多いダイニングで働きやすいよう、バランスを重視しているため筒型で、また極めて限定的な空間を想定して作られているため、ローラによる移動方式が採用されている。楸瑛は金属の三本指がついた手に、小皿を二枚のせた。
「これでいいかい?」
 ジー。
「ハイ。ケッコウです。アリガトウごザイマス」
「どういたしまして。果物は何を用意してくれたのかな?」
 ジー。
「オレンジ、です。栄養評価、をごランになりマスか?」
「いや、いいよ」
 楸瑛が手をひらひらさせれば、ワトソンは小皿をシンクと一続きになっている調理場に並べた。円柱形の胴体の四角く切り取られた一部が開閉し、オレンジを取り出す。水で皮を洗って俎板へ置き、包丁で櫛形にカットしていく。なかなか器用だ。食べやすいよう皮を剥いたそれをダイニングへ運び終わったこのハウスのコックが、手早くとは言い難い機械的で淡々とした動作で使用した調理器具の片付けを始めた。その横で楸瑛はマグカップを取り出し、フィルターを装着してコーヒーの粉を入れ、ポットのお湯を少しずつ注ぐ。
 ポタポタと茶色い滴が垂れている間、ポットの横に置いてあるミキサーに、冷蔵庫から取り出したワトソンによって既にカットされたリンゴやレモン、人参やブロッコリーなどと砂糖等を入れて、蓋をしてスイッチを押した。
「おテツダイ、シますカ?」
「いや、いいよ」
 先ほどと同じ答え。通り一遍の返答しかできないなんて、どっちがロボットなんだか。
 ミキサーの蓋を押さえながらやんわりと首を振れば、片付けを終えたワトソンは直線的な動きで待機兼収納スペースがある回廊へと消えていった。
 むらなく細かくカットされ、液体状になったそれを食器棚から取りだしたグラスに入れると、丸首のトップスを纏った絳攸がちょうどやってきた。前髪が僅かに濡れているから顔も洗ったのだろう。でもサイドの髪が、漫画みたいにぴょんと跳ねているのには気付かなかったようだ。それはとても絳攸らしくて楸瑛は子供のいたずらを発見した時のような気持ちで苦笑した。
 身支度をするだけにしてはかかりすぎている時間の理由を知っているから「今日はずいぶん遅かったね」などと下手なことは言わない。かわりにぼけっと座っている彼の前に緑色のジュースを差し出せば、あからさまに嫌な顔をされた。
「またこの激マズジュースか…。最悪だ。朝から最悪。いや、最悪の六乗だ」
「失礼な。偉大なる先人の言葉に良薬口に苦し、というものがある。だからほら、つべこべ言わず飲んだ飲んだ」
「何が良薬だ。逆にストレスになって健康に悪い」
「私だって飲んでるけど、至って元気だよ。お肌だってピチピチのツヤツヤだ」
 楸瑛は涼しい顔をしてジュースに口を付けた。確かに美味しくないが、そんなの一瞬だ。飲み干したグラスを机に置いて、ほらご覧、という顔をしてみせた。
 絳攸は無言で訴えかけているようだが、にっこりと笑って一歩も引いてやらない。かつて削減ばかりされている研究費に歯止めをかけただけではなく、前年比160%まで引き上げた営業スマイルに、しかし絳攸は鼻に皺を寄せた。
 李絳攸、二十五歳。フリーの研究者。昼夜反転、寝不足、乱れた食生活と不健康な生活を繰り返していた。楸瑛がこのハウスを訪れた時には、そのツケが精神衰弱、自律神経失調症、幻覚症状、栄養失調という形で既に現れていた。対策として調理ロボットを急いで購入し、加えて諸事情により国際医師免許を持っている楸瑛は、一年前から毎月健康診断を断行し、結果次第でこの栄養満点特製ドリンクを毎週作ることにしている。勝手にそう決めて守らせている。初めの頃、栄養ドリンクを飲ませた日は、絳攸に三日間口を利いてもらえなかったが、それでも折れたことはない。
 顰め面と笑顔の対決は、いつも楸瑛の勝利に終わる。この日も絳攸は嫌々と言ったアピールを過剰にしながら、鼻をつまんで一息で赤い液体を飲み干した。その後整った顔を思いっきり歪めた、子供がふざけて作るようなとんでもなく不細工な顔で「うえっ」と言って舌を出した。すかさずコーヒーを渡す。一気に飲めないくらい熱いが、少量でも舌先に残る不快感は激減するのだ。ちびちび飲んで、絳攸は漸く元の人間らしい顔に戻った。
 しっかりと絳攸の動向を確認した楸瑛も、マグカップに口をつける。毎朝コーヒーを淹れるのは楸瑛の日課だ。これまた勝手にそう決めたものだが、熱々のコーヒーから始まる朝は何よりも大事だし、絳攸の朝が楸瑛手ずから入れたものでスタートするのも気分がいい。
 手を合わせていただきます、は図らずとも同時だった。
 絳攸が手にした四つ又フォークの先端が、フライドエッグの中心、下の黄色を透かすたんぱく質の薄皮に突き刺さり、表面がくちゅっと円を描くように混ぜられる。絶妙な具合に調理された半熟黄身が表面に溶けだした。
「ダリアなんてこの季節によく見つけたな」
 楸瑛は微笑んだ。
「ああ。町の人がくれたんだ。いつもよくしてくれる先生にお礼だって」
「そうか。ここの人たちは優しいな」
「そうだね。みんないい人たちばかりだ」
「……ノイマンは花が好きだった。いつも庭の花をめちゃくちゃにして、お前を困らせていたな」
 しんみりと湿った空気が食堂を満たした。
 ノイマンは碧玉の瞳が印象的なチビの灰猫だ。楸瑛が来る以前からの客で、絳攸曰く一度中に入れたらそのまま我が物顔で闊歩するようになったらしい。餌は思いついたようにしかやらないから、外で獲物を狩っている野性味あふれる捨て猫。偶に包丁を握る楸瑛からどうやって食べ物を奪い取ろうか常に猫なのに虎視眈々と狙っていた。人間を対等だと思い、天敵はロボット。特にクリーナーロボにおびえながらも敵意をむき出し襲い掛かる、勇敢な猫。必要な時に鍵を加えて飛び回るいたずら小僧のような小動物は、そのたいそうな名前に劣らず賢かった。
 ――そう。だった、なのだ。過去系で語られる内容なのだ。
 去年の冬の出来事が楸瑛の脳裏を掠め、ずっしりと胃のあたりが重くなる。深くなりそうなフラッシュバックを振り払い、プレートの目玉焼きを見た。
 あの日からノイマンの姿は見えなくなった。だから死んだということにした。庭の小さな墓石の前に、楸瑛は花を供えるのを欠かせたことがない。梅、桃、桜、蓮華、菊、椿、薔薇、百合、芍薬、ひなげし、チューリップ、紫陽花、向日葵、コスモス。そこはいつも花であふれている。短い夏になると花はそこいらに咲き乱れとても賑やかだ。
 そして今日はダリアを供えた。
 絳攸は毎朝、食事の前にその墓に足を向ける。祈るでもなくただじっと小さな墓石を見つめるその横顔の無表情の裏で、何を考えているのだろうか。酷く不安になるが、怖くて訊けない。
 楸瑛は厚切りのトーストにバターを塗り、口に運んだ。サクッとした表面と香ばしい香り。ハムエッグ等を含め、全てワトソンが調理したものだ。昨日の朝食は和食で、ご飯に焼き魚、漬物、味噌汁。和洋中、その他国々のありとあらゆる料理のレシピがあらかじめインプットされている。
 楸瑛は基本的にはおまかせモードにしてあるが、たまに絳攸と相談して「夕食はビーフシチューを頼むよ」などとオーダーもすることもある。腕も確かで都会には料理ロボを使用したレストランもいくつか存在するほど、このタイプの製品は普及している。
 栄養バランスを考え、飽きがこないようメニューを調整し、コミュニケーションを取り、客の表情の変化やチェックシートから各家庭の傾向を捕え、自ら考え改善する。あらかじめレシピをセットしただけの調理器具とは違い、軽度の思考力が備わっているものが一般化している。失敗することなく一人一人の好みに合った味をそれも文句ひとつ言わずに提供してくれる、便利なロボットだ。ある強盗は刑務所で囚人に「何が辛いってあの料理をここでは味わえないことだ。俺がいない間にあいつが売られたりしたら大変だ」と嘆き、一日でも早く外に出られるように模範的な行動を示したなんて話があるほどだ。
 Artificial Intelligence。略してAI。狭義には人工知能のプログラミング自体、広義にはそれが搭載された機器や広くプログラミングのことを指す。
 人工知能技術は前世紀に飛躍的に向上した。ただの演算からシミュレーションやゲームへ、そしてペットや音声認識、検索プログラミング等々。同時に発展していったロボット技術、コンピューターサイエンスと組み合わさり、半世紀前頃から家庭向けロボット家電のマーケットが開かれていった。現在の花形はバイオテクノロジー分野との接近だ。実際ワトソンとは似ても似つかないヒューマンタイプのAIもちらほら誕生してきているが、未だ昔の漫画や映画に登場したような、広い分野に対応できる万能人型ロボットへの道のりは長い。
 李絳攸はその分野では名の知れたAIのリサーチャーでありエンジニアだ。もともとはコンピュータープログラミングの分野で学生時代から活躍していた。しかし十代後半、自身の発明により彼は訴えられ、勝訴したのだが自らその分野から身を引いた。若きホープを憎々しく思う頭が固く、地位に固執する学会の重鎮から圧力がかかったとの噂もある。とにかくしばらく消息がつかめなかった絳攸がひっそりとだが次にその名を現したのが、AI分野だったのだ。
 それは偶然じゃなく必然だと知っているのは楸瑛だけ。
 櫛形にカットされたオレンジを口に運ぶ。すっきりとした甘さの果汁が口いっぱいに広がった。
 ふと見ると絳攸はとっくに食べ終え、頬杖をついた横顔をさらしていた。食事は楽しむものではなくあくまでも栄養補給と思っている節があり、速さ重視であまり噛まないで飲み込むのだ。どんなに美味しい料理も味付けを失敗したものも同じ速さで平らげる。それでも昔と比べ楸瑛が食べ終わるまで待ってくれるようになったのだから、少しは食事の楽しさ――美味しい料理とコミュニケーションを知ってくれたと思うと感慨深い。単に義務だと考えているのかもしれないが、真相を訊かない限り、解釈は自由。
 楸瑛は口角をやや上げながら、コーヒーを飲み干した。マグを置いた音で食事の終わりを悟った絳攸が顔を向け、どちらともなくご馳走様でした、と告げる。
 食器はそのままにして席を立った時刻は七時四十五分。勿論ワトソンが片付けまでしてくれる。
 仕事部屋へと向かう薄い背中に一言。
「その寝癖どうにかしたら? あと歯磨きを忘れずに、ね」
 一瞬立ち止まった絳攸に軽くむけられたのは、解ってるとでも言いたげな見事な渋面だ。そのまま歩みを再開した彼の右手はぴょんと跳ねた髪を押さえていて、「素直じゃないね」と食器を下げに来たワトソンに向かって呟いた。
 ローリングを止めたロボットから漏れるのはジーという音。たっぷり十秒くらいたった後、ワトソンのスピーカーから聞こえたのは電話サービスなどに使用されているような滑らかな女性の声だ。
「認識不可能です。コンテクストを登録しますか?」
 楸瑛は肩をすくめて否定を伝えた。
 現段階のAI技術では完璧な人造人間は造れない。
 それは幸か不幸か――。
 確かなのは、完璧なヒューマンタイプAIが完成したその時になってみなければ、誰も答えられないことだ。






2012.12.23