この古色奥ゆかしい地方都市においてすら、鉄筋コンクリート、室内にはエアーコンディショナー完備の物件が侵略を続ける昨今にして、家賃三万円以内管理費なしなどという、木造の格安物件は常に存在し続けるものだと悟った。私の住むアパートは経済成長と押し寄せる西洋文明の恩恵を受けたものなのだが、「ここだ」等の宣言なしに敷地内へと踏み入れたそこは、まさしく熱烈なニーズに応え続けている建物だった。 彼に続いて階段を登ればギシギシと音が鳴り、ドアが並ぶ回廊には洗濯機が置かれている。いやそれだけならいいのだが、何やらわけのわからないものが雑然と置かれ、錆た鍋やポッピングまで転がっていたりする。お札がやたら貼ってある扉なんてものもあり、その前を通り過ぎると妙に湿気をはらんで、でも冷たい風が首筋に吹き付けてぞっとした。絶対何かいる! か細い声で一枚…二枚…と小さく聞こえるのは気のせいだきっと気のせいに違いない! ここは番町でも皿屋敷でもないはずだ。 彼の部屋はそのお菊さん宅の隣だった。――試されているのだろうか。夏の夜と言えば、お化けのシーズン真っ盛りだ。 キィィと女の怨念がこもった叫び声の如く不気味な音を立てて彼が扉を開ければ、自分はつくづく即物的な男だと実感した。見えない恐怖よりも、すぐそこの触れられる彼だ。 玄関には今彼が脱いだスニーカーと、なぜか下駄。「お邪魔します」と小さく断って入れば、すぐそこは台所で、反対側に驚いたことに風呂とトイレがあるようだ。この手の物件は風呂トイレ付だとは思ってなかったのだ。 明かりがつく。広がる四畳半には青いプロペラの扇風機が置いてあった。 ついきょろきょろ見回してしまう。それなりに整頓されているが、隅の方には本が積み上がっていたりする。詰襟と学生帽はハンガーに掛けられていた。折り畳み式の小さな机を広げて、「座布団なんて高尚なものはない。座れ」と彼は高らかに宣言した。失礼かと思ったが言葉が口をついていた。 「ちょっと狭くないかい? 君結構身長あるし本が多い」 「でも四畳半は正方形だ」 「――君やっぱり変わってるね」 多少はその自覚があるのか、不服そうな顔をしながらも彼は黙った。 「さっそくやろうか」 机に缶麦酒と柿ピーを並べた。 「乾杯」 「乾杯」 彼の部屋に上がる前にせっかくなら酒屋で麦酒を増やそうと提案して正解だった。それを消費しながらとりとめなく話す。文学談やら対外関係、マスメディアについて話したと思えば、美味しい甘味の話や知り合いの噂までなんでもありだ。真面目一徹だと思っていたが、彼はいい聞き役であったし、それになかなか話し上手でもあった。 興味深かったのは彼自身の話だ。どういう素性の者か、なんて言い方をしたら武家社会っぽいが、彼はあんなんだからなかなか無駄話をする機会がなかったのだ。 仕送りはあるらしいのだが、親の希望を押し切って地元から飛び出てしまったため、振り込まれるお金を通帳にそのままにしているのなんて彼らしいではないか。だから安い物件を探して、駅までの距離と間取りの四畳半に惚れ込み、決めたと説明された。 家賃に生活費にその他出費――主に本の費用を稼ぐために、アルバイト三昧の苦学生というやつか。 「でも仕送りを使わないなら、君、授業料はどうしてるの?」 「本当ならそれも自分でどうにかしたいんだが、一足早く振り込まれてて。――感謝してる。だから俺はしっかりと学ばなければならないんだ」 話しながら彼が視線を送った方向を眼で追えば、そこには写真立てがあった。冷徹そうな父親とふんわりと笑う優しそうな母親らしい人の間に、今より少し幼い彼がどうしたらいいのかわからないといったようにはにかんでいるのが写っている。らしい、と表現したのは彼の両親は私の兄と同じくらいに見えたからだ。 私が疑問に思いながら訊くに訊けないでいると、彼の方から口を開いた。 「二人は俺の養い親だ。俺は捨て子だったんだ」 「そう、なんだ」 思わぬ告白に戸惑って、私が言葉に詰まっているのを見て、彼もなんだか困惑しだした。でも、なんとなく彼が写真を見つめていたその視線や、語り口調から自然と解ってしまった。 「よかったね」 「ああ」 彼は幸せそうに笑った。私も彼の両親に感謝した。 「でも、ここ何か出そうだよね。住人達もなかなか不気味だったし。裏に川が流れてるとなれば、雰囲気だけで満点だ」 調子を変えて明るく言えば、彼ものってきた。 「何かってなんだ?」 「何って、お化け」 「ああ、出るぞ」 「へえそうなんで…って、ええ!?」 思わず缶麦酒を落としそうになって、慌てて握りなおす姿を見て彼が「お化けじゃないがな」と笑った。 「ネズミに食料を荒らされたときは閉口した」 「え、ねずみが出るのかいここ!?」 冷ややかな視線を送られ、鼻で笑われた。言外にブルジョアめ、と言っているのだろう。そういえば外のガラクタ山の中に小さなかごがあったが、よく考えてみればあれはネズミ取りだったのか。 突然白熱電灯が小さくついたり消えたりを繰り返し、ちかちかするようになった。目に悪いし、なんとなく気持ち悪い。 「何故かいつも買い忘れるんだ」 ため息を吐きながら彼は「消すぞ」と確認を取ってきた。頷くとカチカチ、と音がして暗転した。しばらくすると目がだいぶ慣れてくる。 「月って意外に明いね」 私の言葉に応えるように彼は出窓のようになっている窓枠に両足をのせ、寄りかかりながら外を見た。 「時々こうして本を読むんだ」 「目が悪くなるよ」 「最近眼鏡が重くて目と耳が凝って困る」 彼は眼鏡を外す。その丸眼鏡は確かに重そうだった。 酔っぱらったせいと、一気に目が見えなくなったために多少おぼつかない足取りで、彼は四畳半を横切った。冷蔵庫を開けて顔を突っ込んでいる。 「おい、お前何か食べるか?」 「うーん。どうしようかな。何があるの?」 「何もないな」 ――これは彼の冗談なのだろうか。言葉に詰まった私をよそに、彼は真っ赤な物体を手に持って、また窓枠に座った。 麦酒を飲み、トマトに噛り付つく。瑞々しい赤い球体は、ドロリと彼の手にゼリー状の液体を落とす。それを舌で舐めとる様子は、薄暗い室内ではひどく蠱惑的に映って心臓が高鳴った。 「もしかして誘ってる?」 「何でだ。馬鹿だろお前」 「君に言わせば私は最高学府の学徒にはふさわしくないかもしれないけれど。――トマトになりたいな、と思って」 「無生物になりたいなんて、天下の人間様が聞いてあきれるな」 猛禽類の如く獰猛な眼をすれば、全く意に介さない彼は食べかけの赤い球体を放ってよこした。 「最後の一つだ」 一か所が、いびつに欠けたトマト。彼を熱く見つめながらそこに歯を立てる。だが肝心の彼は月に執心して、私にはきれいな横顔を向けている。熟れた果実はくしゅりと口の中で崩れ、欺瞞に満ちた甘さが広がった。 「ねえ絳攸。あれ、もう一度言ってよ」 彼はどうしようもない奴だ、とでもいうように月光に喉元を晒し、せせら笑いながら麦酒を煽った。 「自分自身の力でなんにでもなってみろ」 それは彼に心の蔵を射抜かれた日に、初めて聞いた言葉。そしてその日以来、何度も確認するように彼に「言って」と頼み込んでいる言葉。 「お前次第で何者にもなれる」 ずっと私は息苦しさを感じていた。斜に構えて若者らしく時には流され、時には逆らい。それすらもステレオタイプに応えるためだったと、私は冷ややかに分析しながら演じていたのだ。結局そうやって生きていくしかないと戦う前に諦めて―ー。同時に世界を変えるには自分が動かなければならないとも知っていた。それをする気がないのなら、私は周りが望むアイコンにしかなれない。 「満足か?」 酔っぱらって濡れた瞳。それでも彼の意志の強さはそのまんま。その魅惑的な光景にぞくりと背筋を震わせた。 その薄い唇を、真っ赤に染め上げてみたいという強い衝動が背筋からどうしようもなく這い上がった。私は獅子のようにすっと身を起こす。転がり落ちたトマトが畳の上で小さく揺れた。 私はそのまま窓枠へ近づき、彼に覆いかぶさった。 ――その言葉を聞いた瞬間、私は彼にどうしようもなく惹かれ、とてつもなく自分勝手な願望に支配されました。 彼を幸せにし、彼と一緒に幸せになりたい。 私は彼とこの先ずっと一緒にやっていきたい。そう強く願った。 |