――そうして身分違いの恋に引き裂かれた姫君と従者は、来世で結ばれることを祈り、それぞれ命を絶ちました。偶然にも青年が身投げしたがけ下に流れるのは、彼の愛する姫君が入水した川の支流でした。そのことに気付くと人々は涙し、二人が天国で、そして輪廻転生した後の世でも結ばれ永遠に幸せになれることを祈りました。

 今では終生の愛を誓う場所として、献花に来る恋人たちが後を絶ちません。



「めでたしめでたし」
 滔々とした語りで物語の終了の決まり文句を告げると、続けて若い女を連想させる声が呆れ気味に第一の感想を発した。
「――何その話。今流行の三文芝居かしら?」
 一年中葉を生茂らせる林の前に佇むのは、翁と媼に加え若い青年が一人。湿り気を含んだ風が東から吹きつける。植物の緑と空の青は痛いほどの対比を産み、まだ季節の移ろいを感じさせない日差しが容赦なく三人を照りつけた。
 商人町から四半刻ほど歩くと広がる樫林の向こうにそのあばら家はぽつんと建っている。隣家までは半刻という、外界と隔絶した空間だ。小屋の前に広がるはちんまりとした菜園には、つややかな茄子が実っていた。秋茄子とは違う。この年最後の茄子か。
 巷に流布する風聞を伝えた銀髪の若者は声だけやけに若々しい白髪の老婆に、にこりともせずに「今王都で広まっている噂だ」と告げた。
「どこからどう広まったのか知らないが、そんなことになってる。実は従者は主家たる姫君の兄から狙われていて嫉妬から二人を引き裂いたとか。この手の話は民の好むところだ。まだあるが聞きたいか?」
「遠慮するわ。でもまあ当たらずとも遠からずってところかしら。聞いてるこっちが恥ずかしくてむずむずするけど」
「何言ってんだ、全然遠いだろ。お転婆娘で釣銭がくるお前のどこが深層の姫君だ。現実を見ろ。現実のお前は――」
 ――ばあさんだ。
 そう男は告げた。
「あんたもじいさんよ。私はかわいいおばあちゃんだけどあんたはそうね、クソジジだわ」
 憎まれ口に低い美声の年寄は、目尻に深く刻まれた皺の影をますます濃くして、それでも嬉しそうに笑った。零れ落ちた真っ白な髪が風に遊ばれる。腰がぴんと伸び、矍鑠としている長身の老人と声の主は同一人ものの物とは思えない。
「だいたいあんたは従者のくせにいつも煩かったわ。昔から年寄りじみた説教ばかり垂れてたから、今の格好で釣り合ったって感じ。ちょうどいいんじゃない」
「説教って。あのなあ、お前が後先考えずに馬鹿ばっかりするから、年長者として諭すのは当たり前だろう。それに」
 記憶の奔流が一瞬男の脳裏に押し寄せ、間端曳突ですべてを抑え込む。
 ――それももう終わりだ、と老翁は静かに言った。
「司馬迅は死んだ。だから俺はもう従者でも何でもない」
「あら。ようやく腹を括ったようね、迅の大馬鹿野郎」
 老婆はそんな老翁に少しいたずらじみた、晴れやかな笑顔を向けた。
 ――二人はそう、変装した十三姫と迅だ。実年齢より四五十上に見えるが、彼らに違いない。
「いい加減にその呼び方やめろ。俺だってさすがに観念したんだぜ。でなきゃこの年になって毎日睨まれながら癖を直したり腰を曲げろだの何だの怒鳴られたり、それにこんな変装術や化粧を必死になって覚えようとは思わない」
「ちょっとやめてよ!あんたが化粧筆片手に鏡とにらめっこしてたの思い出しちゃったじゃない!」
 げらげらと腹を抱える老婆はどうやら本当にその場面を脳裏に浮かべたのだろう。目尻に涙を浮かべながら、青空に響くような大爆笑を受けて言葉選びを失敗したことに迅は頭を押さえようとした。実際は頭を抱えたかったのだが、頭痛持ちの老人のようになってしまうのを想像して持ち上げた腕を所在なさげに振ってから下ろした。――年齢を経ない年寄とやらは少し不自由だった。
「俺が折れなきゃお前らまた何かやらかすつもりだろ。あれ以上のことをされちゃさすがに心臓に悪すぎる。あんな思いはもう懲り懲りだ」
「あら、それは私も兄様も一肌脱いだかいがあったわ」
「悔しいが…まあそうなるな。――それに、せっかく自由になったんだ、楽しまなきゃ損だと今なら素直に思える」
 勝ち誇った笑みを向ける老婆に、迅は敵わないな、という諦観の籠った苦笑を浮かべた。
 本心だった。
 あの日なのがあったのか――。いやずっと前から何が起きていたのか考えると果てしなく深い闇の中へ手を突っ込んで、とんでもないものに触れたような不気味さを味わう。その正体が何なのか解らないから尚更ぞっとする。
 死刑執行の日まで閉じ込められていた牢は見覚えのあるものと一緒で、身体障害者の牢番がいて、隣ではムショ先輩の声が聴こえ、メシの味まで同じだった。もっともあの時の迅は、十三姫を失った悲しみで途方に暮れ、自棄になっていたから本当におかしなところがなかったかと問われても、断言はできない。それすらも計算づくだったのだろう。断片を知れば知るほど、背筋が凍る。
 あの時、独房に現れたのは刑部の官吏などではなかった。――冷ややかに迅を見下ろしたのは絳攸だった。一瞬の自失の後、どういうことだ、と詰め寄って怒鳴ろうとした迅を阻んだのは、頭まで全身白い衣で覆った、使者だった。
 迅、と胸に響くような懐かしい声で名前を呼ばれ、迅は戦慄した。小さな手が、頭巾にかかり、それが肩に落ちる様子が、ゆっくりと迅の中で再生された。現れた顔を見た瞬間、骨がバラバラになったかのように、身体から力が抜けた。
 それは十三姫だった。
 白昼夢を見ているのかと自らを疑い、全て悪夢だと思い込みたかった。確かめるのが怖くて頬を抓る気にはならない。でも、解っていた。夢なんかじゃない。
 迅、と。再びあの声で名前を呼ばれて。
 情けないことに肩を大きく震わせた。
 死んだはずの十三姫がなぜいるのか初めは解らなかったが、直ぐ絳攸の吐いた嘘だと思った。迅を油断させ、牢屋から連れ出すための。
 車椅子の老人の存在もそう考えれば辻褄が合うのではないか。二十代後半の迅を五十六十の爺さんにしてしまうような変装術を操れるのなら、迅の身代わりを用意するくらいたやすいはずだ。二十年からの付き合いになる楸瑛から癖などを聞き出し、演技力も付けておいたのだろう。
 十三姫の自殺の知らせに動揺した隙だらけの男の眼を盗み、霧状かなんかの睡眠薬を使い眠らせる。そうして車椅子の老人が変装を解き服を交換して迅になり、昏倒している迅に鬘や付髭を付けて何食わぬ顔で牢屋を後にする。もとからぐったりとしていた老人に気を配ったりはしない。
 いや、それだけの異変に先輩が気付かないはずがないから、奴も絳攸の息がかかった者だと考えるのが自然だ。牢番はとっくに手に落ちていたのだし、兵士に告げ口する者もいない。迅を連れだすことは可能だ。
 迅は死ぬ気だった。説得しようとも既に覚悟を決めているなら意志は変わらないだろう。だからこそ強硬手段に出る必要があったのだ。
 そして迂闊にも迅は何も気付かぬまま、このあばら家を増築して作られた突貫の牢屋に閉じ込められたのだ。極刑から逃れたからといって、そのまま何食わぬ顔で生きることに首を縦に振るような迅ではない。だからギリギリまで牢屋に入れておくことで最大の効果を狙ったのだろう。実際十三姫と絳攸が現れた時の衝撃を思い出すと、狙いが当たっていたとしか言いようがない。
 だが予想できたのだはそこまでだった。
 驚愕に見開いた眼が映す人物の口から静かに語られたのは、身の毛のよだつような事実だった。後戻りできない現実。確かめるすべはその時なかったが、そうでなくては彼女の迫力は説明できない。
 確かに元婚約者が自ら言うように、十三姫は死んだ。この世からいなくなった。それは嘘ではなかった。でも彼女自体は現に存在する。迅の目の前にいる。
 ――あんたがもうとっくに覚悟できててるのは知ってる。でも今だけはお願い、大人しく付いてきて。
 迅の知らぬ間に壮絶な空気を纏った少女に迅は完全に呑まれた。衝撃を受けていたこともあり、馬鹿みたいに銀糸の背中と迅よりも二回り以上小さい身体に挟まれて、ただフラフラと歩いた。
 しばらくして見たのは迅とそっくり同じ顔をした、それでも迅じゃない誰かが縛られ処刑場へ向かうところで、そいつが縄を千切り、警備を振りきって逃走したところだった。そのまま山へ駆けて行く背中を茫然と眼で追う。
 何が起きているのかさっぱり理解できなかった。
 そんな迅の動揺を無視して、隣の山を登り始めた。中腹に差し掛かったところで、先頭を行く絳攸が止まった。
 ――見ろ。
 そう言われ指の先へ顔を向けると緑の隙間から崖に追い詰められた、迅の偽物がいた。何をするつもりだ、という問を制したのは絳攸の声だった。
 ――あれは藍楸瑛だ。
 迅だけではなく隣に並んだ少女も息を飲んだ。彼女も知らなかったようだ。
 ――よく覚えておけ。お前を助けるためにあいつが何をするのか。それを見てなお意志が変わらないと言えるのか。
 そして迅は絳攸の予想通り、生きる道を選んだ。そうせざるを得なかった。


「まだ解けていない謎の部分があるんだが、教えてくれる気はないようだな」
 瞑目した絳攸は老人の問いに微笑を浮かべながら首を振った。はっきりとした拒絶を示してくれたことにそれでも迅はほっとする。せっかく助かったのだし、少なくとも今は好奇心で身を滅ぼしたくはない。
 懐がカサリと音を立てた。そこに入っているものを、確かめずとも覚えている。関所の通行証だ。よくできたそれに「偽造したのか」と問いただしたら「本物だ」としれっとした顔で返された時にはあり得ないできごとに、慄いたのち胃のあたりが冷え、ずっしりと重くなったものだ。役所が発行するそれは身分証にもなり、厳しい審査の末発行される。驚くことにそれが二枚も手渡された。「老人用とだいたい実年齢用だ」と。老人の変装には限界がある。さすがに姿が変わらないまま何十年も暮らし続ければ疑問に思われるからこそ、関所をいくつか過ぎた後に別の変装をするよう十三姫ともども指示された。
 つまり司馬迅は完全に消えたのだ。
 ――誰が身代わりになったかなど、考えてはいけない。
 帳尻を合わせたからこそ、追手がない。
 それに一つの予感があった。ご都合主義かもしれないが、そう考えると多少は救われる。
 そっと額に手を置いた。数日前まで柔らかかった皮膚はもうしっかりと周りに溶け込んでいる。そこに死刑囚の印はない。薬品で皮膚の表面を焼いたらしい。あの時のチリチリとした痛みはそのためだったのだ。冗談半分で「目は直せないのか」と聞いてみたがそっちは無理だと言われた。義眼ならあるらしいが、大掛かりな手術が必要で、そうするとかかわる人数もまた多くなり、情報が漏れる危険が増す。それに時間もかかる。
 だが老人の変装と焼印の除去だけで、迅だと気付くものはいないだろう。現に十三姫に見せた時、「えーっとどなた様?」と困惑顔をされたのを思い出す。変装した十三姫を見た時思わず「おばあちゃん席を譲りましょうか」と言ってしまったからおあいこなのだが。
 そして手を見る。血管が浮かぶ手の甲。油っ気のない乾燥した焼けているが白っぽい腕の皮膚。手は如実に年齢を表す。でもしわくちゃなそれは二の腕から貼りつけられた特殊な素材でできていて、まさしく老人の物だった。
 とにかくこんな用意周到な男が殺人などという、危険性が最も高い犯罪に手を染めることはないだろう。人が不当に死ねば、捜査が行われるのだから。
 それでも身代わりになった誰かがいる。
 その人生の重みを背負っていかなくてはならないのだ。これは新しい身分を手に入れた義務だ。犠牲などではなく。これから苦しむこともあるだろうが、全てを抑え込んで生きていかなくてはならない。
 恐ろしいと迅なんかは思う。
 言葉通り新しい人生を歩むことを決めたからいいが、もし迅が拒めばどうなっていただろうか――。
 老婆姿の幼馴染の妹を見る。彼女が手を振る先にはちょうど到着した楸瑛が、目を丸くしていた。
「やあ。えっと……。十三姫と迅、だよね?」
 楸瑛と十三姫が具体的にどんなことをしたのか解らない部分もある。
 もし迅が拒めばこの二人がさらなる危険を冒したかもしれない。李絳攸が楸瑛を計画の一部に加えたのはそれが理由だと確信している。
 絳攸の言葉を信じるのならあの時、あの雨の中崖から飛び降りたのは迅に化けた楸瑛だった。妹を亡くした直後、そして続く幼馴染の極刑。仕事を休んだって不信を抱かれないだろう。だがそんな小手先の調整は、あの舞台では利かないはずだ。どんな手妻を使ったのか知らないが、失敗して死ぬ可能性もあったはずだ。迅が首を縦に振らなければさらなる無謀なことをせざるを得ない可能性を、そしてもしバレたら犠牲になるのは誰か、その恐怖を突き付け、追い込んで――。迅の首を縦に振らせたのだ。
 それだけのため、とは決して言えない。客観的に見ても効果的なやり方だ。
 だからこそ、怖い。そんな手段に出れる絳攸の怜悧な決断力に畏怖を覚える。
 あの日――迅が死んだ日から一月半、このあばら家の地下に造られた部屋で過ごしていたから絳攸が悪い奴ではないと解っているが、こちら側の人間とは明らかに違うのだ。
 ちらりと楸瑛を見た。十三姫の変わりように戸惑いながら感心しきっている。
 迅と十三姫はこの日、出発する。楸瑛はその見送りに来た。あの、遠目に断崖から飛び降りる姿を目撃し、その後「もうこれでお前は自由だ」と諭しに来た日から一月半。二十年からの知己と顔を合わせるのがこれが初めてだ。そして最後かもしれない。これからは以前のようには会えなくなってしまうのだから。
 迅は何気ない動作で口の中に布にくるまれた綿を詰め込み、「やあ、若い人。どなたかな」と言った。頬が膨らみ様相が変化するだけではなく、声も老人特有のもごもごとしたものに変化した。混乱を見せる幼馴染に思わず十三姫と一緒に吹き出した。
「何馬鹿面してんだ。自分で言っておいて」
「――迅…!お前馬鹿にしたな!!」
「兄様ったら相変わらず詰めが甘いわね」
 十三姫に笑われて、絳攸の客だと思ったとかなんとか楸瑛はブツブツ言い訳がましく呟く。それに「悪い悪い。変装のできを確かめたかったんだ」と言えば、嘘を吐くなと云わんばかりの眼で睨まれた。
「今回の件に関して感謝してる。何だか借りを残したままじゃ気持ち悪いな」
「お前がそんなことを気にする方が気色悪い」
 嫌そうにしていた楸瑛はうって変わって真剣な顔をした。
「お前に十三姫を任せる。これでチャラだ。――絶対に泣かすなよ。何が何でも幸せにしろ。絶対だぞ。いいな」
「そんなのお前に言われなくても承知してる」
 老婆姿の十三姫は兄とその旧友のやり取りに驚いた後、花がほころぶように笑った。泣き笑いだ。
「十三姫」
 柔らかく微笑む。
「君には辛い道を歩ませてしまったかもしれない。もし嫌になったらそこの男なんて捨てて戻っておいで。君一人くらいなら私がどうにかしてみせるから。逃げたくなったらいつでも頼りなさい。例え姿かたちが変わっても、名前が変わっても、君は私の大切な妹だ。遠慮はいらない」
 兄妹水入らずのやり取りに迅は黙っていた。次いつ会えるかなど不確かなのだから、ましてそういう状況にさせてしまったのは、迅のせいでもある。邪魔してはいけない。それに恨まれこそすれ、こんな風に可愛がっていた妹を託してくれるとは思わなかった。楸瑛のその心の広さが迅は好きだった。
「兄様ありがとう。でも、私嬉しいの。そりゃ正直言うと怖いっていう気持ちもある。いつバレるか解ったもんじゃないもの。でもそんなの泣きながら寝込んでた時より全然マシ。百倍以上よ。危険なこともあるかもしれないけど私の腕を知ってるでしょ? それに迅も馬鹿みたいに強いし、私たちははっきり言って兄さまより抜け目ないのよ。だから心配ないわ」
「最後の方は少し納得しかねるけど、信じてるよ」
 迅と十三姫の覚悟はとっくにできている。これはもう二人の問題なのだ。楸瑛は頼られなくなる一抹の寂しさを感じた。
 そんな兄の心情を察したようにそっと十三姫が胸に寄りかかってきた。
「でも楸兄さまに会えなくなるのはさびしいわ。とても。本当よ」
「それは私も同じだよ。落ち着いたら近況を知らせておくれ。君からの便りを待っている」
 一瞥した絳攸は軽く頷いている。手紙のやり取りくらいは用心を重ねれば大丈夫らしい。よかった。
 優しく手を回した後、一度だけ力を入れる。身を窶した十三姫と楸瑛は顔を見合わせて何か変な感じだ、と笑い合って身を離した。二人同時に絳攸を見た。
「もういいのか?」
「ああ。きりがないからね」
「そろそろ出発しないと次の街に着く頃には夜になる。じいさんとばあさんが夜の山道を歩いてたらおかしいだろ」
「馬は手配しておいた。三つ目の関所を過ぎたらこの宿に泊れ。そこで老人の演技は終わりだ。そこからは飛ばしていい」
 迅は宿の名前が書かれた紙を三拍程見つめ頭に叩き込んだ。証拠品を残すようなことはしない絳攸があえてそうした理由を見抜いている。楸瑛を巻き込まないためだ。そのまま視線を絳攸に移す。それでいいのか――という声なき問いを理解したのか、絳攸は僅かに口の端を上げてみせた。なら迅には何も言うことがない。
 用済みの紙は小さく裂かれ、風に舞う。
「――行くか」
「うん」
「十三姫、気を付けて。元気でいるんだよ」
「兄さまも」
「筋肉が取り柄のお前のことは心配してないからな、迅」
「何言ってんだ。お前の方こそ気を付けろよ。何度もお前の尻拭いをしてきた頼れる幼馴染がいなくなるんだ。いい加減その能天気加減をなんとかしろ」
「な、何だと迅!」
「もうこいつのアレはもう手遅れだろ」
「絳攸、君まで…!それにアレってなにさ、アレって!」
「本当に。なんで兄さまみたいなお気楽街道まっしぐらな人が絳攸さんと仲いいのか解らないわ」
 十三姫の批評に加え、ちょうどどこかで鶏が啼いた。それが同意を示しているようで、色男方なしの情けない顔をした楸瑛に一同笑って湿っぽいのが吹き飛んだ。
「兄さま、絳攸さん、本当にありがとう」
 十三姫に笑顔を向け。迅と静かに数拍睨み合うようにして――。
「またな、楸瑛」
 少し力を込めた拳で迅の胸を殴って返した。
 涙なんて流してたまるか。道中の肴にされるに決まってるから。笑って。手を振って。


 憑きものが落ちたように晴れ晴れとした表情を残し、去っていく二人に楸瑛は苦笑した。最後の最後までいつものままでいれて満足だ。きっと四十年後の二人はあんなふうな老夫婦になっているだろう。迅はあんなふうに言っていたが、実際見られるか解らない。だから先取りのような光景は胸を温かくしてくれた。
 背中が見えなくなってからもずっと視線林に向けながら。
「行ってしまったね」
「ああ」
「あの日から――長かった。とても」
「そうだな」
 楸瑛が絳攸に頼み込んでから二月経過していた。暦上は夏から秋へと変化している。長かった仕掛けの舞台にようやく一段落付き、胸のつっかえが取れてすうっとした。
「絳攸、本当にありがとう。二人に機会をくれて」
 ――大切な人を助けるために、君の力を借りたい。
 あの日楸瑛は絳攸の優しさに半ば甘えるように、そう切り出した。
 腹違いの妹がいること。幼馴染の父親の彼女の母親に対する罪。母親を亡くした十三姫が奪った迅の片眼と将来。それでも惹かれあい、将来を誓い合った二人。でも――。再び起きた惨劇と、迅への死刑宣告。預けた商家から聞いた、精神的に追い詰められた十三姫の衰弱の様子。
 場面が浮かぶそのまま楸瑛はぽつぽつと語った。
 そして最後に。二人を助けてくれと頼んだ。
 ――一からやり直す機会を与えたい。楸瑛はそう言った。
 これからはお互い負い目を感じて、すれ違わなくていいように。躊躇いなく踏み込んでいけるように。
 それが楸瑛の依頼だった。
 支払った対価は小さくないが、あんな肩の力が抜けた自然な十三姫と迅の姿を見れたのだから満足だ。
「永遠に会えなくてもか?」
「ああ。好きな人が幸せになってくれることほど喜ばしいことは無い」
「そうか。依頼達成ということでいいんだな?」
「勿論。文句無しで達成だ」
「ならいい」
 そっけない絳攸に楸瑛は少し笑った。
「それで、ちょっと生臭い話になるけど、前金は払ったけど、あと幾ら用意すればいい?」
「そのことで少し話がある」
 歩きだした絳攸の背を追ってあばら家へ入った。絳攸がしたように傘作りの道具がびっしりと並べてあるのを適当にどけて、空いた場所に座る。相変わらずそれ以外の物が少ない部屋だ。
 一輪挿にささった赤い花が軒から入り込む光を受けて輝いている。その陶器は楸瑛が送ったものだった。
 初めて来た時には私物は布団と湯呑と鍋と筆しかないんじゃないか、と本気で疑いたくなる光景に盛大に驚いた。彼らしいと思いつつも、さびしい部屋が楸瑛は嫌だった。そうして根無し草のような生活をしてきたのを見たくなかった。
 一輪挿の他に欠けた徳利を見かねて街中で見つくろった物を押し付けたりした。中でも一番喜ばれたのは書物だ。内容を覚えてしまった物はどうやら私塾に寄付しているらしく、有益なものは写本し、それも人にやっているらしい。だから部屋の中が生活感で満たされることはなかった。
 次はなにを持ってこようか、と考える。この熱気が続くのはせいぜい二十日ほどだろう。ならばこれから徐々に押し寄せる寒波を見越したものがいいのか。
 つらつらと考えながら楸瑛は切り出した。
「それで、話って?」
「ああ。金はびた一文負けないできっちりもらうが」
 がめつい商人のような口振を絳攸は改めた。
「本来なら依頼主に仕事の協力はさせないのが俺の流儀だが、今回はお前に頑張ってもらった。危険を顧みず役をこなしてくれたこと、まずそれに感謝する。――よくやってくれた、楸瑛」
 ありがとう、と。
 こうも面と向かって絳攸の口から礼など発せられたのは、これが初めてで楸瑛はうっと言葉に詰まってしまった。体温が上昇する。美女と接してもこんなことはないのに何でだ。しどろもどろになりながら、いや、いいから、とか何か適当に言った気がするが、だめだ。照れくさくていけない。
「そこで、だ。楸瑛、お前何か欲しいものはあるか?」
「え? 欲しいもの?」
「えって何だえって。報酬の話にきまってるだろ」
「え、何で?」
 察しの悪さに苛立ったのか、舌打ちされた。
「だから、お前だって働いたんだ。報酬を受け取る権利がある。だが金を出したのもお前。しかも馬鹿みたいな金持ち相手にその中から幾らか返したって嬉しくもなんともないだろう。それでは礼にはなりえん。だから何かして欲しいことや欲しいものがあれば言ってみろ。俺なりに伝手をあたってやる。――とはいっても限度と常識はわきまえろよ」
 生まれながらのボンボンとカツカツの庶民の差を考慮しろ、と絳攸は憎まれ口で結んだ。口を半ば開いたまま固まっていた楸瑛はじろりと片目で睨まれた。
「おい。そこの馬鹿面。何呆けてるんだ」
「つまりそれは、君が心を込めた贈り物をくれるってこと?」
「どこをどう曲解したらそうなる!」
 怒鳴られておまけに鍋が飛んできた。曲解はしてないけどね、と思いながら剛速球のごとき金属の塊を避けた。ガンガンと凄いを音を立てて転がった数少ない絳攸の私物を拾って、手の届かないところに置いた。予防線だ。
「え、だって君が言ったんだろ。愛をこめ」
「ち、が、う!」
 一音一音区切られはっきりと発音された。
「報酬の話だ馬鹿野郎!」
 楸瑛は耐えきれずとうとう笑った。なんだかくすぐったい。
 馬鹿にしてると勘違いした絳攸が殴りかかろうとするのを避けながら、「誤解だ」と弁解するのも苦にならないほどいい気分だ。ただの利害関係なら金額の差し引きで考えればいいところを、手間を惜しむ方法を選んだ絳攸の気持ちが素直に嬉しかったのだ。
 そう伝えたら今度は舌打ちして悪態を吐き始めた。解りやすい照れ隠しを微笑ましく見つめていると、「にやにやするな気持ち悪い」と苦々しく言われたが嬉しいものは嬉しい。
「――もういい今のは無しだ! お前もう帰れ! そして二度と来るな!!」
「えええ、ちょっと待って! ごめん! つい飼い猫を手なずけたような心境に陥って」
「人を猫扱いするな! 馬鹿にするのも大概にしろ!」
 本気で怒りだす前に今度はごめん、と短く謝ってすかさず続けた。
「真面目に考えるから」
 スッと眼を細め顎に手を当る。
「そうだね――…」
 絳攸にして欲しいこと。考えたことがなくて、楸瑛は悩んだ。適当なことを言ってしまうのはなんだかもったいなくて、真面目に検討してみる。絳攸と出会ってからの日々がさっと楸瑛の中を過ぎ去り、一つの結論を得た。
「ずっと、君とずっとこういう関係でいることはできるかい?」
 口に出してみて楸瑛はそれが願いではなくてずっと聞いてみたかったことだと気付いた。
 絳攸は一瞬虚を突かれた顔をした後、逸らした上体を片腕で支え、自由な方の手でガシガシと髪の毛をかきまぜた。
「お前本当に馬鹿だろ」
「今のは本気なんだけど……」
 それを否定されたらさすがにへこたれそうだ。
 絳攸の溜息がやけに大きく響く。
「いいか、俺とお前は立場が違う。お前は本来なら俺を捕まえる側だ。だから本当なら今すぐにでも叩き出したいところだ」
「とりあえず実行しないでいてくれてありがとう」
「勘違いするな。善意じゃない。今まで数回身元がはっきりとしているお前を利用したことがあった。お前は俺をトラ箱にぶち込む気はないと判断してきたからだ」
 そうだ。楸瑛は初めてその手際を見た時から、その魅力に引き付けられてここまで来てしまった。公の力じゃ及ばない事態を鮮やかに解決してしまう絳攸に興味を覚え、それがいつの間にか彼の仕事ではなく、彼そのものへと移り変わって――。
「だが今回はお前の依頼とはいえ、仕掛けにはお前の存在はなくてはならなかった。だからお前は計らずとも危うい立ち位置にいる。いいか、帳尻を合わせたとはいえこの山はでかい。それだけ危険があるってことだ。それなりの地位にいるお前は逃げようったってそう簡単な話で済まない。俺と違って身軽ではないはずだ。ホイホイと集まってたらヤバイことくらい解るな藍楸瑛」
 藍楸瑛、と呼ばれた。ただの楸瑛ではなくて。胸が痛い。
 今度は楸瑛、と名前だけ。
「すべてを擲ってでも付いてくる覚悟があるか?」
 やけに真剣みを帯びた、厳しくてきれいな瞳が胸を射抜き――。楸瑛はゆるりと目を見開いた。呼吸が――。息が詰まる。胸が一杯になる。
 今、この瞬間。おそらく出会ってから初めて――。絳攸が手を。手を伸ばしてくれている。差し伸べてくれている。
 焦がれていた世界がすぐそこにある。
 軽口では済まされない磁場のような力が空気を支配する。
 血が通っていないのかと疑うほど白い手。そこに自分のそれを重ねれば扉が開く。心臓が縮まるような圧迫感。脳の髄まで冷えてゆく。
 眼に力を入れ、眉を寄せた。
 ――取れない。
 そう思った。そんな楸瑛の心情を悟ったのか絳攸は顔を背けた。
「解ったか? お前はそこのところをもう少し考えろ」
「……解った」
 頷くしかない。もし迅が生きていると判明しそこに楸瑛が動いた影を見たとしたら、藍家そのものに調査の手が伸びるだろう。藍家を危険に曝すことなどできない。どちらかを選べと言われても、選択肢など初めからないに等しい。
 圧迫からの解放感以上に何かを失った気がして、沈んだ。涙なんて出てないのに焦点が狂って、視界がぼんやりする。
 いつもどこかに引っかかりを覚えていた部分をこうもはっきり指摘されると、身がすくんだ。闇を覗くのと実際にその中を歩くのとは根本的に違う。解っていたが、見ないふりをしていけると信じていたかったのだ。ずっと絳攸と軽口をたたいて怒られて、笑い合っていたかった。時には碁を指したり、将棋で一杯賭けたりして。笑っていたくて。
 透明な壁を無視していた。本当は見えないものは存在しないのに、それをあると言われてしまったのが悲しい。痛い。
「それならいい」
 やれやれとでも言うように絳攸はもう一度溜息を吐いた。
「今度上等な酒でも用意して待っててやる」
 弾かれたように顔を上げる。駄々をこねる子供を諭すような顔でもなく、かといって怒気をはらんだものでもない。お得意の無表情や小馬鹿にした顔でもなくて――。
「話は終わりだ。解ったならとっとと帰れ」
 どういう訳か静かな微笑をお見舞いしてくれた。






四幕:相生の松風