出がけにぶつかってしまった激しい夕立が去り青空が戻った頃、楸瑛は雨宿りついでに立ち寄った往来の茶屋を出た。風が吹けば濡れた身体から熱が奪われて気持ちいい。だがこれから歩く距離を思うと、それは長くは続かないと簡単に予想でき、溜息が出た。 びしょ濡れの客を迎えた店員は勿論あまりいい顔をしなかった。水分を吸って重くなった衣は借りた手拭を何枚も水浸しにして多少マシになったとはいっても、せいぜい濡鼠から半濡になったくらい大差ない変化だ。鼠も楸瑛も迷惑なのはどちらも同じ。勘定に色を付けた分、自分の方が畜生より数段上等だろう、そう思考に決着を付け満足した。 それにしたって生乾きの衣は気持ちの良いものではない。後はこの日の天気次第。厚い雲はどこかへ吹き飛んでいったし、ぶり返した熱気は水分を孕んでいるとはいえ、四半刻も歩けば湿った衣は随分乾くだろう。薄着だから尚更に。 通り雨は楸瑛を丸ごと呑みこんだ後、何事もなかったかのように去っていった。喧騒と似ている。雨粒が落ちた途端蜘蛛の子を散らすように静かになった通りも、今ではすっかり元の活気を取り戻しつつあるのだから。 傘を持っていない訳ではなかった。初めは差していたのだが、どうにもおかしい、なんだか肩のあたりが冷たいな、と思ったらそれは至極当然で、ふとその箇所に眼を向けると蛇の目の間から人が駆けていくのが見えた。藍色の世界にぽっかりとできた空間。穴が開いていたのだ。小雨ならともかく土砂降りでは誤魔化せない大きさ。そう判断した楸瑛は躊躇いなく傘を畳み、その結果が色を深めた衣だった。日光避けの編笠も横殴りの雨には敵わず、髪までやられる始末。思い出すだに何とも間の抜けた話で情けない笑い声が出そうになる。 その傘をどこかにやってしまったのに気付いたのは、しばらく歩いた後だった。心当たりがあるのは茶屋くらいだが戻る気がしなかったので手放すことに決めた。穴開き傘だ。惜しくはない。 商人町を抜けると建物がなくなり人の行き来も更にまばらになり、自然ばかりがその存在を主張し始める。 思えば楸瑛がこの道を歩くときはいつも一人だ。真夏の光に照らされた衣の藍は生い茂る緑にも負けず、目に痛い程深く、閑散としているこの小道の周辺ではとりわけ目立ちそうなものだが不思議とあまり気にする人はいない。必要以上に整っていると評された顔を隠すように笠を被り気配を消しながら背後にも気を使う徹底ぶりは、楸瑛と年齢があまり変わらないくせに所在を知られたくないと隠居した老人のようなことを言う、人相評論をした彼のためだった。 笠から覗く髪の色は瞳と同じ漆黒。その頭が少し揺れた。懐にしまった銀時計を開く。黒と見紛うような深い藍で書かれた二匹の龍が相対している文字盤は、正午を過ぎてから一刻程経っていることを示していた。目的地まであと半刻か。 一番暑い時刻は過ぎているのだが、通り雨に阻まれた熱気がその分を取り戻すように一層ねっとりとまとわりつく。 ――嫌な暑さだ。この夏は、特に。 商人町の外れから続くこの細道は周りを草木に囲まれ、しばらくは川と並行するように走っている。そこから運ばれる申し訳程度のそよ風がそれでも熱気に倦んだ人々を慰めていた。 後ろの方で女の泣く声が聞こえる。毎年のようにこの時期になると水難事故が続くから、きっとそれなのだろう。命の限り鳴き続ける蝉の大合唱は耳が痛くなる程で、儚く切ない響きが頭上から降り注ぐ。 その全てが楸瑛の心に小波を立て、沈ませる。誰が見たって気付かないほど、ごく僅かな変化。楸瑛が普段感情を御しているのを知っている者からすれば、その他大勢と同じく猛暑を疎ましく感じているだけだと判断されることもないだろう。 熱風が頬を掠める。雨で冷たくなった身体は、衣の水分もあって予想通りすぐにじっとりと汗ばみ始めた。それでも奪われる熱の方が大きい。 ふと楸瑛は思った。世界は実によくできている。雨が降れば蒸発し、出ていった水分は天へ戻る。釣り合いが取れた仕組だ。例えどんなに偉い地位にいようとも影響力を持っていようとも、この世には楸瑛の手では変えられないことが沢山ある。ありすぎる。 人里から完全に離れ、なおも歩くと樫林が行く手を阻むように広がる。それを抜けると一気に視界が開け、まるで忘れられたような場所にそのあばら家はひっそりと楸瑛を待っていた。一見すると無人の家かと思うが、主をなくした建物の荒廃は早く、それとは違うと解るくらいに間口は小奇麗にしてある。でも近くに民家はなく町までは徒歩で半刻程という立地が、この家の住人は人嫌いではないとは知っていても苦笑を禁じ得ない。 ――着いてしまった。 前もその前ももっと前も。楸瑛にとってこの家を訪ね家主と語ることはずっと楽しみでしかたなかったのに、今は憂鬱のほうが大きい。それでも彼ならという思いは捨てきれない。 後悔、諦め、希望。ぐちゃぐちゃに混ざり合って楸瑛は何が何だが自分でも解らなくなる。途中から鉛のように重くなった足は遅くなっても止まることはなく、吸い寄せられるように間口の眼前まで来ていた。 この段になって往生際悪くせめて彼がいなければいい、と思えるほど朝廷で将軍職を預かる楸瑛は無能ではない。家の中で人が動く気配がする。意識せずとも感じ取ってしまう敏さは、時に疎ましく恨めしいものだ。 一度深呼吸をした楸瑛は覚悟を決め、引き戸に手を掛け音を立てて開けた。 夏だというのに窓が閉められた室内は薄暗く、何故だか涼しい。三和土の向こう、少し離れたところに白い横顔が浮かび上がる。楸瑛の訪いに気付いているだろうに珍しい銀糸を持った男は手元の塗られた漆が黒く光る木組に真剣な目を落とすだけで、客人には無視を決め込んでいた。まるで空気の様な扱いはいつものことで、楸瑛はそれに安堵した。 以前と変わらぬ彼に。もしかして楸瑛が訪ねてきた訳を彼ならとっくに気付いているかもしれない、と思っていたから表面上変化が見受けられないことにほっとした。 この家を去る頃にはどうかわからないが、と自虐的な思いを胸に秘めながら。 「久しぶり、絳攸。元気そうで何よりだ」 笠を脱いで声を掛ける。いつの間にか雨に打たれた全身は随分乾いていた。 片膝をたてて作業している絳攸はようやくかなり億劫そうに顔を上げ、楸瑛を見た。 射殺されそうな鋭い視線とぶつかった瞬間、僅かに目を細めるのは楸瑛の癖で、それを受けた絳攸がさらに眼を釣り上げるのもいつものことだ。 「今すぐ帰れ。二度と来るなと言ったはずだ」 取りつく島もない様な言葉にも楸瑛は臆さない。この家に度々通うようになってからというもの一度も歓迎されたことがないから慣れたものだった。つまりは舞台での決まり文句と同じ。痛くも痒くもなく、むしろ心を弾ませる力を持っている。 「私の足が遠のいていた間、君に寂しい思いをさせてしまったんだね。済まなかった。罪な私を許しておくれ、愛しい人。どうか機嫌を直して私の相手をしてくれないかい」 「その三文芝居より下手で不愉快で観るにも聞くにも堪えない遊戯を止めろ、今すぐにだ。役人が真っ昼間から庶民の商売の邪魔をしに来るほど暇だとは本当に腹立たしいな。税金泥棒め。変な噂がたって商品が売れなくなったらどう責任を取るつもりだ」 「君が冗談を言うなんて私たちの仲が深まった証拠で嬉しい限りだ。もし君の商売が立ち行かなくなった時は私が君をお嫁に貰うから心配いらないよ。それに私は武官が暇な世なんて平和で理想的だと思うけど、君は激しいのが好みなんだね」 クスッと笑うと、苛立たしげな声が返ってきた。 「冗談を巻き散らしてるのはどっちだ。ただでさえふざけた顔をしてるのにもっともらしく戯言を吐き散らすな。暇を持て余しているなら軍の数を減らしたらどうだ。そして浮いた人件費の分税率を下げろ。そしたらちょっとは歓迎してやろうと考えないこともない」 君、どんなことがあっても絶対歓迎なんてしてくれるつもりないよね、と言う代わりに楸瑛は肩をすくめて室内に上がり込んだ。正論だろうと異論があろうと武官である楸瑛が口出しすべき問題ではないし、絳攸も返答を欲しい訳ではない。 案の定絳攸は既に楸瑛に興味を失って、再び緩やかな円錐型の木の枠組みへ視線を注いでいた。彫刻のような横顔が喋る。 「何よりもその派手な格好でこの辺をうろつくな。目障り極まりない」 「ここで脱げって?日の高いうちから君も大胆だね」 では期待にお応えして、と言い終わる前に何かが楸瑛の顔めがけて飛んできた。殺気が籠っていたので避けた後で確認すると、壁に突き刺さっていたのは小刀だった。小さく聞こえた舌打ちを発した人物と凶器を交互に見つめ、「危ないね」と呟いた。 「気配を消して目立たないように努めたし、尾行にも気を付けたよ。道も何回も変えたし。それでも嗅ぎまわることが出来る人物なら相当な腕だろうね。ならばいくら君や私が用心したっていずれ見つかることくらい解るだろう」 諦めなよ、という様なことを言っておきながら楸瑛はいつもヒヤリとする。 問題はどっちを狙っているかだ。 注意された衣に眼を落した。今でこそ僅かな湿り気のせいで鈍色をしているが、本来ならばさらりと音がしそうな布は一転の曇りがない深い藍で染め抜かれている。一目で高価だと解る代物だ。だが金目当てでも他の理由でも楸瑛が狙われる分には問題ない。幼少より武芸を嗜んできた楸瑛はよほどの相手じゃない限り倒せる自信がある。 そう、問題は――。絳攸はもう仕事に戻っていた。 黒い木の骨組みに糊を塗り、紅い紙を張り付けていく。寄れないように伸ばしながらするその作業がザ、ザ、ザという擦れた音を生み出す。閉め切られた窓は風によって舞い上がった塵が付着するのを防ぐためだ。 李印の傘。柄の部分に李の印が付いている紅い高級唐傘が王都を中心に大いに流行っている。職人の正体は秘密にされているが、実はそれを作っているのが絳攸なのだ。 着流し姿で傘を仕上げていくのが色っぽい。ちゃんとした服に着替えていないから、今日は彼を師のように慕う少女や、彼女と同じくらい彼を尊敬している納入を請け負う金髪の少年は来ないのだろう。大貴族の直系で今年入朝した彼女たちのことを考えれば、なるほど絳攸のもう一つの商売は叩けば埃が出るのは間違いなく、彼と関わりがある彼女らの将来を考えて何か言ったのかもしれない。そんなことを思った。だが会話の端々から絳攸の頭脳がずば抜けて高く、幼少より優秀な師範に師事し十分な教育を受け、文官として働いていた経験がある楸瑛でさえ暫し舌を巻く。敵わない、そんな気持ちを久しぶりに味わった相手なのだから、幾ら叩こうが、振り回そうが証拠は一切ないのではないか。だからこそ政府の犬呼ばわりする楸瑛のことを本気で拒まないのだ。 真剣な顔で紅い紙に向き合う絳攸はそれでも傘職人で、捲りあげられた袖から覗く白い腕は楸瑛の物より幾分細い。 「君に何かあれば私が助ける。約束するから知らせてくれ」 意図せず低い声になっていた。それだけ絳攸は楸瑛にとってかけがえのない存在になっていることに今更ながら戸惑う。 「いらん。争いなら余所でやれ。俺はまだこの家を手放すつもりはないから厄介事は持ち込むなよ。つまり一番厄介なお前が来なければ大部分は解決する」 絳攸は手元に集中しながら何かを投げつけた。今度は殺気を感じなかったので楸瑛は小さなそれを受け止め、掌を開いてみると細長い竹の木片だった。どうやらもっと役立つことをしろというお達しらしい。苦笑しながら壁に刺さった小刀を抜き、勝手に引き出しを開けて同じような木片を持てるだけ持って三和土の隅に置いてある切り株のような椅子に座った。 小刀を木の棒にあて、先を尖らせるように何度か滑らせる。鋭角過ぎず、鈍角でもない微妙な加減。棘が出ないように仕上げたら楊枝の完成だ。 武官の内職は表向きは禁止されているが下級の者たちは薄給に喘ぎ、内職をしてようやく糊口を凌いでいるのが現状だ。もし内職禁止を徹底したら反発も出るだろう。だから朝廷は目を瞑っているのだ。 勿論将軍職を務める楸瑛は給料だけで十分食っていけるし、上に立つ者が規律を破るのは問題だ。でも楸瑛が楊枝づくりに精を出すのはここを訪ねたときだけで、金のためにやっている訳でもないし絳攸は隠者のような暮らしをしているからバレることはないだろう。罪悪感などない。 また何かが飛んでくる気配に、振り向くと布の塊だった。問うような視線が見えているはずがないのに、絳攸は淡々と言った。 「お前から濃い雨の匂いがする。寝込みたくなければそれを着ろ。ボロは嫌だとかふざけたことは言うなよ藍将軍。文句は一切受け付けない」 「言わないよそんなこと。ありがとう」 絳攸がふんと鼻を鳴らしたのが可笑しかった。 乾ききっていない衣に手を掛け、チラッと確認すると絳攸は相変わらず傘に夢中だ。水分が滲み込んだ襦袢を脱ぎ、渡された着流しに袖を通した。この部屋の温度は低い。生乾きの衣ではいずれ限界に達するだろう。そしたら絳攸は「夏風邪は馬鹿が引く」とでも嘲笑うかもしれない。ただし不機嫌なのを隠しきれない顔で。 絳攸は楸瑛が来るのを快く思っていないが、楸瑛はあばら家に来る度に楊枝づくりを仰せつかっていた。追い出すつもりなら、楸瑛に衣なんて貸さなければいいのに。そんな命令なんてしなければいいのに。 ――結局絳攸はそうやって許すのだ。 こんな風に不器用な優しさを見せられるから楸瑛は通うのを止められない。 さすがに濁酒をちびちびやりながら楸瑛が作る楊枝が納めている菓子屋で好評らしい、と聞いた時は少々複雑だったが。気になって後日その菓子屋まで行って、実物を拝んできたのは絳攸には秘密だ。その楊枝を捨てないでしまってあるのも。 椅子に座りなおし、再び小刀を取る。己の滑らかな手つきを見ると楸瑛は本当に上達したと半ば感心し、呆れた。 一介の傘職人ごときが楸瑛に楊枝作りを命じるなんて命知らずというか恐れ多いというか。世間一般はそういう感想を描くだろうと思うと胸がすっとするような楽しさが込み上げる。悪戯仕掛けた子供と同じような感覚だ。 藍楸瑛。その名は重い意味を持っている。楸瑛の生家藍家は常に権力の中心にいた大貴族の直系で、おまけに楸瑛の実の兄は現当主の座に就いている。楸瑛の纏う衣の色が禁色とされ権力と結びついていた時代は少し前に終わったが、それでも好んでこの色を着ているのは愛着というより矜持だ。禁色の制度だけではなく、貴族に付与されたさまざまな特権も廃止されたが、それでも藍家は今でも方々に強い影響力を保持し続けている。 そんな自分がまさかこんな特技を身につけるとは――。兄弟は面白がるだろうが、分家などはいい顔はしないだろう。知ったことじゃないが。 楊枝を削る手を止めて後ろを振り返った。 日に焼けてしまった畳には仕上がった数本の傘とまだ作り途中の骨格が並べてある。 晴れた日には、あばら家の前が天日干しされた傘によって一面深紅に染め上げられる。その光景は圧巻だ。 ――李絳攸。当代一の傘職人。 絳攸の作る傘は実に見事の一言に尽きる。通常の紅無地の唐傘とは違い、全てに蝶や花の模様が上品にあしらわれていて工芸品と言っても差し支えがない美しさを持っている。実際好事家がいるような話を耳にしたことがあった。傘張りといえば貧乏武官の内職と相場が決まっているが、李印は職人技だ。値段に幅はあるものの一般庶民が迂闊に手だしできる代物ではないため、この紅傘を持つのは上流階級やそれに類似する力を持つ者とされていて、そこまで含めて特に女性たちの羨望の的となっている。 そんな稀代の傘職人、李絳攸は自分が作り上げる唐傘の値段に相応しいと思えない侘しい住まいに身を置き、信頼が置ける者だけに納入を任せひっそりとただひたすら傘を作っている。 ――訳ではなく、それは表の顔だ。 「今日はもう出てけと言わないんだね。珍しい。何かいいことでもあったのかい? あ、もしかして私が来たから?」 「何かあったのはお前の方だろう」 不意を突かれて一瞬言葉を失った。 「どう、して…」 「その台詞は鏡を見てから言うんだな」 言葉に詰まった楸瑛は、狂ったように嗤いたくなった。何故。何で解ってしまうのだろうか。どうして絳攸はこうも優しいのか。今に限って。あからさまに促すのではなく、自然にそういう空気にしてしまう。甘えてしまいそうになる。 楊枝作りを中止して絳攸の正面に座った。絳攸の手によって張り付けられる紅がまるで二人の住む世界が違うことを示すように横たわっている。 「絳攸、頼みがある」 何かを抑え込むような低く、硬い声音。滅多に見せない真剣な表情。そのどれもが楸瑛の抱える問題の重大さを物語っていた。 楸瑛がここに来た理由。それは――。 返事は返って来ない。勝手に話せと意味だろう。 ザ、ザ、ザ。 傘が紅く染まる音だけが響く。 このまま本題に入ってもいいが、それではあまりにも卑怯なので楸瑛はやめた。絳攸とは適当な付き合いなどしたくない。次の一言で利害関係が生じてしまうのだからせめて信頼だけは残しておきたいというのは勝手な願望で、大切な一線だ。 「――君にひと仕事して欲しい」 絳攸の手元には微塵の狂いもない。聞こえていないのではないかと疑ってしまいそうだが、楸瑛はただその作業をじっと見守った。 一本分の傘の和紙を張り終わった後、光る瞳が楸瑛を映した。 「藍家が関わるのか?」 楸瑛はぎこちなく頷く。 絳攸の顔が明らかに曇った。 解っている。いまだに強大な権力を持つ藍家に関わって眼を付けられたら大事だ。それこそこの家を手放すだけにとどまらず、地の果てまでも追われかねない。 ――それでも。 「助けたい人がいるんだ。でも藍家に縛られている私には悔しいがどうすることも出来ない………。だから絳攸、君の力を借りたい」 こんな絞り出すような声を出したのはいつ以来だろうか。人に頭を下げたのも随分と久しぶりな気がする。そうしているから絳攸が今どういう顔をしているのかが解らない。 風の音もしない沈黙がただ重かった。絳攸が口を開く気配がして肩に力が籠った。 「言ってみろ」 驚くほどそっけない、軽い声。楸瑛は驚いて顔を上げた。断られると思っていたのに。 「勘違いするな。聞くだけは聞いてやる。それからだ」 「絳攸…」 嘘だ。依頼の内容を聞くと言うのは仕事を引き受けるのと同意だ。 絳攸のいつもと変わらない少し不機嫌を装った顔を見て、楸瑛は泣きたい気持ちを抑えて力なく微笑んだ。 正攻法では到底手出しが出来ない様々な依頼を、裏から手を回すことで表の世界の問題を解決してしまうのが絳攸の本来の姿だ。 彼の組織の全貌は明らかではないが、必然的に被差別民が多いような節があるかと思えば朝廷に精通しているものも数名いるらしい。表と裏を結ぶ線。その橋渡し役。 何よりも藍家で最高の教育を受けた楸瑛さえ叶わないと感じる頭脳を持った絳攸そのものだ。その使い道を喉から手が出るほど欲している貴族や商家は五万といるだろう。だから隠者のような生活を好むのか。 藍家出身で武官である、身元が明らかな楸瑛はこれまで数回進んで絳攸と関わりを持とうとし、立地などが都合のいい宿を取る場合などに多少手を貸してきたがそこまでだった。恩に着せよなんて思ってないしそもそも楸瑛がいなくても絳攸ならどうにでもしてしまえるような援助だ。絳攸にしたって偶々楸瑛がいたか利用しただけだろう。裏手も裏手で楸瑛の理解が追い付く前に解決済み。手出し口出しなど出来ようもない。楸瑛が裏の世界に深くかかわったことなど一度もない。せいぜい絳攸を通して覗き見ただけだ。 仕事の依頼をするのは初めてのことで、闇の中心からは遠いまでも以前よりも近づいた気がしてならないのだ。 だからかもしれない。 何かが変わる。そんな予感が楸瑛に翳を落とし不安にさせた。 一幕:傘作りの絳攸
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一 | 三 |
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