大学生になって初めての夏休みは、実に退屈だった。この季節になると避暑地にさっさと大移動してしまう家族のもとへ帰省することも考えたが、結局私は猛暑の極み著しいこの地方に滞在することを自ら選んで、そのくせうなだれている。彼に会えることを夢見て、街を徘徊すれども頼みもしない長期休暇に突入してから連日連敗記録をひたすら無意味に伸ばしている。雨後の竹の子よりも記録は大きく育ち、そろそろ私の身体を突き破りそうだ。――禁欲的な生活も限界かもしれない。どうなるのか、考えるだに恐ろしい。
 本屋で目当ての本に手を伸ばしたら、もう一つの手が伸びてきて二つが重なり見つめ合って――なんて偶然の邂逅に胸を躍らせる、ロマンチストで純情な自分に笑ってしまう。実際学期中は彼がよく出没する場所をチェックし、日々、時には数時間単位で運命の出会いを演出していたのになかなか気付いてもらえなかった。そんな素直さも彼の魅力なのだが、ひらひらと舞う蝶々を目指していたのに、花に振り回されるとはなんということだろうか。逃げられたら追いかけたくなってしまうだなんて、そんな執着心が自分にあったことに驚きだ。
 万人火あぶりの刑の如くちりちりと大地を焦がす白い陽光の元、それでも私は外に出なければならない。なぜなら彼が私を待っているからだ。彼が古本市に顔を出すというのだ。これはある信用がおける筋からの情報で、ならば私はいかないわけにはいかない。シャワーを浴びて洋服をあれでもないこれでもないと選び、髪形を整え、これこそ古本市にふさわしいスタイルが完成した。どこからどう見ても、道行く人々は「まあ、あの人は古本市に行くのね」というのが一目でわかるに違いない。あとはあくまで偶然ですよ、という風を装って「奇遇だね、絳攸。どうだい木陰でキンキンに冷えたラムネでも飲みながら、一緒に古今東西の本について語らわないかい」と誘えば完璧だ。私のことを女郎屋通いが好きな旗本の二男坊とでも勘違いしている彼の誤解もなくなり、こんな炎天下の中、知性に満ちた出会いを求めて古本市へやってくる、彼の言う「最高学府」で学ぶのにふさわしい学問人たる人種に見えるに違いないのだ。これで二人の距離が一気に縮まること間違いなし。
 心頭を滅却しても火は熱いし、夏は地獄に変わりなく。それでも彼のためと思えば、私は千里だって翔けられるだろう。偉大なる恋の力。誠に恐れ入る。
 この地域は観光スポットとして各国から人が訪れ、世界的に有名なのだが夏と冬が厳しいことでも国内的に広く知られている。にもかかわらず、古本市は結構な盛況具合で、言葉尻から遠くからやってきた人もいるようだ。
 古本祭の会場である、寺院の境内には見渡す限り本。縦積み横積みはたまた煉瓦のように向きを変えて積み上がる本本本。和綴じに革張りに赤や黄色や白や青の本本本本本本! そこは本の樹海だった。目が回るほど、それこそ自分が今まで詰め込んできた知識を鼻で笑うかのような、まさに圧巻という言葉が似合う、知の泉だ。溺れてしまいそうだ。
 ある人はそれこそにらめっこの勝負をしているかと疑うくらい目を寄せて背表紙を確認し、別の人は冷やかし程度に過ぎていく。変わらないのはみな暑そうにしている点だ。
 私も近場から覗いていく。勿論きょろきょろと周囲に油断なく目を向けて彼を見逃さないよう細心の注意を払いながら。四五件も回るとだいぶ古本市の傾向が解ってきた。洋書を専門に取り扱う店や、古書の類ばかり集めてある出店、大量の文庫本をたたき売りしているブース、絵本を取り揃えてある店もあってそこには大人から子供まで楽しそうにしていた。そんな風に各店によって特色がある。もちろんごった煮の如くなんでもありの所もあって、なかなか面白い。基本的に新刊ばかり買うのが常だったが、全集の類をセット販売しているのを見ると欲しくなってしまった。
 だが、蒸す。滴る汗に辟易しながら、まばゆい光を届ける太陽を睨みつけた。網膜を焼き尽くすような強い光線まで、まるで私の恋路を馬鹿にしているようで気に入らない。太陽神は本邦の天照大神叱り女性が多いというが、きっと私があまりにも彼に夢中なのだから嫉妬でもしているのだろう。いい男はこれだから困るのだ。
 ジュースでも買って木陰で休もうか、と思った矢先のことだった。きらりと眩しい光の反射に心が、十両越えの力士に両肩を掴まれ振り回された如くすごい力で捕らわれた。それだけで解ってしまうなんて、もうなんていうか、これでもかというくらい彼に夢中な自分が悔しくもあり、諦めもあり、そして楽しい。
 四分の一回転して向きを変えた身体から、首だけを九十度後ろ向き回転させ、確かめれば、陽光の元で一層輝く銀糸の彼がテント内にいた。
 自己認識の正しさに満足すると同時に、急激に緊張が襲ってきた。心臓爆発寸前だ。だってこんな不意打ちってあるだろうか。心の鎧を解いたところに、彼を見つけてしまうなんて。
 さすがに夏が近づいてからは、詰襟スタイルは見れなくなったが、学生帽は日よけとして最大に活用していたのに、今日はそれがない。大学内で見るのとは違った姿が新鮮で、どきどきした。体温急上昇だ。
 そろりそろりと白昼堂々なぜか抜き足差し足。コソ泥のように目標物へ接近していく。予行練習通りに事を進めるために、ラムネラムネラムネ、と誘い文句の一部を心中で唱える。
 しかし想定外というのはいつだって起こり得るものなのだ。
 本の海。古今東西の雑多な本が段ボールに詰められた中、彼はいた。
「あれ、絳攸、何してるの?」
 ラムネの呪文はすっかりどこかに行ってしまった。だって本によってコの字型に固められたその中心に、彼はいるのだ。そこは関係者以外立ち入り禁止の場所のはず。期せずして偶然の振りは相成ったのだが。
 彼はその整った顔で一瞬お前は、という表情をとった。
「見ての通り店番だ」
「へえ君、古本屋でアルバイトしてたの?」
「いや、成り行き上そうなったというか――。俺が本を物色していた時にこの暑さのせいで店主の具合が悪くなって、ちょっと店番しててくれないか、と頼まれただけだ」
 つまり行きずりのボランティア。もしくは行きずりのアルバイトなのかもしれない。そんな彼も好きだ。――いや、そんな目で見ないでほしい。憲法で精神の自由というものは保障されているのだから、嘘偽りのない気持ちをここでこうして表現する行為は誰にも邪魔できないはずだ。
 彼は値札を貼るために背表紙が上になった本が並んでいる段ボール箱から数冊引き抜き、貼り終わったら戻していく。その作業を淡々と繰り返し行っていた。つまり仕事中で、こっちにはもう見向きもしない。一応私だって客の一人なのだが。
 大学生が何をそんな子供っぽいことをと思われるかもしれないが、彼に構ってほしい。でも仕事中ならそうも言えない。悶々としていたら名案を思い付いてしまった。いや、これこそ天啓。普段の自分の行いが清く正しかったから、神様が味方してくれたに違いない。彼と出会ってから私はどうやら信心深く慎み深い、僧侶のように我が精魂は俗世の様々な煩悩とはおさらば、というやつだ。え、愛欲はどうなんだって? そこまで至ってないのだから、許されてしかるべきだろう? それに結婚してるお坊さんなんて山ほどいる。何も今に限ったことではない。当時は珍しかったようだが彼の浄土真宗の開祖、親鸞なんて有名だろう。たしか子供までいたのではないだろうか。女犯厳禁といっても、実際はそんなに厳しくなかったようだし。美少年趣味に走る大僧侶なんてざらだし、海を渡った先にもあった。カトリック教会だって同様の罪を認めたはずだ。
 何度か見ながらその作業のリズムを確認する。彼の手さばきに合わせて顔が自然と上下してる自分に気付き、慌てて止める。よし、リズムは掴んだ。
 彼が手を伸ばすタイミングを見計らって、私もさっと手を忍びこませるようにする。おっと、ちと遅すぎたか。もう一度。彼の手、私の手。む、なかなか難しい。三度、四度と繰り返していたら、私の手が完全にフライングした――というより彼の手が動きを止めていた。
「お前は何がしたいんだ。邪魔か、俺の邪魔をする気なんだな。上等だ」
 丸眼鏡の奥から般若の如く剣呑に睨まれた。戦闘モードに入ってしまった。ち、手と手を合わせて運命を演出するのは失敗か。
「いや、違う違う。 あ、その本! その本が読みたくて」
 私と彼を結んでできたラインより向こうにある背表紙を指差した。するとどうしたことだろうか。彼が虚を突かれた、というのがぴったりな顔をした。
「これか?」
「そうそう。それ。その本」
 彼が取り上げたのは緑色の表紙の絵本だった。もっと小難しいものにすればよかったかも、と思ったが、とっさのことだったし何よりも、私にとってそれは大変思い出深い一冊なのだ。小さいころ、兄に読んでもらった子供向けの知恵と冒険の物語。そして弟と妹に読み聞かせたもの。何度も何度も。私が兄にせがんだのと同じように、小さな手で私の服を掴んで「あの本読んで」と見上げられた。幼いころから何を考えてるのかさっぱりわからなくて、そっけなかった弟でさえ妹を膝に乗せて読んでいると、いつの間にか私の腕の中に潜り込んできた。その光景を思い出して、心が温かくなった。
 彼を見つけたと同時に、すぐに飛び込むように目に入ってきた一冊。
 すっと差し出されたそれを受け取る。
「懐かしいな。昔、まだこんなガキだった頃、その本を夢中になって読んだものだ。――お前も読んでたんだな」
 あのかたくなだった彼の表情がふっと和らいだ。
「そ、それは――。なんだか楽しい偶然だね」
「そうだな。初めて買ってもらったのがこの本だったな。懐かしい」
 その花もほころぶ、というにふさわしい笑顔を向けられてたら、誰だってしどろもどろになるしかないだろう。
「ここで読んでいていいかい?」
「ああ。――そこ暑いだろ? こっち入るか?」
 なんと関係者以外立ち入り禁止のコの字の中を勧めてくれた。彼が少し打ち解けてくれた気がして、私は心の中で感激にむせび泣いた。
 
 その絵本は大人になりかけている今でも、とても輝いていた。購入するか迷った末、本をそっと戻した。私はこの話をもう知っているから必要ない。私が保有することで、この物語を通して得られる素晴らしい出会いを、経験を邪魔するのが忍びないからだ。
 彼は何も言わなかった。でもなんとなく同じ気持ちでいるのだと思った。
 しばらくして小さな男の子が母親に「ぼくこれがほしい!」と元気よく宣言して、その本が売れるのを見て、彼と笑いあった。きっとこの子は冒険に目を輝かすだろう。もし弟か妹が生まれたら昔の私のようにこの子自身が読み聞かせるのかもしれない。
 母親と繋いだ方とは逆の手で、本を握っているその後ろ姿が小さくなるまで見送ろう、と思っていたら――。
 さっと背後から人が駆け寄ってきて驚いた。――と思ったら、ぱっと二三冊本を取り上げ、そのまま走り去った。呆気にとられて、首をその方向にゆっくりとひねりながら見送ってしまった。
「万引き、万引きだっ!」
 その声にはっとした。
 彼は人差し指をぴんとキャップをかぶった白いポロシャツ姿の男を示していた。
 彼がコの字の島から抜け出そうとするのを見て、私の方が速いと思い、机をひょいっと飛び越える。
「楸瑛っ! 頼んだ!」
「まかせて!」
 後方から聞こえた声援に、背中を押されて私のスピードも増した。人ごみの中突き進むのは、結構難しい。追いかける身としては、泥棒野郎が広げた道を突き進めばいいのだから、大して苦労はいらないのだ。私の方が有利な状況下で、持ち前の運動神経も加わって、ぐんぐん距離が縮まる。顔を見合わせながら談笑している女の子たちと男がぶつかった時に、とうとう捕まえた。
 暴れまわる男の腕をねじりあげれば、呻き声が上がる。
 おおー、という感嘆の声に見回せば、数人が私と万引き犯を囲むようにしていた。男をどうするか一瞬考えたが、ふてくされたその顔を見たら警備員を呼ぶ気が少し薄れた。もしかしたら私は単にドラマに登場するような情に厚い刑事を気取りたかっただけなのかもしれない。彼は私より若そうだし、拗ねている瞳に浮かぶ不安を隠せないでいる子供だ。高校生だろうきっと。とにかく見世物ではないのだから、さっさと彼を引っ張って絳攸の店番するブースまで連れて行った。
「楸瑛! そいつか」
「うん。ほら、君、盗んだ本を出しなさい」
 プイっと横を向いたその少年の腕をつかむ手に力を入れれば「いて、いててて」と抗議の声と視線が向けられる。
「こんなことして許されると思うなよ! 訴えてやる」
「訴えられたら困るのは君だろう。正確には君と君の家族だ。穏便に済ませたければ大人しくした方がいいよ」
 少年はうっと言葉に詰まった。正論でも年配者に言い負かされるのはあまり気持ちのいいものではない。彼がかたくなに心を閉ざしてしまいかねない。
「出しなさい」
 もう一度ゆっくり言えば、渋々といった様子でバックに手を掛けた。出てきたのは二冊。このブースで盗んだものだけだ。なかなか素直なところを見ると、そんなに悪い子ではないのかもしれない。
「本当にこれだけか?」
 彼が訊く。
「もうねえよ!」
 乱暴にバッグの中身を高校生君は広げて見せた。確かに後は団扇やボールペンしか入っていない。
「ほら、返したんだしもういいだろ」
 ふてぶてしくなり始めた少年を見据える丸眼鏡の奥がきらりと光った。
「楸瑛、少し俺の代わりに店を見ててくれないか」
「了解」
 それ以外になんて答えられようか。
 そこから絳攸のお説教タイムに突入した。広げた段ボールの上に正座させ、厳かなる「いいか」で始まり激高した様子など全くない冷静な口調でこんこんと語られるのは――。手が離せない彼の代わりに店番を仰せつかった私の耳に入ってくるのは、もうそれは事細かく、小さな罪を犯したがゆえに転落人生になっていく様を、まるで見てきたかのようにリアルに語られる怖い話だった。関係のない私でさえ、想像したら震え上がった。証言台で嘘を吐いた場合の、刑罰加算。先祖代々から将来、結婚した後、子供の話、さらに世界経済果ては地域紛争にまで及ぶ。これが一冊の本だったら読後感最悪かもしれない。
 多感な高校生君にはちょっときついかもしれないが、この手のお仕置きは物理的な制限による刑罰より心に響くだろう。と思ったら、少年はさめざめと泣いて謝っていた。
 格好つけたい時期の少年に、人目もはばからぬ大号泣をさせる彼はきっと天使の使者にも、悪魔の使いにだってなれるに違いない。
 最終的に高校生君は、絳攸とそして私にも「ありがとうございます。自分、間違ってました。これからはまっとうに生きます。お二人のことは一生忘れませんっ!」と言って深く頭を下げて去って行った。根はいい子なんだな、と感じるとすがすがしい。それもそのはず、いつの間にか夕暮れ時に差し掛かっていたのだから。多少なりとも暑さは納まってくれたようだ。
 蜩の切ない鳴き声が響き、傾く日はあの火鍋よりも赤く。
 値引きで粘る客もいるが、周りの店は片付けを始めていた。
 この出店の店主はいったいいつになったら戻ってくるのだろう。そんな疑問がよぎるのは当然の心理だ。
「俺たちも片付けるか」
 彼も気がかりなのか、いつもに比べてはっきりしない様子で言った。



 判型別や値段別にして、段ボール箱に本を仕舞い終わる頃。ふらふらとおぼつかない足取りで夕陽を背に藍色の羽織を着た中年の男がやってきた。お腹がぽってりと出た男は直観通り古書店主だった。暑さで気分を悪くした割には、赤ら顔なのが気になるが――。男は陽気そうに右手を顔の前で振った。
「お疲れ、あんちゃん。助かったよ。――おや、君は?」
 店長は私を見て目を丸くした。
「こいつは――」
 なぜ言いよどむんだ。数秒間をおいてから「知人です」。知り合いくらいの意味合いの言葉ではないか。谷崎純一郎先生の「痴人の愛」の痴人よりかは幾分上か。絳攸が、私がこの店を手伝うことになって万引き騒動の顛末を語る横で、とりとめないことを考えた。
「そりゃ大変だったね」
 話を聞き終った古書店主はそういって持っていたスーパーのレジ袋を渡した。きっとこの人が自分用に買ってきたものなのだろうが、素直にお礼を言って受け取った。中には缶ビールがちょうど二本。年齢は今夜に限ってとやかく言うのは無粋だろう。
 アルバイトの賃金代わりに本も一冊ずつ選ばせてくれたが、善意の手助けの志とはいえ労働に割りあう恩賞としては不足かもしれない。資本主義社会というのは経営者が労働階級に優越するのが常なのだ。それでも文句などあろうはずがない。あの店主が出店してくれたがために、彼と共有できるエピソードを得ることが出来、こうして並んで帰路についているという事実があるのだから。それに、彼は「楸瑛」と私の名前を呼んだのだから。
 そもそも彼と運命の出会いをするためにやってきたわけで、いつの間にか店を手伝い、自然に話せるようになって――。全然悪くないではないか。それにとても楽しかった。
 とっぷりと暮れてた静かな境内を抜け、通りの信号が青になるのを待ちながら、幸福な空気が私を包んだのだった。
「おい」
「ん? 私?」
「他に誰がいるんだ」
「いや、てっきりまた楸瑛、って呼んでくれるのかと思ったんだけど」
 怒るかなっと思ったら「楸瑛」と呼ばれてしまった。なにこれ。恥ずかしいんですけど。もしかして彼って無自覚にして最強のたらしだったりするのだろうか。そして私はその毒牙にからめ捕られたのだろうか。――恐ろしい。
「お前、家はどこだ?」
 答えると「ち、ブルジョアめ」と忌々しそうに返された。まあ確かにあの地域は富裕層が多いらしいのだが。
「こうなったら仕方がない。それ」
 彼の言う「それ」とは私が持つ、スーパーの白いビニール袋に入った麦酒のことだ。一応確認の意味を込めて袋を揺らす。
「うちで飲むか?」
 ここで断れる人間がいるのなら、ぜひその顔を見てみたい。そして思いっきり説教してやりたい気分だった。ここで引いたら余生ウン十年、折につけて思い出し後悔するに決まってる。馬鹿言ってないで素直に首を縦に振れ、と。