ポタリと音がした。
 往来で気付いた何人かが空を見上げる素振りをすると、それが引き金にでもなったのか雨音は一気に強まる。
 ポツポツ。
 ポツポツポツポツ。
 地面に落ちた濃い水玉の粒はすぐに大きく歪に膨らみ混ざり合う。ちょっと前までの抜けるような青空は今はもう重く分厚い灰色の雲に覆われ、ザーザーと虚空を割り裂く勢いの夕立が押し寄せていた。
 夏の終わりのまだむっとするような熱気とは反対に、雨粒はどこまでも冷たい。
 商人町の出口近くは店舗を持たない露天商たちが地面にずらっと品物を並べていて、反物や小物、大根などの野菜を片付ける彼らは大慌てだ。頭に手ぬぐいをあて、我先にと雨宿りができる町屋敷が並ぶ一角へと駆けていく人々。売り物を濡らされ、着物を汚される人々は舌打ちしながらもきゃあきゃあとどこか楽しむような嬌声を上げている。用意周到に色とりどりの鮮やかな唐傘を差している数人は、まるで一方通行のように押し寄せる人々の流れに呑まれないように端によけ、ゆったりとどこか余裕な様子で忙しない大群を眺めている。
 そんな中、川の流れにあって動くことを拒む小石のような男がいた。
 網笠を深くかぶり、俯きがちな男は真夏の空よりも深い、深海のようなかつては禁色だった藍色の衣をさらに濃い色へと変化させていた。雨粒により光沢が失われてもなお最高級品だと解る絹を纏い、それが濡れるのもいとわない。腰に佩いた剣は一目で技物だと解る妖気を発している。そして手には衣同様に藍の傘を握っているのにもかかわらず、開かれていない。
 ただの酔狂だと一笑に出来ない雰囲気。こんな男に興味本位に関わってはいけない。そう思わせるのに十分な男だ。
 だからまるで見えない壁が存在するかのようにそこだけ人が寄りつかない。
 同じように笠をかぶって下を見ながら走る男がぶつかりそうになって、文句を言おうと顔を上げてその異様な様子に慌てて後ずさり離れていった。
 ザーザーと情け容赦なく降り注ぐ粒は、全てを遮断する。
 人がいなくなり、音を奪い、気配を消し、心を冷たくし、身体を酷く重くする。
「兄ちゃん、傘差さないのかい!?」
 うひゃー冷てえや、といいながら頭に手ぬぐいを巻いた駆け足の町民が去り際に声をかけた。命知らずと言うべきか。夕立の勢いは強く、網笠で凌げる限界をとうに超えていた。男――藍楸瑛の手には傘が握られているのに開かれていないのを不思議に思ったのだろう。
 走り去る背中に向けて微笑を浮かべながら一言。
「もう遅いので」
 もの凄い雨音で尚且つ距離が少し開いていたから声が届いたのか解らないが、中年の男は一瞬振り向いてまた駆けだした。変な武官に関わってびしょぬれになるよりもこの豪雨から避難するのが賢明だ。
 楸瑛が纏う藍は残らず染まりずっしりと重くなっていた。編笠を目深にかぶっていたが、横殴りのそれは嘲笑うかのように容赦なく頬にぶつかる。
 冷たいつめたい、雨。
 心まで凍らせるような――。
 この不安定な天候はいつまで続くのだろうか。
 それが楸瑛の心を表しているのならこの先当分止むことはない。もしかしたら永遠に。
 一身に雨粒を受ける楸瑛はそっと掌中の傘を地面に向け、手を滑らせる。

 花のように美しくそれは開いた。


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