額に浮かぶ汗が一筋頸へ向かい垂れる。疲れてはいるがそれすらも心地よい快感と高揚感に変わり、全身を包み込んだ。 ファイナルまで全力疾走した曲は大満足な出来で、初めから高かったンションがさらに上がった。 熱狂の渦の中心で、絳攸はマウスピースを三日月型にした唇で銜えながらメンバーを振り返り、一人一人と視線を交わし頷き合った。楸瑛とが一番長くなってしまったのは、いつものことだ。怪我の影響は感じられずに吹けているし、想像以上の音に対抗意識が掻き立てられるからだ。 マウスピースから口を離して呼吸をす寂しさを形容する言葉を絳攸は知らない。一杯の充実感と空虚な深い穴が同居しているだけだ。近いのは愛しさか。焦がれて餓えて手が触れるまで近くに来て、満たされて、去っていき、また最高の瞬間を追いかける、ゴールのない繰り返し。 苦しみもあるが、好きで好きでたまらないのが滑稽なほど。 舞台裏に捌ける時、コツンと靴に触れたのは舞台上に転がっているリードだった。サックスのリード。ただし割れて使い物にならないそれ。あまりに激しい演奏をするため、曲の途中でダメになるなんてことは絳攸にとって珍しくない。全身全霊で爆発するからもたないだけだ。 絳攸だけではなく、誰もが全力をぶつけて、上品ぶって演奏したと思えば、暴れ馬やビルを踏みつける怪獣みたいに暴走して、それでも不思議と生まれる調和がある。観客と一体となりまた新しい音楽が生み出される喜びがある。 アンコールで戻ってきた時、絳攸はそんなことを思い出して、冷めやらぬ興奮に静かにゾクゾクした。 本当のファイナル・ソングは即興。呼吸を感じ取った客席が波が引くようにスゥと静まり返る。 やきもきさせるような沈黙は観客のストレスが最高潮に達した所で破られた。ピアノの劉輝がパターンを徐々に変化させながらリードする。燕青のドラムと蘇芳のベースが加わり音にヴァラエティと深みが増す。促されてテナーサックスの珀明がソロを披露し、影月のトロンボーンと秀麗のヴァイオリンが加わった。 楸瑛とまた眼が合ってしまった。考えていることが解って、絳攸はますます心が躍った。こんなステージの上でなければ、こんな奴と解り合えってしまうことに絶望して眉を寄せたところだ。ただ、今は特別な時。信頼しているメンバーとこの場で解り合えることの素晴らしさは、きっと経験した者にしか解らない。 簡単に言えば、楸瑛は煽ったのだ。 ――行くよ、絳攸。力尽きるまで! ――ああ、全力でかかってこい! まあこんなところだ。 それからまず絳攸が五小節分吹く。リードを壊したのがウソのようなクールな旋律。五小節目の終わりに楸瑛のトランペットが被せるように入ってきた。五小節分軽音を響かせると、絳攸のアルトサックスが野太い音を出す。観客に小さく笑いが起こった。 繰り返すにつれ情熱を増し白熱する音。超絶技巧も入り客席は息を呑んで魅せられていた。 何回か目の楸瑛の五小節で、絳攸は違和感を感じた。ロングノートが浅い。 チラッと横目で見ると、平然とする楸瑛の唇から鮮血が垂れていて、カッとなった。 「馬鹿野郎ッ!」 秀麗や珀明が目を丸くしている。大音響の中、観客席までこの怒声は届かなかったらしい。 絳攸は首から下げてたアルトサックスを乱暴なしぐさで外しドン、と楸瑛に押し付けた。かわりにトランペットを奪い取る。そして一切の躊躇いもなく吹いてみせた。 どよめく会場。メンバーも動揺しているのが伝わる。 ――演奏でねじ伏せてやる。 マウスピースを唇に押し付けない分、傷が開いた楸瑛はサックスの方が吹きやすいはずだと、とっさに判断した結果取った行動。後先考えずに身体が勝手に動いただけだが、客は余興だと判断してくれたのか、直ぐにビートを刻んだ拍手に代わった。 僅かに血で滑るマウスピースに一層力を入れて唇を押し付けると、口の中に鉄の味が広がった。 楸瑛と出会ったころは偶に互いの楽器を吹き合ったものだから、演奏の仕方は知っている。悪くはない音だ。だが楸瑛の音には到底及ばないのがもどかしいく、フラストレーションがたまる。 楸瑛がサックスを首に下げた気配が伝わった。ようやく腹をくくったらしい。 絳攸のターンの終わりで、予定調和の如く被せてきた音に目を見張った。サックスなのに全くサックスっぽくないそれは――。 ――やられた。 腹の底から笑いが込み上げてきた。 楸瑛はアルトサックスでトランペットの音を出そうとしてるのだ。不敵に笑う横顔が挑戦状を叩きつけているのがその証拠。 全くこの野郎、と毒づく内心はかなりうずうずしてきて、顔にもそれが表れた。 どうぞと示されて、絳攸もトランペットでアルトサックスの音を出す。うん、しっくりくる。思いっきりいける。いつもアルトサックスに込めるみたいに、全力で演奏すると背筋を快感が駆け上った。 勘のいい客から生じた波紋は広がり、どっと沸く会場。 そこからもう一ターンして掛け合いは終わり、二人でセッション。楽器を変えても、音域が異なっても変わらない音を出し合う。そこに次々と他のパートが加わり、劉輝が初めに提示したパターンを奏でて、最高潮の瞬間終わった。 落ちた照明と大喝采。 息切れする絳攸は、同じように肩で息をしている楸瑛にトランペットを差し出した。代わりにサックスを受け取る。 「あー、こんなにしんどいのは久しぶり」 「オジサンみたいなことを言うな」 「残念ながら私たち、もうそんな年齢だよ。それに慣れないことをしたし」 「ああ、だからこんなにしんどいのか」 「やっぱり君も言ってる」 近寄ってくるメンバーに「すまないがオジサン二人は打ち上げパス」と言うと、珀明や秀麗はあからさまにがっかりした。 「俺より若いのに何言ってるんだお二人さん。君たちがオジサンならお兄さんはじーさんレベルになっちまうからやめてくんねーか」 「楸瑛は怪我してるし、絳攸も唇が真っ赤なのだ。どこか切っているのかもしれない。酒を飲むより次のステージに向けて休んだ方がいい」 燕青と劉輝が続ける。 「今回はお言葉に甘えます。トラブルにも付き合ってくださってありがとうございます」 「俺もすまないが今回は休ませてもらう」 「あ、あの! お二人ともとてもかっこよかったです! 即興であんなことをやってみせるなんて…!」 珀明が頬を赤くして言うものだから、絳攸は頭をくしゃくしゃかき混ぜてやった。 「次は俺のベースかお嬢さんのヴァイオリンを使っていいよ」 「何言ってるのタンタン。代わりにトランペットやサックスの演奏できる?」 「あ、出来ない」 「待て待て! 私のピアノを忘れてもらったら困るぞ! ピアノなら唇の怪我は関係ないのだ。それに私はサックスなら音が出せる!」 がやがやしてる中、音響担当の静蘭が歩いてくるのが見えて、絳攸は楸瑛に引っ張られた。一番楸瑛に厳しいのが静蘭だ。つまり何か言われる前に逃げ出したのだ。 ステージを降りて楽屋までの通路の奥まったところで、楸瑛は速度を緩め向かい合った。 「本当に真っ赤だ」 楸瑛が手で絳攸の唇に触れる。乾き始めた血が粘着性を増していた。 「ベトベトして気持ち悪いな。――お前の血だ。お前がどうにかしろ」 ツンと向けられた唇に、楸瑛は思わず笑ってしまった。なんて魅力的な申し出なんだ。 「仰せのままに」 血を舐めとり、そのまま唇を割ってキス。音を立てて僅かに離れたその距離で、楸瑛は面白そうに絳攸を覗き込んだ。 「あれ、今回は止めないんだ」 「後でリップクリームを買ってやる。しばらくステージはないから早く治せ」 絳攸は再び湧き出てきた楸瑛の血を舐めた。 「それにこういうところの傷は早く治るんだろ?」 馬鹿馬鹿しいといった様子の絳攸の眼には隠そうともしない熱が灯っている。 クスクス笑いながら「そうだった」と言った楸瑛は、血のように赤いその唇に喰らいついた。 |
2013.06.03 |