周りにいる人にはまあまあ恵まれているし、何より可愛い息子がいる。絳攸になかなか会えないのは残念だけれど、頻繁に届く手紙はかなり嬉しい。
 忙しいけれど仕事は嫌いじゃない。いろんなところに行って、美味しい物を食べたり絵になるような風景を見るのは好きだ。上手く話がまとまれば充実感を感じる。
 ご飯を食べていくのには困らないし、多少の贅沢ができる環境で暮らしている。
 それに。毎日家にいて黎深が今日はどんな迷惑をかけているかと戦々恐々としながらその帰りを待つよりかは、ずっといい。
 だから。
 ―――あなたの願い事は何ですか。
 そう異国の魔術師に聞かれたとしたら、百合は「夫をもう少しまともにしてください」と迷いなき即答をする心づもりだ。黎深が何かしでかすたびに、どこ吹く風の元凶に怒鳴って、被害を最小限に抑えるために駆けずり回って頭を下げてきた。それでなくとも仕事をしない黎深に代わって飛び回ってきたのだから、全てが済んだときにはもうぐったりしていた。肉体的およびそれ以上の精神的疲労で座り込んでいる百合に向かって「琵琶を弾け」だの「髪を切れ」だの「今日の兄上は…」だのが続くと、脳みそが沸騰しかける。
「何怒ってるんだ?」
 無神経に訊かれると誰のせいだと思ってるんだ、と物騒な感情が爆発しそうになる。普段はいるかいないかといった影がざわつくほどだ。
 涼しい顔をしている黎深が、実は傷ついていることを知っているから百合は仕方がないなあ、と許してきた。無理やりケッコンなんてしてしまってからは、受け入れてきた。汁粉づけになろうと、文句は言うが食べてきた。
 恋なんてしている余裕なんてない関係は今でも続いているけれど、愛情が存在していることを否定できない。抵抗があるから積極的に認めたくはないけれど、絳攸も含めて家族なんだなあと思うとくすぐったい。嬉しくて照れてしまう。思わず笑ってしまう。
 でも絳攸や悠舜を傷つけては自分までうろたえる黎深の不器用さに、ほとほと困り果てているのも事実だから、百合は願うのだ。
 夫を変えてくださいではなくて、まともにしてください、と。せめて汁粉が週一回になるくらいのまともさを身に付けてほしい。少しは大切な人のことが解るくらいには。
 今日も今日とて黎深に迷惑をかけられた百合はぷりぷり怒りながらそんな風に考え寝台に横になった。隣に黎深はいない。邵可のところにでも行っているのだろう。
 いれば迷惑だが、いないと他人に被害が及ぶ。邵可だから軽くあしらうだろうが。
 ――ああ、馬鹿らしい。
 百合は不貞寝した。


 甘い匂いに誘われて歩けば、李の樹の前にたどり着いた。
 ――あれ、今、夏じゃなかったっけ?
 李が咲く季節だったかな、と百合は疑問に思ったが、夢のように美しい世界にすぐに忘れた。
 李の真っ白な花弁が風でさらさらと舞う。百合の髪を攫いながら、花を散らしていく。
 根元に立てかけてある琵琶に気付き、手に取って音を確かめた。深みがある音が響く。
 いい音だ。
 昔の習慣からきょろきょろと周囲を見渡して、誰もいないことを確かめてから、李の花で白く覆われた根元に座り、琵琶を抱えた。
 掻き鳴らせば曲が嫋々と紡がれる。
 一曲弾き終った。
「百合」
「黎深!」
 仰げば声の通り、黎深が覗き込んでいた。まるでずっとそこで百合の曲を聴いていたように、髪の毛に白い花弁を付けて。
 そう言えば初めて会った時も、李の樹の下で百合は琵琶を奏でていたなと思い出した。
 一人ぼっちの孤独を表しているような黒い瞳はじっと百合に注がれている。
「何? また髪を切ってほしいの?」
「いや。…それよりお前の琵琶の音がしたから」
 何かおかしい。
 黎深は真向かいに座って、これ以上にないほど見つめてくる。
 ――な、何動揺してるんだ僕! しっかりしろ!
 思わず譲葉として自分につっこんだ。
「百合」
 そう呼ぶから譲葉でいたいのに、百合の方を意識させられる。
「な、何さ」
「いつも迷惑をかけてすまない」
 ――え。え? ええー!?
 あの黎深が。あの黎深が謝罪の言葉を口んするなんて!
 あまりの衝撃に百合は大混乱に陥った。黎深を本気で心配した。
「ちょ、ちょっとどうしちゃったのさ、黎深? 君、熱でもあるの? 何か拾い食いでもしてあたった? それとも邵可様恋しさにとうとうおかしくなっちゃったんだね!?」
 琵琶をおいて、両手で頬を押さえて向き合ったが、とくに熱がある感じはしない。
 どうしちゃったのさ、と慌てる百合に黎深は微笑んだ。
 百合が見たこともないような優しい顔に、時を忘れて見惚れた。
 李の甘い匂いが強くなる。
 黎深はなんとそんな百合の手を取って、口付た。宝物にするみたいに優しく。
「わ。わわわ。な、何するんだ、君は…!」
 ぱっと手を振り払って、もう片方で包み込んだ。
 本格的に顔が熱い。どうしよう。
「百合」
 黎深の手が百合の頬に触れた。熱くなった頬に心地いい体温だ。
 頭がぼーっとしてくる。
 そのまま黎深の顔が近づく。吐息がかかる距離で、百合は震えながらうっとりと眼を閉じた。


「だ、ダメー!!」
 百合は言葉通り飛び起きしばらく呆然とした。
 血の気が引いた顔で周囲を見回せば、布団を握りしめ寝台に上体を起こしている自分に気が付いた。窓から漏れる光は明るくて、少し百合を正気に戻してくれた。
 ――夢!? そう、夢よね!? 夢。夢に決まってる! そもそも今は李の時期じゃないし!
 ああ、よかった、と大げさなくらいほっと胸を撫で下ろす。
 人が来ないところからも、実際に「ダメ」と絶叫していないのも、少し百合の心を慰めた。もし家人が押し掛けたところでなんて言い訳しろと言うのか。
 黎深にぐらっときましただなんて弁解するのは嫌すぎる。口が裂けても言いたくない。
 鬼でもいるかのように隣にそろりと首を回すが、黎深はいない。
 まだ帰ってきていないのか。
 その事実にも安堵した。あんな夢を見た後で、黎深にどんな顔を向ければいいのか解らないから。
 息切れしていないのが不思議なくらい、心臓がバクバクしている。
 青かった頬が、赤くなった。膝に顔を埋める。
 百合の名前を呼ぶ優しい声。百合の手に落とされた口付。頬に触れた少し冷たい手。吐息がかかる距離で見つめ合った瞳。思い出してますます赤面した。
 あんなの。
 あんなの黎深じゃない。
 いや。あれはまぎれもなく黎深だったと百合には解る。
 ――でも。
 あんな黎深じゃ困る。
 十代の女の子じゃないんだから、と思うがどうしようもなくドキドキしている。
 ふと、いつもの不器用で傍若無人で頓珍漢な黎深を思い出したら、少し落ち着いた。
 悔しい。
 頬を膨らませてしばらくしてから、えいや、と寝台から降りた。
 うじうじしてるのが嫌いだし、ますます袋小路の深みにはまって抜け出せなくなりそうだから。
 身支度を整えて廊下に出たら、黎深と絳攸がいた。ちょっとだけ百合は身構えた。黎深になにか無茶なことを言われて頭を抱える絳攸を眼にしたら、自然と肩の力が抜けた。
 本当に拍子抜けするほどいつもの図だ。
「母親がぐうたらだから息子が反抗的になるんだ」
「黎深様! 百合さんは連日私たちの後始末で走り回ってお疲れなんですよ!」
「私だってあの件では東奔西走したぞ」
「私たちは迷子になって結局百合さんに手配していただいた捜索隊に拾われたじゃないですか!」
 黎深はいつもみたいに意味不明なことを言う。百合の見た夢のことなど当たり前だが全く知らないようだ。気にする方が馬鹿馬鹿しい。
 少し寝過ごしてしまったようだ。そういえば窓から差し込む日差しはいつもより厳しい。
「あら、もうこんな時間? 絳攸、時間大丈夫なの?」
「ええ」
「飢え死にするまえに朝餉だ。百合、絳攸。汁粉を食うぞ」
 一人でさっさと食卓へ行ってしまった。置いてきぼりの百合と絳攸は顔を見合わせた。
「百合さんに対してもう少し優しくされればいいのですが」
「いいのよ絳攸」
「え?」
「いいの。大体解ってるし、あの黎深じゃなきゃ私が困るわ」
 絳攸が何故か赤面して言葉を詰まらせた。何でだろう。まあ、いいか。
「さあ、ご飯食べましょう。遅刻しちゃうわよ!」
 ぐうたらだとか言いながら、黎深は百合を起こしに来なかった。それに朝食を食べずに待っていてくれた。登朝しなければならない絳攸を引き留めて。
 三人で食卓を囲み、汁粉を食べながら百合は考えた。
 ――あなたの願い事は何ですか?
 もし異国の魔術師にそう聞かれたらなんて答えよう。百合は夢想する。
 立派な家があるし、仕事もある。あ、黎深は無職だけど。
 格好良く育った息子がいて、ダメな男だが夫もいて、なかなか楽しい毎日を送っている。
 願い事など特にない。
 しいていえばみんなでいつまでも楽しく暮らせればいいなあというくらいで、魔術師に願うことじゃないと百合は思う。
 とにかく。
 夫をもう少しまともにしてくださいなんて願いは丸めて彼方へ投げ捨てた。
 まともな黎深なんて心臓に悪いことがよく解った。
 うっかり黎深が好きですなんて認めることになったらと考えるだけでも怖い。
 だから今のままでいい。
 それに黎深の何度も裏返って捩くれている愛情表現だって、百合は結構解ってるのだし。
 だから今のままがいい。
 今のままで百合は十分幸せだ。






2013.08.17