せっかくの休日をまるまる読書に費やしてしまうのは珍しいことではないから、例え読んでいる本が主観的には今まで食指が動かなかったジャンルで、客観的に同年代の男が読んでいたらマニアックな部類に入るものだとしても、俺が休日に、いや休日じゃなくても、俺が本を読んでいるという光景自体は何ら疑問の余地がない。 それが久々の秋晴れで、ついこの間までの殺人的な激しさがそがれ、幾らか柔らかみを帯びた陽光の加減と、外から侵入する親子連れの楽しそうな声に晒されても、窓辺で差してくる直射日光を浴び幸せそうな声を聴き流し、籐の椅子に凭れながら何時間も同じ体勢で本を読む行為は、他人から外出しないなんてもったいない等の小言をはねのけるくらい魅力的なものだ。 籐の椅子に全体重をかけて最後の一ページを読み終え、その最後の一冊を閉じて他に本が積み上がっているサイドテーブルではなくて、腹に乗せ、そのまま眼を閉じると、うとうとしてくる。すっと眠りの世界へ入り込めそうな予感。このまま温かい窓辺で転寝しまおう。 籐の椅子はなんだかロッキングチェアに似ていると思う。ロキングチェアに座ったことがあるのかと問われれば、多分ないと答えるしかないのだが、イメージだが全体重を受け止めゆらりゆらりと柔らかく揺れる感じと、籐の椅子の持つ包み込むような温かみが重なるのかもしれない。とにかく両方とも心地よい眠りを提供してくれそうな点は、何よりの共通点だろう。そんなことを思っていたら、ゆらゆらと揺れてる感じがしてきて、本格的にうっとりした。 しかしタイミングが悪い奴とはえてして必ず存在して、今回の場合は玄関がガチャガチャと煩いという形であらわれた。 「絳攸、いる? お邪魔するよー」 おい、勝手に邪魔するな、と思いながらも、億劫だから反応しない。俺はこのまま寝ていたいのだ。そもそもあいつに合鍵など渡した覚えがないのだが、「覚えてないのかい?」としらを切られて、当てはまるような気がする事態がポンポンと頭に浮かんでしまって以来、うやむやな事項の一つだ。 「あれ? こう…あ、寝てる?」 そうだ。これから完全にブラックアウトするんだ。頑張れ俺。寝るんだ俺。こんなこと考えてる時点で逆効果でも、寝てしまえ俺と思うけれど、何でそんなに存在感があるんだお前。邪魔するなよ。寝ようとしている俺を本当に寝ていると思って、足音を含めた物音を立てないようにしているのに、ウザいくらいの気配に睡眠妨害をされる。 「寝てるというか、うとうとしてるし気持ちいいからこのまま寝よう、ってところか」 おいコラ、人の心の中を勝手に読むな。ますます快眠から遠ざかる。 「寝ながら眉間にしわを寄せてる。全く、君は変なところで器用だな」 感心するんじゃない。お前のせいだろうってもうつっこませるな! 「ん? え?」 突然雰囲気が変わり、当惑している楸瑛の声に疑問が湧く。寝ようとしている人間に考えさせるなんて、つっこみを入れさせるより性質が悪いが、何に戸惑っているのか気になる。その時唐突にこいつはおれの腹を見ている、と理解しはっとした。俺は眠ろう眠ろうとマインドコントロールに暇なく、眼を閉じてるから俺はエスパーであるなんて仮説が成立しない限り、楸瑛の視線の先なんて解るはずないのだが、そもそもそんな仮説は成立しないのに、解ってしまった。だってそんな戸惑いの声を上げられたらそれしかないだろう。 すっと眠気が引く。コイツにだけは観られたくなかった。ああ失態。 おれの腹に乗っかっている本、それは言葉を重ねることになりうるが主観的には今まで興味がなかった分野で、客観的にはレジに持っていったら本屋の若い女性定員に上目づかいでちら見された代物だ。だからと言って悩ましい表情をしたアイドルやらの写真が載ってるような、決していかがわしい内容の本だという決めつけは浅慮だ。なぜならばそんな本ではないからだ。断じてないと否定して、信じてもらえる自信があるくらいに普段の行いは悪くないし、そういう本は学生時代に悪いクラスメイトに無理やり見せられて以来――というのは本筋から関係ないから省略する。 「何でまたこのチョイス――」 「不法侵入は犯罪だ、藍楸瑛。人が眠っている間に詮索とは感心しないな」 パチリと眼を開けば、一瞬驚いた楸瑛はすぐに待ってたかのように人の悪そうに口元を歪めて覗き込んできた。 「おや、お目覚めかい絳攸先生。合鍵を渡されたんだから、いつでもウェルカムって判断にならない? 最後のは不可抗力。そんな目立つ本を腹に載せて寝ている君のフォルトだ」 「もういい。寝起きにお前の長口上はガンガン響いて気分が悪くなる」 「君には不評なのか。残念。私の声で目覚めたいって、引き留め女性はたくさんいるんだけど」 ………コイツの息の根を誰か止めるべきだ、と時々思うくらいは自由なのだからいいだろう。本当の所、思っているだけに留まらず偶に手が出るが、むかつくことに涼しい顔で躱されてばかりいるのだから実害はない。悔しい。 俺の腹に乗っている本。それは――。 「うわ、『ふたりはプリキュア』から…今のプリキュア? え、今ってこんなに人数多いのか。ってもしかしてアニメコミック全巻分あるのかい? おっと、解説本まであるし」 俺が今読んでいるのは「プリキュア」なる目が顔の半分まであるキラキラした女の子のキャラクターの漫画とキャラクターやストーリーの解説本だという状況はともかく。 「お前、プリキュアを知ってるのか?」 俺はとにかく驚いていた。 「え、それくらい知ってるよ。小さい女の子たちの間で大人気のアニメだろ?」 そんなの俺は知らなかった。あ、もしかして。 「お前…。まさかそんな年端のいかない幼女にも手を出してるんじゃないだろうな」 途中から険しくなる俺の声に「誤解、いや濡れ衣だ! 妹が小さい頃に一緒に観てたんだ」と言った言葉は言い訳がましく聞こえたが、そんなのどうでもいい。というか、そんなの俺が一番よく知ってる。 「とにかくそれは何でもない。俺の趣味だ」 「確かにこの『クジラの髭図鑑』だとか『マイナス・ドライバー』だとか、君の趣味かもしれない。役人文法みたいに目的語をうやむやにして話自体を霧の中に隠すのは、君の嫌いな手だろ」 「そうだったか。最近宗旨替えをしたんだ」 「敵意を感じるな。なんだか勘違いしているようだから一言君に訂正を入れるけど、気を悪くしないで欲しい。私は別に君のことをからかおうなんて思ってない」 苦笑交じりの微笑の後、真っ直ぐで優しい瞳に見返された。 なんだかやけに、バカみたいにシリアスな展開になってしまったのか? 俺がそうさせてしまったのか? 「昨日、病院で何か言われた?」 「………」 俺は今度こそ愕然として、ゆっくりと眼を見開いた。 「どうして…?」 「なんとなく。君が自分からこういう本を手に取るとは考えられないから、何かあったとしたら昨日の病院の視察だと思っただけ。あそこ小児科もあるし」 敗北宣言があるとする。完全な敗北宣言。いっそ無条件降伏でもいい。それを受け入れるときの心境はどんなものだろう。いや、受け入れるというよりか、戦う前にあきらめの境地で、つい負けましたと宣言してしまうのか? ニュートンの働く庭でリンゴが落ちたみたいに、何の気概もなく、重力が働いてストンと落ちてきたのが敗北宣言。 敵わない。 何でだろう。何で何も言わないのに、こいつは俺のことが解ってしまうんだろう。 こんな、ほかの誰にも向けない優しい顔を俺に晒して。 ――市内の大学病院が増設を決定したのが去年だったはずで、先日建築設計論的な観点から俺の意見も聞きたいという要請が入り、昨日その新棟建設予定地及び大学病院の敷地を見学して回った。その中庭で小児科が入った病棟に入院中の子供たちとばったり出会った。看護師の監視下で、数人の子供が外で遊んでいたのだ。 その中で、隅っこに座って俯いている一人の女の子がいて、なんとなく話しかけてみたのが始まりだった。知らない人に話しかけられても、応じてはいけませんという大原則を守る賢い少女に敬意を払い、しっかり名乗り名刺まで取り出し、そんなものに興味を示さない無言の少女を観客に白衣のポケットに入っていたパチンコ玉で運動の法則を簡単に解説した。 何でパチンコ玉が入っていたのかと言うと、ドクター・コースの学生が使ってる教室にパチンコが置いてあったからだ。学生から聞くと、パチンコ同好会自主製作のパチンコを、俺のゼミのちんちろりん部の学生が、花札三番勝負及び泣きの麻雀の完全勝利で手に入れた戦利品だ。取り返しに来たパチンコ同好会の会長が自主作成のパチンコで勝負を挑み負け、パンツ一丁になってゼミ室から出て行ったという噂まである。ちなみにちんちろりん部の学生は、パチンコ同好会自主制作パチンコからパチンコを巻き上げた後、即刻釘を打ち直し、一見さほどの複雑さ感じさせずに一攫千金を狙えそうに見えて実はとんでもなく難易度の高いパチンコを作り上げ、パチンコ同好会の会長はまんまと罠にはまったのだ。 ――実にあくどい。だが件の学生の自己評価は違う。 「ちんちろりんで勝負しなかっただけ、ぼくぁまだ良心的です。そんな優しいぼくぁアラシで三倍は勘弁してやって、精々ジゴロの二倍で文無しにしてやりますよ。素っ裸で放り出し新聞部を買収して、その間抜けな姿を写真をばらまいて泣かせてやりますケケケ」 俺にはさっぱり意味が解らないが、我がゼミながらとんでもない学生がいたもんだ、と感心し、彼の希望である霞が関の官僚はなかなか面白い選択だと期待――と、話が横道にそれたがその時に「先生もよかったらどうぞ」とパチンコ玉をもらってそのまま白衣のポケットにつっこんでいたのが、将来有望な少女のおかげで日の目を見ることになったという経緯がある。 それにしても俺の仕事着の白衣は、木を隠すなら森と言ったように、病院では目立たない。目立たないせいで、パジャマ姿で点滴を引きずった中年男性に声を掛けられたり、若い女性に彼女の恋人の病室の場所を聞かれたり、日向ぼっこしているおばあさんに飴玉をもらったりして戸惑ったのだが、子供たちを見張っていた看護師の眼は欺けなかった。彼女の方から近づき、「失礼ですが、どちら様でしょうか? ここ数日の申し送りでは職員の増員等はなかったと思うのですが…」と聞いてきたから、事情を説明すれば素直に頭を下げたのだった。 子供たちの信頼を勝ち得ている看護師と会話が成り立てば、少女の頑なな心が和らいで、くりくりとした瞳で見上げてきて、ここで俺は初めて気が付いた。――子供とどんな会話をすればいいんだ? 勢いで運動の法則を説明してしまったが、そもそも俺は子供と関わったことがほとんどないのであって、会話が成立するのかも解らない、こちらの言葉が通じない以上は未知の生物か、いやでも俺がこの子くらいの時は、などと不毛な回路につながった。そしてそれを断ち切ったのはその少女だった。 「おじさん、プリキュアで誰が好き?」 「ぷ、ぷり?――知らない。それは何だ?」 何かの合言葉か、と思った。時代劇で海と言ったら山、山と言ったら紅葉などと答えるやつだ。実際それは合言葉だ。少女が他人と仲良くなるための、鍵だ。 「えー! おじさんプリキュア知らないのー!? 信じらんない。おじさんつまらなーい!」 大げさなまでに目と口を開き、少女は驚き一刀両断に切り捨てた。 鍵をつかみ損ねた俺は、その足で書店へ向かったのだった。 そんなことをつらつらとかいつまんで楸瑛に話せば、ふうん、と気の抜けた返事の割に、その表情は面白そうに歪んでいた。 「何だ何が言いたいんだ?」 「君はその子を護りたかったんだね」 俺は小さいころ浮いていた。同年代の子供と話なんて合わないし、一人でいるのが好きで、意地を張っていたが時々クラスメイトの輪がとんでもなく眩しくて、その中に入れない自分が悲しくて傷付いたこともある。あの少女とそんな過去の自分を重ね合わせて、つい声を掛けてしまったのだ。 多分そんなところまで楸瑛は気付いている。また、重力に応じてリンゴが落ちた。 否定しないでいると、調子に乗った振りをして、俺の感傷を振り払おうと楸瑛劇場が開幕した。 「なるほど君はその少女に心を奪われてしまったのか。また会えるかもわからない女の子に。天然記念物並のカタブツの李絳攸先生が! その再び見える機会があるかもわからない少女Aのために、彼女の好きなプリキュアの本を何冊も買って勉強までして。そうか、そうだったのか。君が女性に興味がないことを常々疑問に思っていたけれど、単にストライクゾーンがずっと下だったのか」 一人芝居もここまでくれば、呆れ半分でついついその大げさなジェスチュアや表情を観てしまう。 「まあ確かにあの少女は将来有望かもな。十年後が楽しみだ」 三文芝居を打ち切って、まじまじと俺の顔を見つめてきたからそっけなく「うちの大学の建築学部に入ったら俺のゼミに勧誘しよう」と付け加えると、途端にがっかりした抗議の声が上がった。 「君の恋心は数式のスープの中で溶けて跡形もなくなってしまったのか」 「詩的だな。嫌いじゃない表現だ」 でも、と楸瑛。 「妬けるな」 冗談として零すが、でもあいつの中では冗談ではないのだ。馬鹿だ。 「楸瑛」 肩に手を置いて、真面目くさった表情を向ける。いや、本当に、本心から真剣にそう思ってるのだから真面目な面構えになるのだ。 「いっそのこと、俺はもうお前がロリコンだとしても構わないぞ、楸瑛」 「は? 何それ」 鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をする。 「だが犯罪には手を染めるなよ」 「え、だからなに? 全く意味が解らないんだけど。何がどうして私がロリコン? まさか本当にプリキュア知ってるくらいでそんなこと言っているのかい?」 愛らしいとは思うけど、幾らなんでも十歳未満の女の子に興味はない、あ、もしかして私は遠回しに振られてるのか、だったらショックとかなんとか。 ロリコンでも構わない。こいつがロリコンでも俺は変わらない。俺の気持ちは残念ながらそれくらいで動かない。まあ、楸瑛がロリコンではないことを知ってるからこそ言えると考えると、パチンコ同好会自主作成のパチンコを改造したうちのゼミのちんちろりん部の学生までとは言わずとも、俺も悪いのかもしれない。 なんてったってあいつが好きな奴を俺は知っている。本人に――つまり俺にばれていることを楸瑛は知っていて、それがまぎれもない本気の想いということも知っていて、でも多分俺が本気にしてないと勘違いしていて、だから俺はあいつのことを腐れ縁以上にみていないと思っている。 全く違う。それがもどかしくて、おかしくて、切なくて、少し気分がいい。 俺のことをなんでも解ってしまうお前相手なんだから、こんな大切なことを俺だけが知っている時間を少しくらい楽しんでもいいだろう。どうせなるようになった後は経験値が高い楸瑛のペースになるのだろうから、今くらい俺が余裕でいて、楸瑛がやきもきしている時間があってもいいじゃないか。そう一人で結論付けて、楸瑛の顔を盗み見ると、俺の唇は満足げにゆるりと曲線を描いた。 ――でももうそろそろ気付かせてやってもいいぞ。なあ、楸瑛。 |
2013.09.25 |