薔薇色のキャンパスライフ、というものをご存じだろうか。神聖なる都市伝説の一種だと思って頂いて差し障りない。 定義は人それぞれだろうが、大学生活という何とも曖昧な、支配と自由のエアー・ポケットのようなひと時を楽しむことだと了解してほしい。具体例を示せば、単位を落とさない程度の成績を維持し、サークル活動などで人間関係を広め、彼らと酒を飲み時には馬鹿なことをしながら親交を深め、そして欠かせないものがある。男である私の目線から言えば、多少下世話な話だが女性とのお付き合いだ。異性との交際は時には清く、それ以外は――まあそのあれだ。とにかくそんな交際こそが人生を薔薇色たらしめる最大の要素である。女性とは迂遠な生活を送っているであろう男子高校生諸君は、特にこの思いが強いことと推測する。 私は時代が時代なら、ただこの世に生まれ落ちただけで一生不自由がない生活を保障されるような家に生まれ、客観的に見て顔がそれなりにイイ。背も外国人なみに高いし、頭もよくて運動もできるし、コミュニケーション能力にも長けている。我ながら何でも小器用にこなすし、人望だってある。おっと、これはあくまでも心の声のようなものだから石は投げないで頂きたい。それに妬み嫉みを買う以前に、「いい子にしなさい」というような無言の要求をまだ三輪車に乗っていた時分から突きつけられていたのだから、息苦しさひとしおだ。この言外脅迫は一つや二つじゃなかったのだし、ある程度自由がきくようになった今でさえ、ずっしりと圧し掛かってくるものがある。これくらいの保身の言葉は許されてしかるべきだろう。 さて、軟派な野郎はいつの世もいるが、シマウマだかキリンのように大人しくなる硬派な男が増える現状が嘆かれるのとは逆に、乙女たちがまるで狩人のように積極性を増した昨今。自然の摂理として彼女たちが私を放っておくはずもなく。狩られたふりをするのも楽しそうだが、残念ながら私は羊の皮をかぶった狼ではないが、花から花へ渡り歩く蝶々のような優雅さで接することをポリシーとしている。そうすると必然的に三大欲求の一つは消化されてしまい、ますます優雅さが色濃くなる、という好循環が成り立ってしまう。私のところに供給過多になった分、品薄に喘いでいる男どものせいで時々背後を気にする生活を余儀なくされているのだが。まあ過言だが。――過言であってほしいのだが。時々背中に寒気を感じるのはどうしてだろう。今度から電車に乗るときは、一番前に並ぶのはよそう。うん。 話が次から次へ逸れるのはどういうことだろうか。気を取り直してしっかりと進ませてもらおう。 薔薇色のキャンパスライフ、そんなものに全く興味を示さない人種がこの世に存在することも知っている。いや、実際彼に出会ったとき雷に打たれた如く、激しい衝撃を受けたのだ。 美しきのキャンパスライフを否定しても、結局それはその芳醇な蜜にありつけない外野の絶望だとか羨望交じりの嫉妬だと思っていたのだ。彼に会うまでは。 彼は、このがやがやと騒音と熱気入り乱れる店内では脱いでいるが、時代錯誤感が否めなくなってきている詰襟と学生帽のスタイルを貫いて通学している変わった人種だ。もっとも変人に否定されてくらいでは、私だってここまで驚いたりはしなかっただろう。 彼は同性でもうっとりする外見の持ち主だ。――実際この手の悪名高い噂を時折耳にしているし、有名な話だ。おっとまた脱線してしまった。さて、そのルックスの良さ故集まる女性も多いわけだが、彼は見向きもしない。円の中心にいるのに交わらないことにこそ、私は目を見張ったのだ。 そう説明した私に、彼はそのギリシャの彫刻のような精悍な顔を不機嫌にゆがめて一息に言い切った。 「最高学府たる大学は、神聖なる学び舎だ。学問を究めんとす学徒が集まる場所で、そんなトイレの芳香剤じみたくだらない戯言をまき散らすな」 初夏にもかかわらず火鍋の会場に漂う不穏を吹き飛ばす、さわやかで崇高な緑風が通り抜けた錯覚に陥った。 火鍋というのは私が入ったクラブ活動の一つの伝統的な新入生歓迎会の儀式だ。そこに偶然彼も参加していたのだ。 この火鍋はまだ世間の荒波を知らない新入生に、世知辛い世の中の一端を知ってもらうための洗礼だという。女の子たちはアメリカやロシアの諜報機関と張り合えるような独自の情報網を最大限に活用し、残らずこの場にいない。目がくらむような男所帯と、目を背けたくなるような鍋の中身はそんな男汁あふれる空気を富士山より高く見下していた。どろりと真っ赤な液体が満たされた地獄絵図のような出汁を通して、ヘモグロビン色に染まる肉片や野菜を食したせいでか、少し潤んだ瞳が橙色の電飾の下で幻想的な光を帯びる。そのアポロンの矢に等しき鋭さに射止められた私は呼吸を満足にとれず、瞬きを忘れ、焦点を動かさないため視界が徐々にぼやけていき、耳鳴りも加わり後半から何が何だか分からなくなってしまった。 血圧が上がると肌の色が赤みを増すという説がある。私の血圧はその時、大ジョッキに入っているのが琥珀色の液体ではなく、醤油を飲んでしまったかのようにゆでダコのような顔色をしていたに違いない。だって熱い。触らなくともわかるのだ。 ぼーっとしすぎてもはや彼が何を言っているのか聞き取れない。 財布に信用がない学生が集まる料理屋の、狭い座敷に集まった男ばかり十数人。むさくるしく物体ばかりぎゅうぎゅうに押し込まれたそこに無駄なスペースなどほとんど存在しない。誰かが私の後ろを通った時に、背中にその膝がゴン、と当たったのだろう。その衝撃で肺腑に残っていた、循環が滞っていた空気が外に出て、新たに唐辛子の刺激が充満した新鮮とは言い難いピリピリとした成分が混じった酸素を摂取することになる。 火鍋を涙目で、それでもただ飯だと割り切ってがつがつ食べる彼。眼鏡が湯気で曇っているのに気づき、さっきの奇跡の瞬間を思い出して、ドクン。心臓が肥大したのかのような衝撃。健康状態に一抹の不安。 「薔薇色だと思うのは第三者からの視点、つまり己をしかと持っていない奴の幻想だ。そんなものに最高学府で学ぶ機会をつかみ取った俺たちが惑わされてどうする。いつだって自分の努力次第でどうにかなることはすべきだし、どうにもならないことはどうにかした後で初めてどうにもならないと解るんだ。地に足つけて前を見据えろ。俺たちはそうして何者かになるためにいる」 そうしてグラスの水を一気飲みした彼は「自分自身の力でなんにでもなってみろ」と言った。この上なくオトコマエという言葉がぴったりだった。 そして私は割とすんなりと受け入れた。 これは紛うことなき恋だ。一目ぼれ。フォーリンラブ。悔しいほど見事に悩殺されて、私はイカやタコのような腑抜けになり下がった。 その瞬間から私はすっかり彼の虜になってしまった。 彼の名前は李絳攸。 あえてこう表現しよう。 彼は私の運命の人である。 |