ベルリン大聖堂の鐘が鳴り響く。
 眼鏡の奥の眼は熟読している英字語新聞に落としたままカップを唇に当てたが、冷めてしまったコーヒーに気付き楸瑛は柳眉をひそめた。すっと湯気が立ち上るコーヒーがテーブルに置かれると、その時になった初めて気付いたように顔を上げた。
 敵対国イギリスで未だ大人気の探偵小説の主人公、シャアロック・ホームズを髣髴とさせる帽子をかぶったクマみたいな男が笑いかける。前歯が一本かけていて、残りの歯も煙草のヤニで黄ばんでる。男は楸瑛の向かいの席に座った。自分の分のコーヒーを持っているから、置かれたものは楸瑛に、ということだ。
「よ、ジャーナリストの先生」
 今回はジャーナリストという設定だ。パスポートに記載されている名前や生年月日も、楸瑛のものではない。実在する誰か別の者のデータだ。その男に楸瑛はなりきってドイツで情報収集している。
「仕事とはいえこんなところでイギリス新聞なんて広げない方がいいぞ。この間も鶏みたいな男が読んでたところをSSに注意されてた。それよりなんかいいネタはあったか?」
「ご忠告とコーヒーをどうもありがとうございます。ネタは今日はまだ何も。このまま帰ったらボスに大目玉喰らいそうです。あなたが何かネタをくれれば別ですが」
「ナイン! こんなところで毎日毎日優雅にコーヒーを楽しんでる奴に、俺が靴底を擦り減らして集めたネタを晒すのは癪だな」
「そんな私にさらにもう一杯のコーヒーを与えるあなたは私を堕落させる悪の使いですね、クラウス記者?」
「違いねえ」
 ゲラゲラと笑う男に楸瑛は「ところで」と声を潜めた。
「ダンツィヒに暴徒が集まっているというのは本当ですか?」
 クラウスの顔が途端に険しくなった。
 ダンツィヒはドイツの進行により消滅したポーランドの都市だ。アーリア人至上主義を貫いているドイツは、ポーランド人を酷く差別してる。もっともユダヤ人よりか扱いはましだが。
「おい、どこで聞いたそれを。本当か?」
「真偽はともかく、キャバレーのフランス女が教えてくれました」
 先だってドイツはパリを陥落させた。それにより民族の流入が多少ある。その女はドイツの兵隊に言い寄られてベルリンまでついてきたが、そこで捨てられたことを根に持っていて、少し探りを入れたら「ナチめ」とSSがその場にいたら忽ち牢屋にぶち込まれそうなことを罵りながら色々話してくれた。
 ち、と舌打ちした同業の男の内心を楸瑛は読み取った。女にうつつをぬかしペラペラと秘密をしゃべるようなSSがいやがるのか、くそ野郎、さっそく取り締まってやる。
「ダンケ。今度俺のおごりで最高のキャバレーにつれて行ってやる。またな」
 熱々のコーヒーを残してそそくさと去っていく男の後ろ姿に手を振った。
 彼はSSの内部監視を行ってる。云わば裏切者を炙り出すのが任務だ。
 彼の熊みたいな容貌は眉目秀麗なアーリア人を集めている中では、浮いている。だからこそ誰もが彼をSSの隊員だとは思わない。油断させておいて他の隊員に近付き、報告する――という訳だ。
 これでSSの内部の監視が厳しくなるだろう。口が軽い男がいては我が国も困る。
 今回の任務が一つ完了した。
 ――さて、もう一つの任務は。
 楸瑛は唇の端をすいと上げ、店の英字新聞を机に置いて立ち上がった。



 ※ ※ ※

 ベルリン大聖堂の鐘が鳴り終わり時刻を知った時、絳攸はそれとは別の物音にゆっくりと顔を上げた。
 高窓から差し込む光が陰を造り、前髪の奥から眼がギョロリと覘く。
 絳攸の僅かな動きに合わせて金属の手枷が鈍く鳴った。
 頬が少し窶れてはいるが顔に傷はない。木綿のシャツの下には無数に存在するが。
 目立つ所に傷をつけようものなら国際社会の反発を喰らう。だから服に隠れる場所や爪を責めるのだ。
 SSの支部となった古城に囚われて十三日目。それは絳攸に取り調べと称する拷問が開始されてからの日数とイコールだ。
 かけたれたのはスパイ容疑。なんてことはない。学生宿の部屋の天井裏に隠してあったラジオのチューニングをしていたら、政府当局の許可を取っていない無線電波が観測されたという訳だ。
 勿論規制されているのはレジスタンス等の通信手段を封じるためだ。
 今のところ不幸にも逮捕されてしまった学生らしく、怯えと気概が混じりに全てに「ナイン」と「知らない」で通している。
 そろそろ限界か――。
 SSの制服に身を包み長靴を履いた男がお盆を手に抱えて戸口に立っていた。
 制帽で顔がよく見えない。男も絳攸の食事を持ってきたはずなのに、存在などしていないかのように無視している。
「失礼いたします!」
 ピシッと敬礼。この食事持ちのやや鼻に掛ったドイツ語が絳攸は嫌いだ。
「少佐、こちらの客人に食事をお持ちしました」
 カツカツと靴を鳴らす男に何が客人だ、と絳攸は内心で毒づく。これも国際社会からの弾劾対策という奴だ。
「ん? もうそんな時間かね」
 絳攸を痛ぶるのに集中して、鐘の音が聴こえなかったのだ。
 懐中時計を確認した少佐はそれをぱちんと閉じて、再び懐に閉まってゆったりと立ち上がった。追従するように書記を務めていた彼の部下がノートを閉じ筆記具を纏めて直立する。
 食事持ちの男の脇を通り部屋を出た。男も黒パンとジャガイモとキャベツの切れが入った薄いスープという粗末な食事をおいて退出した。ガチャリと鍵がかかる音が響いた。
 食事後すぐに取り調べを再開するため、昼食はここで摂る。休む暇なく取り調べの時間が始まり、相対する人物は交代するが絳攸にはほとんど寝る時間も与えず精神攻撃をかける。睡眠も横になるのではなく、立ったまま眠らせる。これはかなり堪える拷問で、神経衰弱進行が狙いだ。
 鎖の音を響かせながら黒パンを掴んだ。
 扉の外には門番が二人。部屋の中は絳攸だけ。一番警備が手薄になる時間だ。
 ここは二階だが、窓は高いところにある。目隠しして連れてこられたが、建物の地図は頭に入っている。見張りの配置だけが気がかりだったが――。
 黒パンを齧って木製の匙でスープを啜る。
 そして異国の地で戸惑う学生の仮面を捨て、ニヤリと嗤った。
 黒パンの中から手榴弾を取り出し、歯で安全レバーを引き抜き壁のある一点に置いた。事前に壁を叩き音の違いでもろい部分を調べてたのだ。爆発が始まるまでに片手だけ手枷を急いで外し、爆音が響く中、二階の高さから飛び降りた。
 頭上から「待て!」と叫び声が聞こえたが、可笑しくて絳攸は腹を震わせる。
 ――誰が待つか。
 そして追手が統率した動きを取る前に走り去った。



 ※ ※ ※

 ベルリン郊外のパリ風キャバレーで着飾った淑女の腰に手を回し楸瑛は優雅に踊っていた。
 欧米でも通用するすっとして精悍な顔立ちにまだ初心な少女は頬を赤く染めて、潤んだ瞳で楸瑛を見つめている。
 その可憐な耳たぶに口を寄せて囁くと、少女は蕩けそうな顔をした。
「御嬢さん、あちらの方がずっとあなたを見ています。非常に残念ですが代わらなければ私が恨まれてしまいます」
 何か言い出しそうな娘を壁際に立ってこっちを見ていた男の側まで誘導して、最後にその手に手袋の上から唇を落とす。のぼせた初心な娘を壁際の男に託し、楸瑛はダンスフロアに向き直った。
 視界に艶やかな純白が侵入した。ドレスの裾は動くことなく、楸瑛の視野ギリギリに留まっている。
 ふと顔を上げれば、羽根付帽を被った女と目が合った。吸い込まれそうな色彩だ。多くの男かスラリとした彼女を見てお前がいけ、などと肘で小突き合っている。
 コツコツと小さく音を立てて楸瑛の前に来た女は、ス、と手を差し出した。悔しそうな声が周囲で上がったのを聴き流し、恭しくその手を取って白い手袋の上から熱く口付けた。
「踊っていただけますか?」
 小さく頷くと彼女の帽子の羽がふわりと揺れた。
 握った手と反対側の腕を腰に回す。音楽に合わせながらゆったりとステップを踏みながら、楸瑛は小声で告げた。
「綺麗だよ」
「お前、覚えてろよ。こんな格好させやがって…!」
 白いドレスに身を包んだ女は、にこやかに微笑みつつ、清楚どころかその響きだけで相手の心臓を止めることが出来そうなドスの利いた声を出した。
 勿論想像以上に見事に女装した絳攸だ。
「それにしても落ち合えてよかった。多少の綱渡りがあっただろうけどさすがだね。大したものだ」
「お前、俺を誰だと思っているのか?」
 思い通りの回答に楸瑛は悠然と唇に弧を描いた。
 絳攸が見つけた学生宿の天井裏のラジオが傍受した雑音に一瞬混じったノイズが、数字とある名前を告げていた。つまりこのランデブーの場所と日時だ。
 この日までにすべてを片付けなければならない。
 そうして絳攸は囚われた。――情報収集のため、態と。
 一方ベルリンの中心部にあるカフェのイギリス新聞が、絳攸から楸瑛への連絡手段だ。二人で一々密会を開くようなことはしない。
 絳攸が懐柔し心酔させたやや「危険思想」を抱く学生仲間が、イギリス新聞に一定の爪痕――捲るときに偶然ついた皺にしか見えないような痕跡を残すことで暗号が成立している。勿論ダミーも含ませて。絳攸に心酔している男はそれが偽物だとは知らないし、暗号の意味も解っていない。敵国の新聞を読んでいるところを咎めたSSに絡まれたときに催眠をかけたから、不安要素は存在しない。
 あの朝、楸瑛が読んだ新聞に残されていたのは絳攸の抑留場所だ。
 楸瑛は駐屯所となる古城に侵入し、食事係の男に化けた。彼が使う鼻に掛ったようなドイツ語の癖やカツカツと長靴を鳴らす歩き方を完全にコピーして。絳攸の不快そうな視線を感じ、気付かれたのが解ったが心の中で満足していた。そして黒パンに小型手榴弾と警備の配置図を隠し、それを置いて出て行っただけだ。
 失敗するとはお互い露ほどにも思っていない。
 成功して当たり前。
 ぐっと腰を引き寄せて、体を密着させる。あるはずのない胸のふくらみを感じて、楸瑛は奥歯を強くかみしめた。完璧な変装だ。
「それで、情報は?」
 羽根つき帽の下で絳攸が薄く笑うのが見えた。
「それはホテルでのお楽しみだな」
「熱烈な誘いだ」
 楸瑛は一秒も待てないとでもいう風に女装した絳攸の手を引いて、出口へ向かいキャバレーを足早に横断した。冷やかしの声や口笛に背中を押されて。
 しかし彼らはすぐにこの二人の顔を忘れた。あんなに夢見がちな眼を向けていた娘も、既に楸瑛の輪郭がぼやけてきていた。このキャバレーを出るころには益々曖昧になっているだろう。
 
 この二人がスパイだと知るものは、この場にはいない。





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なんかいろいろ(拷問とか女装とか)済みません……。 あの、そういう趣味はないので!

2013.06.16