外からの光を嫌うように掛けられた布が、日中だというのに室内を薄暗くしている。寝台と大小の棚、文机や手燭。簡素だが決して質素ではない広々とした客間といった様相は、その明度だけでどんよりと籠った空気を持っているが、それでもこの空間を荒寥とさせているのは十三姫の存在だった。 ささやかな息遣いはほんの僅かに空気を振動させ続ける。意識ではなく無意識で自然なそれは、そのまま生命力を表しているように儚い。 寝台に横たわった十三姫の眼は、真っ直ぐ天井に向けられていた。だがそこに描かれている美しい絵などまるで映していない。虚ろな焦点が時折偶然に合わさるその瞬間だけ像を結んだ。でも意味をもつ前に再び霧散する。閉じなければ視界は遮断できないはずなのに、解らない。いくら見えていても頭が考えなければ何事も意味を成さないのだ。ただ無意味な世界が広がるばかりだ。 十三姫――。名の通り十三番目の姫。子供が多い藍家で十三番目に産まれた女の子という意味しかない子供に、色々与えてくれた人がいた。その人から大切なものを何度も取り上げてしまった十三姫は、申し訳なさに幾度も押しつぶされそうになりながら、その頃はよく考えて、泣くくらいなら笑おうと決めた。直系ではないが暗い過去をめったに感じさせないよう、よく声を上げて笑い、時には怒りその真っ直ぐな性格で当主を含める五兄弟に愛されていた。 それが今は落ち窪んだ眼窩と濃い隈どり、こけた頬が憔悴を表し、かつての天真爛漫だった少女は見る影もない。生きることに倦み、死期をひっそりと願うようになった病人のようだ。見る人を辛くする変化に、この屋敷の人々は心を痛めているのだが、今の十三姫は彼らに痛々しい頬笑みさえ向けることなど思いつきもしなかった。 十三姫は藍家とは血縁関係にない、貴陽のある商家に預けられている。こんな状態だというのに、誰ひとり藍家からの見舞いはない。寂しさを感じるものの一人にしてくれという気持ちの方が大きいから、正直ほっとしていた。 御史台の調査は思いをぶつけようと身構えていた分、拍子抜けするほどほどあっさりと終わり、既に朝廷からの監視は解かれている。それは決定が覆らないことを宣言しているのと同義だ。証人喚問でさえ碌に口をはさめなかったのだ。もとより十三姫に出来ることなどこれっぽっちもなくて、今更何をしたって絶望しか残らない。 扉が開かれる音にピクリとまつ毛を震わせる。首を動かす力すら失っていることに気付き、ならいっか、と諦めた。 商家の家人が食事を下げに来たんだと思った。 申し訳ない。 鈍りきった思考で、毎日手付かずの食事を用意してくれる料理人や、精神面を気遣って香をたいてくれる家人に心の中で謝った。そこに損得勘定が全くないとは思わないが、それだけではないことは彼らの顔から、伝わってくる。 でもどんなに頑張っても食欲はあの日以来戻ってこないし、匂いを嗅ぐだけで吐き気を催すことも多い。料理人はそれに気付いてからは香りが強くない食材を使った料理を届けてくれるようになったが、それでも駄目だった。 悪夢が邪魔をして碌に睡眠も取ることができない。 毎日苦しむくらいなら――。どうすることもできないなら、だったいいじゃない、と意識的に寝なくなってから、ますます力がなくなった。何かがこぼれ落ちていく。初めはキリキリと疼痛を伝えたが、やがてそれも消えてしまった。 結局、生きる気力が一切ないのは十三姫の責任で、この家の人たちは悪くない。だからもう見限ってくれれば楽になれるのに、と自分勝手な思考に酷い、と嗤いたくなった。 無機質な心なんてないただの塊になりたかった。 放っておいてほしい。 でも十三姫が心の底から強く願った望みは叶わない。いつだって。幸せなんて待っていても来ないと気付いてからは、自分から動き手に入れようと努力したし、それを手放さないように強くなろうと誓った。だから剣術の練習を沢山したし、馬術も頑張った。目の前を通り過ぎようとするものを捕まえられるように、そして自分で守れるように。でも、大切なものはいつだって、意に反して簡単にすり抜けて行く。それがいかにかけがえのないものかを知っているから、必死に離れていかないよう握りしめていたのに。駄目だった。――今回もダメだったのだ。 瞬き一つが酷く重い。この瞬間まで目を閉じるという行為を忘れていたから、乾ききった表面が酷く染みた。 暗転。 ――もしこのまま見えなくなってしまったら。 それでもいい。それで何かが変わる訳ではないけど、一つ捨てれば一つ戻ってくる。希望を捨てずに済むかもしれない。その考えに馬鹿な、と自嘲しながら同時に楽にして、と切に願う。 空っぽだ。十三姫は酷く疲れきっていた。このままゆっくりと溶けてなくなってしまいたかった。そうしたらきっと楽になれる。これ以上傷付かずに――誰も傷つけずに済むように。 声がかすかに聞こえた。誰かと誰かが話しているようだ。内容は解らないし、知る気もない。でも耳は塞がなければ音を拾ってしまうから、眼と違って面倒だ。少し前までは気配だけでいろんなことが解ったというのに、今は指一本動かすのですら億劫で、あの時ああしていたら、とかいろんな――ありもしないことを仮定して、何度も何度もし続けて。その度に絶望して。考えることを放棄した。ただ毎日終わりが来るその長い時間を、起きているか寝ているか曖昧なまま待っているだけだった。 なのに。 「十三姫」 聞き覚えのあるそれ。耳に良く馴染んだ――。 鈍った思考に冷たい水を浴びせられたように、十三姫の中にその声は鋭く届いた。 直ぐに声の主を確かめたかったが、今まで閉じていた瞼を再び押し上げるのに苦労をして、ゆっくりになってしまった。食べ物と睡眠を拒み続けていた体を、この時ほど憎いと感じた瞬間はない。 「十三姫、聞こえているかい?」 もう一度名前を呼ぶ優しく、落ち着いた低い声。 やっと開いた眼には、その声と同じように穏やかな微笑みを浮かべた想像通りの男が映る。そっと十三姫の骨ばってしまった手に自分の掌を重ねて、そこから伝わる体温が胸を詰まらせるほど温かくて、とても痛い。でも振り払うことなんてできなくて――。したくなくて。 「何日もご飯に手を付けてないというのはどうやら本当のようだね。しっかり食べなければダメだろう」 自分がどんなふうになっているのか、鏡をずっと見ていないから知らないが、酷いというのは解っている。それなのに、眉を寄せることもせず触れてくる。 「楸、にいさま…!」 今までも少し困ったように笑っていろんな我儘を許してくれた。 十三姫にとって大事なだいじな人。 抜け作で詰めが甘くてぼんぼん丸出しで楽天家で――。 でもいつもいつも十三姫のことを大切に思って、愛してくれた人。眼差しや言葉の端々からそれが伝わってきて、嬉しくて仕方がなかった。 半分の血の繋がりだけで、それ以上の物を沢山くれた大好きな兄さま。 「なん、で…?」 どうしてここに楸瑛がいるのか。 泣き叫ぶのを止めて以来、初めてまともに発した声はかすれていて、上手く音にならなかったがそれでも楸瑛は解ってくれたようだ。 親友を奪った妹を責めるためなのか、という思考が脳裏をかすめ、怖くなった。違うなんてことは楸瑛の顔を見れば一目瞭然なのだが、そうされても仕方がないことを十三姫はしてしまったから、もしかしたら、と疑ってしまう。楸瑛にまで見放されるくらいなら、姿など見たくないのに。 大好きな人にすらそう思ってしまう自分が酷く汚い。嫌いだ。 自分が消えてしまえば幸せになれるのだ、と。 「この家の主人から君が酷く衰弱して見ていられないと聞いて駆け付けてみたら…」 楸瑛はもう少し早く来ればよかった、と悔しそうに呟いた。 「一番自由が利く私が来たけど、龍蓮や兄上たちも君のことを心配しているよ。……十三姫。今まで側にいられなくて、心細かっただろう? もう大丈夫だ」 優しさが沁み渡り温かいなにかが頬に伝う。 鉛のように重くて動かなかった上半身は軽々と引き起こされ、幼子を包み込むように抱き締められた。 不思議なくらいぽろぽろととめどなくあふれる十三姫の涙で、楸瑛の衣の藍が濃くなった。久々に動かした躯が苦痛を訴えるのよりも胸が張り裂けそうで痛くていたくて――。空っぽの心は中身がない分壊れやすいのに、そこにゆっくりと満たしていくものがあるのに気付く。 「に、にいさま兄様…! 迅が…! わたしのせいで、迅が…! ごめんなさい兄様! ごめっ…なさい…!!」 張り付く喉を震わせながら、思わず叫んでいた。 「ごめんなさい…!」 「――違う。君のせいではない、十三姫。君は悪くない。どこも悪くない」 背中に回された僅かに手に力が籠ったのが伝わるのに、それでも楸瑛の声の調子は変わらない。十三姫はハッとした。降ろされた手に力で寝具を掴み、唇を結ぶ。 そんな言葉が欲しいんじゃない。でも十三姫はなにも言えなかった。今まで自分だけが辛いと思っていたが、そんな訳ないではいか。迅と楸瑛は幼馴染で十三姫が妬けるくらいに仲が良かったし、迅に目をかけていた祖父だっている。楸瑛だって悲しくないはずがないのにそれすら解ろうとしなかったのか。自分勝手な理由から責めてもらいたかったなんて。酷い妹だ。 でも。いくら最低でも。――やっぱり楸瑛がいい。 我慢したが涙が出てきて言葉にならないから、一生懸命思いが伝わるように代わりに首を左右に振った。酷く緩慢な動作にしかならないのが心からもどかしい。 背中にまわされた腕がきつくなる。その力強さにすがると、堰を切ったように喪失感が押し寄せてきた。 誰にも何もできない。 答えなど解っていた。それこそ何度もあの時の自分を呪って、やり直せるなら、と疲れるほど考えたのだから、頭では決着が付いている。でも心だけが取り残されていた。 役人以外の誰かに、十三姫と迅のことを知っている人に、二人と親しい誰かに聞いて欲しかった。慰めて欲しかった。慰められても埋まらないと知っていても。自分が酷く身勝手で浅ましくて――嫌悪して。 ――親殺し。 十三姫を守るためだったとしても婚約者の犯した罪は重く、それを作り上げた自分に咎めはない。掌からすり抜けた温かなものは、あと数日で完全に消えてしまう。せめて生きていてほしかったと口にしたら笑われるだろうか。彼に罪を起こさせ女がどの面下げてそんなことが言えるのか。でも、二人で築き上げる幸せは諦めても、彼がいないというのには耐えられない。はず、なのに。 きっとこのまま残されて、それでものうのうと生きてしまう。 しゃくりあげる十三姫は久しぶりに少しだけ緊張が解け、余計に涙が止まらなくなって貯め込んできたすべてを吐き出すように楸瑛の腕の中でただ嗚咽した。優しく包まれながら子供みたいに泣きじゃくった。数々の思い出の場面が浮かび上がり、でも結局は全部ごちゃまぜにして。 だから感情の機微に敏いはずの十三姫は背中にまわされた楸瑛の腕が何度か震え、表情にどこか翳りがあることに気付けなかった。 呼吸が落ち着いてくると、まだ放心状態の十三姫は頭の中が空っぽになってちょっとすっきりしていることに気付いた。いろんな生産性のない考えが涙と一緒になって流れてしまったようだ。体も軽い気がする。 半分は自分のために泣いた。勿論まだ悲しいし、どうしていいか解らない。婚約者の顔を思い浮かべるだけで泣きそうになるが、寝込んでいた頃よりマシだ。今までだって泣くのを我慢していた訳ではないけど、言いたいことを素直に口に出すという行為をどこか躊躇っていた。迅が片目を失ったのも廃嫡されたのも、今回の件も何もかもが自分のせいだと責め続けていたから、悲しむ権利なんてないと唇を噛みしめ、耐えていた。 楸瑛の胸に頬を押し付けていたら途中から思いっきり甘えたかったのを見透かされたのか、にぽんぽんと頭を叩かれた。ちょっと悔しくてでもその何倍も嬉しい。楸瑛に子供扱いされるのは嫌いじゃないから。 顔を上げると幼子と向き合うような笑顔にぶつかり、そのまま目じりに残っていた雫をぬぐわれた。もう一度今度は頬を楸瑛の胸に押しつける。力が戻ってきたのを感じた。 「いつまで子供みたいに甘えてるつもりかい。十三姫? 君はもう十八だろ」 「兄様のケチ。久々に可愛い妹に会えてうれしくないの?」 十三姫のガラガラ声に楸瑛は嬉しそうに笑いながらうれしいよ、と言った。甘やかしながらも十三姫に区切りをくれる。だから顔を上げることが出来た。 「ほら水、お飲み。お茶の方が良いかい?」 「水でいいわ」 室温で適度に温まっているから苦なく喉を通りぬけ、あっという間に飲み干す。こうしてまともに水分を取るのも久々で、一口水を含んだら喉がからからだと気が付いた。 「もう一杯ちょうだい」 湯呑を渡して促す。それも直ぐに空になった。 「さて、次は食事だ」 視線の先を察した楸瑛の言葉に、うん、と頷いた。実際今まで抱かなかった空腹感があった。 「いい傾向だ。でも無理はいけない。一口でもいいからゆっくりと食べれるだけお食べ」 死のうと思っていた人間が呆れる――。多少の切なさを感じながらも十三姫はそうやって割り切っていける残酷さを受け入れ始めた。 もう一度うん、と言うとくしゃりと頭をかきまぜられた。楸瑛のこういうところが大好きだ。 寝台の背もたれに寄りかかりながらお粥を一口すすると今まで湧かなかった食欲が出てきた。もちろん全部は入りそうにないが、ゆっくりと少しずつ腹に収めていく。 今でも胸にぽっかりと穴があいているけど、生きることに前向きになったのを実感した。きっとこの先何度も絶望して苦しむだろうけど、あの日からもう沢山涙は流したから生きることまで手放すことはないだろう。 腹が満たされると久しぶりに体が内側からぽかぽかとしてきて気持ちいい。手も足も動かすのが億劫で抗いがたい睡魔が襲う。体は生きることに――心に正直だ。 「疲れかい?」 「眠いわ。――だから早く、楸兄さま」 瞼が下りそうになるのを必死にとどめた。楸瑛が十三姫に会いに来たのは妹を心配して、という意外にも何かあるような気がしたからだ。 「十三姫」 楸瑛の緊張を含んだ硬い声質は、単に見舞いに来ただけではないことを示している。目で問いかけると、楸瑛は一瞬そのまま泣きだすのではないか、というような顔をしたから驚いた。一瞬のことだから断言できないが、楸瑛があんな顔をするはずがない。きっと見間違いだ。でも十三姫の鼓動は早まった。 頭を引き寄せられ抱きしめられる。それは去り際の抱擁ではない。用心のため。そっと耳に寄せられた唇がそれを物語っている。よっぽど聞かれたくないことなのだろう。 そしてささやかれた言葉に十三姫は大きく目を見開いた。それだけではなく眠気は吹っ飛び声を失った。 顔と目を少し動かしてその真意を確認しようと試みても、吸い込まれるほどの深淵を認めて、その暗さにくらりとした。冷徹な目。妹に向けるものではない。ただ十三姫という人間の心を見極めるような。 心臓がばくばくする。気付かれぬよう唾を飲み込んだつもりでも、喉が鳴った気がした。 聞き間違えじゃないだろうか、自分の幻聴かと何度も疑う。 まさか楸瑛が――十三姫の事を一番気に掛けてくれた兄がこんなことを言うはずない。でも。楸瑛の声で、同じ言葉が何度も何度も頭の中で鳴り響き、混ざり合って不協和音を奏でる。 眩暈がするような誘惑。突然高い所に降り立ったような耳詰まり。いつの間にか背中じっとりとに汗をかいていた。 頭の中で警鐘が鳴り響くが、何に対しての警告なのか――。 どうすることも出来ないまま、十三姫がじっとしているとゆっくりと抱擁が解かれた。 何処を見てもいいか解らず、結局硝子玉の闇に捕まった。 血が半分しか繋がっていない楸瑛と十三姫のいくつかある共通点の一つ。それが全く知らない誰かのような色をしていて、怖い。楸瑛のことを――大好きな兄のことを十三姫はこの時初めて恐ろしく感じ、そんな自分に戸惑った。 言葉を。何か言わなくては。 気持ちだけが急いて、混乱する心の底にある言葉をつかめない。 そんな十三姫をしばらく見つめた楸瑛は、ふいに他人から兄の顔へと戻った。温かい――それでも新たな一面を知ってしまった故にぞくりとする微笑みを浮かべて。空気がピリピリとするような痛いほどの緊張は一瞬にして解けたのに、鳥肌が消えてくれない。決してとりつくろっている訳ではないのに、楸瑛が何故あんな話の後でこんな風に笑えるのか理解できない。 「さて、これ以上いても君の体に障るだけだろうからもう帰ろう。これからもしっかり食べてしっかりお休み」 「解って、いるわ」 下の上に広がる苦味は消えない。きっと、何かある。危険ななにか。それを冒して手に入るものは――。 「兄様。あの――――」 「ああ。心配しなくても明日もまた来るよ。一週間休暇をもぎ取ったから時間はある」 ――それまでじっくり考えなさい。 暗にそう言われている気がして、ぎこちなく首を縦に振った。 最後にもう一度だけぽん、と軽く頭に手を置いた楸瑛のきらびやかな衣が翻るのを最後まで目で追って、十三姫はようやく肩をなでおろし目を閉じることが出来た。 独りぼっち。温まる身体とは反対に、脳みそは冷え切っている。何度も何度も同じ言葉を繰り返し思い出し、考えても楸瑛の真意が掴めない。震える肩を寝具の中で抱きしめる。 疲れ切った全身が思考を鈍らせ、酩酊するように眠りに落ちたのはしばらくしてからだった。 暗闇の先に見える光。泣き叫びながら必死に手を伸ばしても届かないその中心に見えるのは――愛している相手だった。 張り裂けそうな絶望の中で十三姫はもう一度兄の声を聞いた。 ――十三姫、迅に会いたいかい? あいたいかい、あいたいかい、と何度も耳の中にこだまする残酷で――。甘い声。 伝説の一場面を描いた天井に向けられた十三姫の瞳は涙にぬれていた。 答えなどとっくに決まっていのになぜ問うのか。 上半身を起こし、寝台の横に置かれた水差しの水を杯に注ぐ手が震えて、水がこぼれる。広がって行く透明の液体は台の端を伝い絨毯に沁みを作った。 自分の意志ではどうにもならない手の震え。 楸瑛の笑顔に感じた違和感の意味は――。 ――迅に、会えるの? まさかそんな、とすぐさま否定すると同時に、会いたいと強く渇望する。混乱。否定とその打消しを何度も何度も繰り返して――もう限界だった。必死に見て見ぬふりをし続けたのに。もう誤魔化しなんて効くはずがない。自分をだますことなど出来ない。気付かされてしまったから。 ――迅に会いたいわ。 とても。どうやってでも。離れたくない。おいて行かないで。一緒にいて。ごちゃごちゃの感情が堰を切ったかのようになだれ込み、もう抑え付けられなくなり、自分をこういう風にした大好きな楸瑛をこの時ばかりは恨んだ。 ――求められているのは覚悟だ。 あの、深海に沈む氷のような眼を思い出す。 「もう疲れたわ……」 ぽつりと呟いた言葉は静まり返った部屋にやけに大きく響いた。 ※ ※ ※ 数日後、十三姫はいなくなった。多少の食事や睡眠を摂取するようになったからといって、未だ衰弱していたため警備の緊張がゆるんでいた隙をつかれた。 さらにその二日後、十三姫だったモノが川に浮かんでいるのが見つかった。ゆらゆらと青い衣が水に揺れているのを、残暑で腐敗がすすんだ躯を楸瑛は痛ましい視線で見つめ、そっと目を背けた。 ――君はこの世から消えてなくならなければならない。 意味するのは十三姫の死。 そう伝えた時驚きでゆるりと見開かれていく大きな瞳は、直ぐにクッと意志の強さを取り戻し、それを向けた十三姫の顔が離れない。 これが妹の答え。 大好きな、愛しい妹の、死。 ぽつりと最初の夕立の一粒がその頬を濡らす。冷たい雨が心にずんと溜まっていく。感情をぶつける場所を失った楸瑛は、静かにただ何も考えを持たないまま天に祈った。 迅の処刑まであと一週間という時に起きた悲劇だった。 二幕:空蝉の十三姫
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