道端の紫陽花の蒼い花弁が上下に跳ねるようにして幾度も揺れる。夏の盛りだというのに、連日雨が続きしぶとく枯れずに残っていた。 それでも午前中は薄雲を縫って地上に届けられていた陽光だったが、もはや厚い灰色の塊に遮断され、可憐な花弁を叩いた一滴が呼び水になったかのように、瞬く間に二粒から百粒、そして無数に増殖していった。 雨だ。 まるで昊が慟哭しているような激しさは、この日ばかりは何か神秘めいたものを感じてしまう。兵士たちに囲まれた長身の囚人は白い衣を雨粒に濡らし、きっと一歩一歩噛みしめるように歩いているのだ。慌てて道を空ける人々は人々の営みの場から離れていく仰々しい集団を忌者と避けながらも、片目を押し上げながら盗み見てそう思った。 この日刑に処される罪人の名を知っているものはいか程いるのだろうか。 ――死刑が執行されようとしている。 元から減刑などは考えていなかった罪人だから、後ろ手に縛られている縄を引っ張り、往生際悪く兵士や執行人たる刑部官を罵ることもしない。背筋を真っ直ぐに伸ばししているから、凛として見える。ただし双眸には光がない。天候のせいではなく、死にたがっている人間の眼をしている。 陰気だった。この雲も雨もじとじととした湿気も、死刑囚を率いる行列も何もかも。息苦しい。 白い背中が突然翻った。兵士が「あ」という間抜けな声とそろいの、気の抜けたような具合で手が伸ばされていた。解かれた縄が何かの抜け殻を連想させるように地面に落ち、雨に打たれて無残にも泥と混じり合ってゆく。隊長が雨で白い衣が張り付く贅肉のない背中を見過ごしてしまったのは、判断が遅れたからか。数人の兵士が水面で餌を待つ鯉のような顔を隊長に向けていた。 色んなことを考えながら口ではしっかりと「何やってるんだ追いかけろ!」と怒鳴っており、それを客観的に聞いている自分に違和感を抱いた。 ――死刑囚が脱走したというのに。 刑部官は駆け出す一人の背中を捕まえて、近隣の詰所に馬と兵士の貸し出しを要請するよう指示した。 間もなく届けられた馬に跨り咎人が逃げた方向へ馬を進める。応援に駆け付けた部隊が後に続いた。 すっかり白い影を見失ったが馬の脚は早くすぐに追いつくだろうと高をくくっていたが。 近くで声がした。横目で見れば山の入り口に部下の一人が「おーい」と叫びながら、両手を頭の上で振っている。気付いたという合図を送れば、兵士は大げさなしぐさで後ろの山を指差した。 山に逃げ込まれたか。隊長は瞬時に悟り、その厄介さに舌打ちした。雨で気配が探りにくいのもあるし、隠れる場所が多い。それにぬかるんだ山道で、果たして馬がどこまで有効か。とっ捕まえることはできなかったが、馬を使ったおかげで体力は温存できた。 後ろに続く隊も山に逃げたことを伝え、隊長は緑深き地へ馬上に身を置いたまま踏み入った。 雨によって立ち込めるむせ返るほどの緑と土の匂い。どこかに栗鼠やちんまりとした動物でもいるのか、気配はごちゃごちゃとしている。木に刻まれた印を頼りに部下の背中を追った。 転々と略式の甲冑に身を包んだ背中が見えきたのは、人一人がやっと通れるような細い道だった。急な傾斜にうっそうと木が生い茂る。まだ拓けていない地。馬を乗り捨て続く二人に視ておくように命じて、足を取られないように気を付けながら、隊長は先頭に追い付こうと急いだ。 死刑囚の名は司馬迅。武家の名門の出だから、山岳修行で慣れているのだろう。鬼はなかなか捕まらない。最悪の場合、山狩りか、と考えた。だがこの山の地形を考えれば、それはまずないと隊長は思っている。 漸く白い背中が見えた。泥が跳ねてまだらに汚れている。 いつの間にか標高は幾分高くなっていた。 駆け背中は疲れ知らずで、苛立ちすら覚えるが、同時にこのままでいいと心の中で呟く。よし、そっちだ、そのまま行け、と。通じたのか知らないが、引き締まった背中の持ち主は真っ直ぐに進む。 ほどなく木々が消え、視界が一気に開けた。 振り返る死刑囚と、ぞろぞろと数を増す兵士が対峙するのは、薄橙の岩肌がのぞく崖の上だった。 深緑を背にする兵士が足場を失いかける死に装束に身を包んだ男に「大人しくしろ」と強まる雨脚に負けないよう、大声を張り上げながらじりじりと詰め寄る。追いつめられた男が同じ幅だけ下がるから距離は縮まらない。 刑部官も後れを取りながらも到着して、武官たちを手で制して、文官らしく言葉を尽くして説得しようと試みる。それでも男は首を縦に振る素振りすら見せなかった。 緊迫した時間。隊長はその間に作戦を考え、疑われないように気を遣いながら部下の配置を指示し、それを刑部官にも目で伝える。 罪人は足場が悪いことをやはり気にしてか、横目で背後を確認していた。 ――整った。 合図を出そうとした瞬間。 口元に緩く笑みを浮かべた男が、両手を広げ後ろ向きに崖から飛び降りた。 「―――!」 誰もが息を飲んだ。もうそこには何もない。堂々とした対面の山が迫るだけで、遮蔽物など何も――。 不思議と叫び声は無く、何重にも重なった呼吸の音が雨音と混じって、深く落ちた。 略式の甲冑を着た隊長が崖の下を覗きこむ。白い霧が立ち込めていて、とても下まで見えなかった。部下に何かを告げると、素早く数名が駆けた。刑部官もへっぴり腰でそろそろと顔を出して伺うが、隊長と同じように諦めた。 蒸し暑い。背中に汗が伝う。報告を待つまでの空白の時間。 ほどなく若干顔色を悪くした若い部下が、行きと同じく駆け足で戻ってきた。崖の下から潰れた遺体が見かったと報告が上がる。 「身体的特徴や着衣から――ほぼ、間違いないかと思われます」 隊長と部下の間に刑部官が割り込んだ。 「医者に報告は? それと刑部にも連絡を頼みます」 「別の者に向かわせました」 「隊長、私たちも下で現場検証をしましょう」 「ああ。そうですね」 「それと本日のことは後に他の刑部官の手によって、仔細に証言を求められることになると思います。応援部隊を含め担当が到着するまで解散などせずに、集まっていてください」 隊長が部下の一人にまとめ役を任せ、報告に来た兵士を案内を命じ下山する。 予想だにしなかった顛末に、息が詰まっていけない。誰も口を利かずに黙々とぬかるむ泥道を下る。 入山した側をぐるりと回ると、緑が少なくなり景色は無骨さを増す。一つの山の頂上から刃物を入れたような、その谷底には一本の皮が走っていた。そこには部下の言葉通り無残な躯があった。 見上げれば先ほどまで立っていた展望まで、直角に近い岩肌が続く。 この幕引きに何とも後味の悪さを抱きながら、死者への祈りの言葉を短く唱える。どうか安らかなる眠りを――…。 「あの時」 刑部官がぽつりと呟いた。武官に比べ死体を眼にする機会が少ないうえに、骨が折れ曲がり血が滲み放題のものは刺激が強すぎたのだろう。顔面を蒼白にしていた。 「この死刑囚は何か言いましたよね」 「はい」 「私には、蛍、と言ったように思えたのです」 「ええ、そうでしたよ。蛍ってあの蛍のことですかね?」 隊長は男が飛び降りる瞬間に笑った時、唇を読んでいた。間違いなく蛍、と動いていたと確信しているし、ここまで彼らを伴った兵士も頷いている。だが、何のことだか見当がつかない。 「この囚人――司馬迅の婚約者のことです。彼は姫のことを蛍、と呼んでいたそうです」 「そう、だったのですか」 「その姫は――」 刑部官は言葉を詰まらせた。 「数日前に亡くなりました」 「――そりゃまた悲劇が続くものですね」 「ええ。本当にそう思います」 無念です、と小さく零した。 「姫は、川に身を投げて自ら命を絶ちました」 ――その川を下ってゆけば、この流れにぶつかります。 刑部官はそう言って、川に眼を向けた。 隊長は絶句した。 崖の下に流れる川を辿ると、死刑囚だった男の婚約者が自殺した川に繋がるというのか。 見えない力が引き合ったような偶然。いや、果たしてそれは偶然なのか。 平衡感覚を狂わせるような何とも言えない衝動をゆっくりと受け止めた。 隊長は再び手を合わせ、あの世で男が愛する姫と巡り合えることを祈った。 せめてあの世で一緒になって幸せになれたら――。 救われる気がした。 駆け付けた刑部官による事情聴取では、執行人だった刑部官と隊長の他、五人が死刑囚が「蛍」と口にしたと証言をした。男が追いつめられ、飛び降りた状況にも矛盾はない。縄抜けの方法は解らなかったが、間接でも抜いたのだろうという見解に落ち着いたらしい。 そもそも彼が死罪を言い渡されたのが詳細は不明だが、彼女を守るためだったと聞いた時、そして彼女が処刑日を前にして不慮の死を遂げていると知った時、隊長は何とも言い難いやり切れなさを味わった。悪を悪と割り切れない苦味と、壮絶な物語。 男は知っていたのだろう。彼女がもう既にこの世にいないことを。 二人の冥福を祈るとともにそう願わずにはいられない。 いつの間にか再び顔を出した太陽が地上を照らす。 悲恋を象徴するような雨がどこか寂しい蒼い紫陽花に、最後の滴を浴びせていた。 幕間
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