楸瑛に合い鍵を渡された瞬間から、絳攸はこの部屋をいつでも訪れていいと解釈した。
 実際今まで、何度も事前連絡を入れずにやってきたし、時にはカップアイスを食べながらこの部屋の主の帰宅を待っていたこともある。
 そういうとき楸瑛は怒るどころか「ただいま」と嬉しそうに笑うのだ。
 だからこの日もふらりと立ち寄って、楸瑛の帰りを待っていた。
 唇でジャズの名曲「Take Five」を奏でながら、丹念に楽器の手入れをする。アルトサックスが絳攸の相棒だ。口笛によって軽快に紡がれる曲も、ステージの上で相棒に触れる絳攸に演奏されるとなると、全く違う表情を見せる。バッグバンドの時こそヴォーカルを引き立てるが、間奏のソロパートやバンドだけのライブでは、猫背になった絳攸は獣のうなり声のような低音域から爆発するように一気に高音までかけのぼり背をそらす。かと思えば不意打ちの沈黙。客のざわつきが大きくなる頃、ゆったりと音を奏で加速し、超絶技巧で魅せた。毎回冷や冷やしながらも、そのスリルを楽しむメンバーばかりが集まっているし、絳攸だけではなく、他のパートも暴走することもあるからお互い様だ。
 軽やかな演奏もいつの間にか熱を帯びる。口笛だと出せない音域に眉を寄せた。
 明後日は絳攸たちのバンドの単独コンサートだから無理もない。
 吹きたくてうずうずしてきた。少しだけ、少しだけと思いながら手入れ途中のサックスはそのままで丁寧にふき取りながら、マウスピースだけ銜える。
 大きく息を吸い込んでふーっと吹き込もうとした瞬間――。
「ストップ」
 眼前に掌が突きつけられた。
 後ろから回された手を振り落とし、止めに入った無粋な人間を睨みつける。楸瑛はそんな態度に苦笑したように見えた。
「ここ君の部屋みたいに防音されてないし、一応時間も時間だし止めようか。ね? ここの住人は結構うるさい人が多いし」
 絳攸の口からマウスピースを抜き取ってローテーブルに置いた。
「せっかくお前を貶めてこのブルジョアマンションから追い出すチャンスだったのに邪魔するな」
「ちょ、眼が本気なんだけど・・・! あ、でもそしたら君の部屋に転がり込もうかな」
「常春が…!」
「あはは。とうとう君の思考もそういう考えに直結するようになったんだね。まあそういう意味だけど、マイダーリン」
 ウィンクに本気でムカついた絳攸は盛大な舌打ちをしてみせた。
「で、なんだそれは」
 態とらしくキョトンとした男は、しばらくして気付いたように「ああ」と言って困った顔をした。
 楸瑛の顔の下半分は、マスクで覆われている。
「ちょっと風邪気味で」
 声は変わらないが、喉が痛いのか、少しだけ話しにくそうにしている。
 絳攸が不機嫌になった理由がここにある。
 楸瑛の楽器はトランペットだ。3時間弱の単独コンサート中、息を吹きっぱなしというのは、それなりにキツい。のっている時はそうでもないが、風邪気味となれば気になるだろうしその分負担も増す。
 それが悔しい。みんなで思い切り走り抜けたいのに。
「お前・・・自己管理が出来てないぞ」
「本当にすまない」
 今度はわざとらしさがみじんもない沈痛な面もちをしたから、絳攸はこれ以上何か言うのは止めた。一番苦しいのは楸瑛だ。
「ペットの代打をどこからか調達するか?」
「それはいいから!」
 予期せぬ大声に驚いたのは二人ともだった。
「お前、人には近所迷惑だとぬかしたくせに大声出すなよ」
「面目ない。とにかく私がやるから。メンバー借りなくていいから」
 絳攸は了承の意味で小さく肩を竦めた。
 ジャズバンドというのは基本的に固定メンバーがほとんどいない。こんどあそこのジャズバーでナントカという曲やるんだって、ならベースはあそこから借りよう、ピアノが足りないからどこかに声かけるか――と言った感じだ。だからビッグバンドはいくつかのバンドの寄せ集めなのが一般的だ。
 絳攸のバンドみたいに固定メンバーですべてが補えるのはそこまで珍しくないが、それが数年も続くと希だ。
 このメンバーでやりたい。特に楸瑛と最高の舞台に立ちたい。このバンドは絳攸と楸瑛のたった二人で始めたものだから。
「君に風邪をうつすといけないから、今日はもう帰ったほうがいい」
 マスクの下で口をもごもごさせてる楸瑛を、絳攸は能面のような顔で見据えた。
「そろそろ茶番は終わりにしたいんだが?」
 楸瑛の表情が凍り付く。絳攸の手がなすままに、その精悍な顔を隠す無粋なマスクがはぎ取られ、宙を舞った。
 赤くはれた頬。そして切れた唇。
 細められる絳攸の視線を受けて、諦めた楸瑛は額に手を当てて長い溜息を吐いた。
「あー…。なんで解ったの?」
「そんなマスクをつけてたら怪しいに決まってる。それにこの俺がお前の嘘くらい見抜けないとでも思ったか?」
「その言葉はなかなかぐっとくるね。っと、待った。じゃあ先週のあれも、もしかして気づいて――」
「……今の墓穴は今は見逃してやる」
「…どうも」
「で、出来るのか?」
「やるよ。絶対にやる。明後日までになおしてみせるし、血が出ようと吹き続ける」
 吹奏楽器――特に口をマウスピースに押しつけるトランペットのような楽器では、唇の怪我は厳禁だ。息が漏れないように唇の筋肉を使うのだが、怪我によって力が入らなかったりその箇所を避けたりすることで、締まりがなくなり力強い音がでなくなったり、思い通りの演奏が出来なくなったりする。プロの奏者には怪我が理由で代打を出すことは珍しくない。
 それでも楸瑛はやると言ったのが、幾分絳攸の気を晴らした。嘘を吐いたのは見逃してやるが――。
「それで、どうして怪我したんだ?」
 とたんに楸瑛が再び凍り付いた。冷や汗付きで。
「――いや言わなくていい。どうせどこかの女に平手を食らったんだろう。そんなの聞きたくない。耳が汚れる」
「さすがに最後のは酷くない?」
「なんだ違うのか?」
「しまった。また墓穴を掘った」
 絳攸が送った侮蔑の視線を、楸瑛は気まずそうに避けた。
「お前の無駄にいい外面をどうしてこういう時に発揮しないどころか怪我をこしらえてくるんだ。使いどころを間違ってるとしか思えん」
「ちょっと気になる個所があるけど、反省してます」
「だったらこれはなんだ?」
 これ、とは。楸瑛は絳攸の肩をつかんでお互いの呼吸が頬をかすめるまで顔を寄せていた。
「え? 風邪じゃないからうつらないよ。心配しないで」
 にっこりと笑って唇を近づけてきたから、絳攸は楸瑛の髪の毛を引っ張った。
「ちーがーう! なにバカなことを言ってるんだこの大馬鹿野郎!」
「しー! 今深夜! それと痛いから!」
「お前がいけないんだろう!」
 髪の毛を離してから小声で怒鳴るなんて器用なことをした絳攸だった。
「唇の傷が酷くなったらどうするんだ」
「こういうところの怪我はすぐ直るから平気」
 甘い声を耳に吹き込んだ後、頬にキスする楸瑛に心底呆れた。それでも絳攸は向かってくる唇を手で押さえて、楸瑛がそれをはずそうとする前に立った。
「今日は帰る。お前も怪我が直るまで身を慎め」
「え、ちょっと絳攸?」
 怒らせた、と本気で焦る楸瑛にデコピンを喰らわせる。眼をパチクリさせる楸瑛の唇の怪我の横にそっと触れて。
「こんなことをしてお前の怪我が酷くなったら、俺は嫌だ。だからそれをなおしてから出直せ」
 それに怪我が気になってとてもそんな気分でいられない、とは言わなかった。心配しているが、心配で仕方がないなんて口には絶対出さない。その方が効果があっても、だ。
「解った。うん、今回は私が悪い。私の分も悪い」
 何となく本心が伝わってしまった気がして、絳攸は少し居心地が悪い。
 パパッとサックスをケースに入れて、ジャケットと一緒に手で抱えで。
「送っていこうか?」
「いやここでいい。まだ終電がある。それにお前は絶対安静」
 苦笑しながら楸瑛は「了解」と言った。
 帰りざまに一撃を喰らわせた額にキスすると、楸瑛が「反則!」と喚いた終電間際。
 翌日あたり管理会社から苦情が入るかも知れないと思いながら、絳攸は駅まで急いだ。
 もしそうなったらこんなブルジョアマンションのくせに防音設備がない部屋を出て、本当に絳攸の所に転がり込めばいいだけだから。





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作中のジャズの薀蓄(?)については「辛い飴」(田中啓文/東京創元社)を参考にしてます。ここから得た知識ですが一読の上、吹奏楽、ジャズともにビギナー以下ですので、間違っていたらごめんなさい。
こちらの本、ジャズが絡んだミステリテイストなお話で、シリーズ2作目です。シリーズものとは知らず、1作目を飛ばして読みました。今度読みます。

2013.06.01