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 午後の日差しは鈍く、気怠い。
 楸瑛はそろそろと降りてきた瞼を押し上げた。
 一年前では考えられないのんびりとした時間が夢のようだ。
 四方を山と海に囲まれた、こんな季節の移り変わりもあやふやな小さな町となると、陽光ですら柔らかく降り注ぐ。
 暦上北半球は冬の終わりだろうが、ここでは冬支度を始めている人々もいる。一週間前、突然初雪――それもかなりの大雪が二日間にわたって降り続けたため町は完全に閉され、不意打ちに混乱した人々がスーパーマーケットに押し寄せた。今だって冬籠りのための商品は品切れて、入荷されれば瞬く間に在庫切れになる始末だ。
 今のところはあの雪の日以来、気温は例年並みに安定している。それはまだそれなりに温かいということだ。夜になると肌寒いレベル。それでもまだ雪は消えずに残っている。じんわりと溶け、全てなくなる前に次の雪が降るかもしれない。
 よく言えば平和で長閑で風光明媚ともとれる避暑観光地――但し季節は限られそれは短い、悪く言えば変化に乏しく退屈で閉鎖的な田舎町。そんな田舎のさらに辺鄙な場所に絳攸の研究室はある。
 研究室といっても研究員は絳攸一人だけだし、研究所などという看板を立て外部に宣伝しているわけでもない。有り余った土地を購入したものだから敷地面積も無駄にだだっ広く、その中心に居住区域であるハウスの一室――壁をぶち抜いて実際には数室分を占領している部屋を職場としているだけだ。他にはハウスと回廊でつながった山小屋風の簡素な家が建っている。私的機関ともいえるが私財を投入して趣味にふける、隠居老人の娯楽と同じだと思われても仕方がない。
 楸瑛その小屋の中で人を待っていた。誰かと約束があるわけではないけれど。
 絳攸の仕事を手伝うこともあるが、もともとの素地に加えこの地を訪れるにあたって、AIプログラミングの本格的な勉強をしてきた楸瑛でさえ、発展の余地があまりにも広すぎる分野での高度な技術には意味不明な部分が多い。そもそも一朝一夕で手に入れることが出来るスキルなら、研究は終了しているだろう。多角経営をしている企業の社員だった楸瑛は、絳攸の研究が間違いなく時勢の数歩先を行くことを知っている。
 売上なんてものを考えていないからこそ実現した、最先端の技術はこの田舎の中の田舎で誕生しているとは他に誰が知ることができようか。今でこそそれなりに研究内容は把握しているが、理解するとなると暗闇の海岸で落としたコンタクトレンズを探すような根気が要求される。
 とにかく楸瑛は単に絳攸が研究に没頭できるようせめて尽力しているにすぎない。それも自己満足なのだろうが、満足しているのだから構わない。
 だから楸瑛は外部との接触の唯一の窓口である小屋の中で人を待っている。誰か来るかもしれない、と。その時、楸瑛がその誰かの対応をするために。
 以前に比べずいぶん小さくなったその空間には、黒の合皮のソファーと食卓セットのあまりの椅子に囲まれてローテーブルが置かれているロビーがある。その奥には、白い扉。まるで病院のような作りなのにはちゃんと理由がある。ここはれっきとした診療所だ。といっても楸瑛は国際医師免許を持ってはいるが、診療所を開く許可を役所から得ていない。だが違法行為と訊かれれば、そうではない。まあ人間を診る場合もあるがあくまで基本はあるもの。ちょっと特殊な――現在は都市部を中心に少しずつ数が増えてきている診療所。
 午睡を誘われる陽光に、白衣をまとった楸瑛がリノリウムの床の診療室で欠伸をしていると、「せ、先生ッ!! 助けてくれ、先生! いるんだろ!」と野太く大きな声が響いた。
 閉じかけていた瞼を片目ずつゆるりと押し上げる。
 ――来客登場。
 欠伸を噛み殺し、待合所へ向かった。
 そこで待ち受けていたものに、楸瑛は目を丸くした。
 ねずみ色シャツにネクタイ。襟には星型のスタッズが三つ。胸には六芒星のバッジ。テンガロンハットを被り――まではいい。めったにいない姿だろうとそれが彼のユニホームだからだ。サングラスも別段おかしなことは無い。首を一切露出させないように巻いているスカーフは、もはや本来の役割を超えてフランケンシュタインの包帯のようになっているがまあアリ、だろう。本当にアリか? ――そんな議論はともかく、口裂け女がするような顔半分を隠す大きなマスクを一緒に着用していれば、怪しい人にしか見えない。彼が遥かなる東洋の一国の都市伝説を知っているとは思えないが。
 余分な贅肉の存在を全く感じさせない細見だが屈強だと一目でわかる変人男は、楸瑛を見た瞬間、掴みかからんばかりの勢いで迫ってきた。とっさに一二歩後ずさったが、狭い室内で逃げ切るのは無理だ。強盗にしたって、こんな奇抜な格好はしないだろうに。
「先生、先生! 助けてくれよう!」
 細マッチョまでとはいかない筋肉ムキムキの男は、しかし半泣きで楸瑛を揺さぶった。我を忘れているため、掴まれた楸瑛の腕が痛くなるほどだ。
 楸瑛は決してひ弱ではない。学生時代は運動部を掛け持ちし、そのいくつかで全国大会に出場したこともある。現在も早朝ランニングを日課にしており、対面の肉体美を追求して仕立て上げられたマッチョまではいかずとも、筋肉量は同年代の平均よりはずいぶん多い。顔だけではない。聊か寒い表現をすれば、脱いでもすごい男なのだ。それなのに腕が悲鳴を上げている。
「ちょ、ちょっと落ち着いて、落ち着いてください!」
 保安官、と楸瑛が叫ぶと漸く動きを止めた。
 辺境の田舎町では脂肪分が多い住人が多い。顔を隠していようがこんな筋肉君はこの町では保安官しかいないし、何よりそのユニホームとバッジが身分を物語っていた。男は怒らせていた肩を下げて、瞳が全く見えないサングラスをしているのにもかかわらず、縋るような目を向けてくるのが解る。取敢えず「診察室で話を伺います」と言って、奥へ招いた。
 スツールに座らせた男と向かい合った楸瑛は、内心の困惑を見事に隠し、どんなに警戒心が強い女子供や年寄ですら落ち着かせるような、やんわりとした声で尋ねた。
「何があったんですか?」
「………」
 この声音は男には効果がないのか。まあ、なくていい。助けてくれと騒いだにもかかわらず、今度はだんまりだ。もっともそんな様子もここではさして珍しくない。なぜならば――。
「安心してください。ここはド田舎が尻をまくって逃げるくらい究極に辺鄙な場所です。辺境です。めったに人が来ない。それに私の口は貝よりも固いです。温めたらパクリと開く貝とは違います。まあこれは信用してもらうしかないのですが。とにかく人に知られることはありませんよ」
 そう言って相手をリラックスさせるためにも楸瑛が口が堅いとことを示すエピソードをいくつか披露すると、全身こわばっていた男が力を抜いたのが解った。分厚い身体をしているのに、しゅんと一回り位小さく萎んでしまった。
 閉鎖的な田舎町では噂は一気に広まる。誰と誰がデートをしただとか、あの人のうちの今日の晩御飯はミートパイに違いないだとか、あの子は蟻はナンシーと名前を付けて飼っているだとか。プライバシーなんて存在しない。
 だからこそ、何かしら事情がある人はこんな人里離れたさらに奥にある小屋に、コソコソとやってくる来客数はそれなりにある。もちろんここが特殊だということもあるが、それ以上に絳攸や楸瑛が余所者だからだ。保安官が顔を隠してやってきたのも何か町の人には知られたくない事情があるからだろう。ならば部外者に知られた方がマシだということだ。
 もっとも楸瑛が診断内容を口に出さないだけで、外に車がとめてあれば誰が来たか一目瞭然で、それによって風評被害を多少なりとも被るだろうが、そこまでの責任はとらない。もともとは違う目的で作られた小屋なのだし。
 診療所で知り合いを見つけたからと言って、詰問でもしようものならいざ自分が世話になるときどうなるか――。そういう事態を考えて、誰も何も聞かないし見ないという暗黙のルールが存在しているから、心配ないだろうと読んでいる。
「せ、せんせい…。見てください」
 今は町の治安を守る面影を制服にしか宿さない男は、項垂れたままマスクとサングラス、そして帽子を震える手つきで取った。
 楸瑛は目を丸くした。絶句しかけてたことを悟らせないよう、態とのんびりとした声音を出す。
「おやおや。これは……」
 向けられた頭部は見事に禿上がっていた。ツルッツルのピカッピカだ。それ自体は問題ない。禿が問題だというのなら、坊主は大問題だ。だから楸瑛が驚いたのは別のことだ。
「保安官」
 ビクッと分厚い肩が叱られるのを待つ子供みたいに揺れる。
「その頭、一体どうされたんですか?」
 それに、という言葉と同時に眼の上と顔の中心に視線を移す。
「眉毛と髭は?」
 悲劇の始まりは、この外部と遮断されたような小さな田舎町の保安官は、田舎には過ぎたお洒落さんだったという事実にある。
 鍛え上げられた身体も、はち切れんばかりのムキムキのマッチョにならないように気を付けてのことだし、半年に一回歯のホワイトニングは忘れない。糊のきいたユニホームに身を包み、テンガロンハットに隠される髪の毛にまで気を配り、いつもきれいに整えられていた。寒い田舎町で、貴重な暑苦しい存在、それが保安官。
 その黄金と栗色が混ざった髪の毛が、今はごっそり抜けている。髪の毛だけではない、眉毛も、だ。なかなか迫力がある面構えは、地方都市のギャングとなら張り合えるかもしれない。なのに鼻の横から鯰髭がにょろにょろと伸びていて、滑稽というか愛嬌があるというか国籍を感じさせず不気味というか。――かなり奇妙な体裁を成していた。
 楸瑛の質問に、保安官はしばし顔を上げたと思うと、ウ、ウウウウと唸りながら、目にぶわっと涙をためて声を上げて泣き始めた。
 ムオーン、ムオーン。ヌーの大群が押し寄せたわけではない。いい大人のマッチョ、それも眉無しのスキンヘッドのマッチョが袖に顔を当て二人以外に誰もいないとはいえ、人目を憚らず子供みたいに泣くものだから楸瑛は思わず頭を抱えた。
「ええと、落ち着いてください。少し確認をしたいことがあるのですが」
 この診療所に来たからには原因はかなりのところまで絞られる。というか実質一つしかない。楸瑛が痛む頭で導き出した結論は――。
「お前、ナノセルのケア怠ったな」
 突如響いた第三者の声に驚いたのか、怒れる獣の雄叫びのような泣き声は止まった。零れ落ちないのが不思議などの涙をためた双眸は、診察室のさらに奥に向けられている。ハウスとこの小屋を結ぶ扉がいつの間にか開いていて、そこに白衣の人影が佇んでいた。
「絳攸!」
「地殻変動でも起きて、南からヌーの大群が押し寄せてきたのかと思って駆け付けてみれば。何だ、これは?」
 シャープな顎が示したのは、子供時代に誰もが一度は尊敬のまなざしを送ったことがある職業に就く人物で――。いくらスキンヘッドで眉毛がなくて鯰髭を持っていようと、顎で指したりこそあど言葉で示すのはいかがなものか。
 ちなみに絳攸が白衣を着用しているのは、ただの面倒臭がり屋の虫のせい。ジャケット替わり、といったところだ。
「彼は――」
「ああ、あなたはもしかして保安官殿か。しばらく会わないうちに随分見違えましたね。心機一転でもなさったんですか? それなら大成功だ。私は全く気付かなかった」
 棒読みで言い切ったのは、動物の雄叫びじみた泣き声に仕事を邪魔された意趣返し違いない。冷え冷えとした瞳には苛立ちが籠っている。
「これから冬が本格化していくというのに、ハゲ――坊主頭にするなんてさすが、町の平和のためには尽力を惜しまない保安官。勇敢でらっしゃる」
 言い直しも態とだと楸瑛は見抜いていた。それになにがさすがなのか、坊主頭と平和の繋がりも全く解らない。自主的にとった行動なら勇敢なのはまあ納得できないこともないが、真剣に分析するだけ無駄。絳攸は適当なことを言ったのだから。
 せっかく泣き止んだ保安官は、大人気ない仕返しに再び大声で泣き叫びだしてしまった。
 近隣に人家はないとはいえ、あまりにも迷惑な大音量サイレンを再発させた原因となる人物に咎める視線を向ければ、絳攸はおどけたように目をくりっと回してみせた。何の合図だか解らないが、きっと誤魔化しだろう。
 楸瑛はまずは頭痛の種をどうにかするべく宥めることが最優先。だが。
 ――難問だ。
 ムオーンムオーンと叫び散らす物体に向ける視線は、自然と恨みがましいものになってしまうのは仕方がない。人間だもの。
 今でこそ喚き散らす彼は、正義感が強く、今時珍しいおせっかいな一面を持っていて、困っている人に無償で手を差し伸べる愛すべき人だ。多くの住人は彼を慕っている。……それがこんな人物だったなんて。衝撃。
 とてもじゃないが町の人には言えないし、元から言う気もないのだが。
 でもすべては別問題。
 楸瑛は腹に力を込めて、再び意識的に穏やかな声を作り出した。
 今度は母親と離された赤ちゃんでさえ、泣きやむような声音になるように祈りながら。そしてそれが細くはない――中太マッチョの男にも効果があってもあまり嬉しくはないのだが、今の瞬間はそうであってほしいと切に願いながら。






2013.04.08